今回は以下の様な方に向けておおくりします
- 無償の愛は存在するのか単純に疑問な人
- 無償の愛って一体なんなのか気になる人
- 無償の愛が存在するとはとても思えない人
- 無償の愛という言葉に偽善や綺麗ごとのにおいを感じる人
- 無償の愛があってほしいと思いつつも、その存在は現実的ではないと心のどこかで気が付いている人等
あんな尊いことどうしてできるのか、、、。
あんな清い心でき善い行いをする人がいる一方でなんでわたしはこんなに私欲にまみれて汚い心をしているんだろうか、、、。
本当に、無償の愛ってむつかしいんだなあ。
無償の愛ねえ、その概念自体が矛盾しているんだけどねえ。
人間が無償で何らかの行為ができるって思っているならそれ論理的に破綻してるよ。
それに無償の愛なんてものが存在していると思っていると、自分が苦しむことになるかも、、、、。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのオニギリです!
今回の話題は「人間に無償の愛があると思っているとメンタルを病むかもしれない」という話です。
はい、無償の愛を信じて人間を美化している人には悪いですが、行動分析学の「人間の行動はすべて目的的である」という前提から考えると「無償の愛は存在しえません」。
しかし、それでいいのです。
わたしは無償の愛なんて概念があるから自己犠牲が正当化されるし自己嫌悪も起こると思ってます。
「見返りを期待しない行動」なんてものは「行動である以上存在しない」んです。
人間を美化せず人間に過度の期待を持たなくなることで、メンタルが不安定になることは少なくなると思いますしそれでこそ相手と最適な心的距離感をつかめるというものです。
心の平穏こそが幸福への第一歩かなって思います。
自分が無償の愛を行えないということで自己嫌悪にさいなむ人にいいたい。
「無償の愛なんて初めから存在しない幻想だ!幻影を追ってもつかめるはずない。もう、自分の愛情のなさを責めることはやめよう。人にはいいとこも悪いとこもあるものだ。不完全こそ人間である証ともいえる」等と。
全ての人間関係は「与え与えられのバランスの上に成り立っている」のです。
これは親子関係であれ恋人との関係であれ同じことなんですね。
「一つとして例外はありません!!」
では、ゆるりとおおくりします。
目次
行動にはすべて見返りがある
行動分析学で言われる大前提に「全ての行動は目的的である」というものがあります。
つまり、「全ての行動には見返りが存在する」ということです。
この「見返り」というものを聞いて反射的に「あ、お金だ!」とか「あ、利権だ」、「自分の快楽だ!」という人は感情的になりすぎですね。
この「見返り」とはいうなれば「行動の目的」に相当するもの。
見返りには人間の思考、つまり「相手に笑ってほしい」とか「幸せになってほしい」なんて気持ちすら含まれるのです。
例えば、いかに具体例とそれに対する見返りを示してみましょうか。
・自分が大変な時でも相手のために行動する場合
これは自分のパートナーのような親密な関係の事例。
このような場合は、「自分の愛情の対象となっている人に対して感じる「辛そうだから何とかしてあげたい」という共感性に基づく感情を解消することが見返りになります。
つまり、個人差はあれど「共感性により感じる他者の苦痛を取り除く必要性が自分の現状の疲労よりも優先度が高くなっている」に過ぎません。
・パートナ―の家族もパートナー同様に大切にする場合
これも色々な解釈ができるでしょうが、「大切にする」という行動である以上目的が存在するのは明らかです。
もちろん、家族とパートナーとの関係がそもそもどうなのかにもよるでしょうが、基本的には「パートナーの大事な人を大事にすることでパートナーを喜ばせたい」等のものが見返りでしょう。
人は自分の愛着の感じる対象を「自分の身体の延長」のようにとらえる傾向があるとも言いますから、自分の家族をぞんざいに扱われるのは「自分がぞんざいに扱われるのに等しい」のです。
それをわたしたちはなんとなく感覚的にわかっているから、自分が大事にしたい人の親友や家族には基本的に友好的に接するというわけ。
・自分のことを犠牲にしてでも子供のために行動する場合
これが一番美化されやすいものでしょう。
しかし、生物学的な観点から考えると理にかなっています。
これは結局のところ、「自分の遺伝子の保存」が見返りといっていいと思いますね。
つまり、子どもを保護しないと自分自身の遺伝子が後世に受け継がれないから、自分を犠牲にしてでも保護しようとしているということ。
生物的本能といえます。
なお、この行動に関しては個人差がかなりあると思っていますね。
一般的にはこのような無償の愛は母親と関連付けられることが多いですが、父親でもこういう人はいます。
なんせ、うちの家庭の場合がまさにそれなんで(笑)。
ま、結局は遺伝子の保全なんですけどね。
・見ず知らずの困っている人に異常なまでに親切場合
見ず知らずの人に親切にするのはそこまで珍しいことではありませんし、そもそもわたしも人が笑顔になってくれるのはいい気分なので積極的に親切にします。
わたしの場合の見返りは「相手の笑顔や気分の良くなっている様子」。
人によってはその見返りは「困っている人に親切にしなかったことによる罪悪感や後悔の回避」かもしれません。
しかし、「度が過ぎた親切」とするとなるとまた話は別です。
普通に考えたら、本人の負担が大きすぎるであろう事態になってもなお人のためにやるなんて話になると言い方は悪いですが、「こいつ頭大丈夫か?」とすら思えてきます。
実は、わたしの家庭の場合父がかなり世間的に言うところの「無償の愛を実践する人間」です。
母は無償というほどではないものの、かなり利他心があるというか人間に関してかなり理想主義的な人間観をもった人ですね。
正直、我が家ではわたしだけが感情面では一番冷静でいるかと。
実際、幼少期のわたしはよく思っていたものでしたね。
「一体、何の目的でそこまで人に尽くすんだ。不気味だ、気持ちが悪い」と。
理屈が通らないので気味が悪い感じがしてました。
動機が本当にわからないので当惑してましたね
しかし、ある程度大きくなって心理学等を学ぶうちに「なるほど、そういう脳やホルモンの感受性等の仕組みでそんなことを考える個体が人間に出てくるのか」みたいにある程度納得したので、今は何とも思いません。
この手の無償の愛を実行していると思われガチな人は個人的におよそ「善の中毒者であるアンチサイコパス」なのではないかと思うようになってきました。
アンチサイコパスは人一倍他人の痛みに対して敏感なんですね。
これは研究によって示唆されていること。
相手の痛みに敏感でありみていられないから、「その自分の感じた精神的苦痛を除去するために他者を助けている」ということです。
見返りは「自分の心の平穏」なんですね。
ちなみにマザーテレサは実はサイコパスだったのではないか?なんて話もあるようですが、このアンチサイコパスと関係があるのでしょうかね?
まあ、彼女について詳しくはないので無責任なことは言えませんが、彼女も当然無償の愛の実行者ではないでしょう。
わたしたちと同じ人間ですから。
参考
http://happism.cyzowoman.com/2013/03/post_2043.html
アンチサイコパスについて詳しくはリンクからどうぞ。
マザーテレサについて深く知りたい人は以下の書籍を読むとより彼女の内面に迫れるでしょう。
彼女も一人間であったことがよくわかります。
参考
また、無償の愛を語りそれを実行する者には「メサイアコンプレックス」の陥っている人もいるでしょう。
この手の手合いは人を助けるためではなく結局は自分自身を助けるために人を助けている人間です。
ただ問題なのは彼彼女らの親切や優しさとは「自分の中にある優しさの押し付け」でしかないため、その優しさがそれを受ける人にとって害悪となってしまっている点で困りものなのですな。
メサイアコンプレックスについて詳しくはリンクからどうぞ。
ちなみに、無償の愛に基づく行動は心理学用語でいうなら、「愛他的行動」と言えるでしょう。
無償の愛は大いなる矛盾
もう、改めて言う必要はないかもしれませんが、全ての行動には見返りがあるので、「いわゆる無償の愛」にも見返りが存在することになります。
「無償」と言っておきながら「見返りが存在する」という矛盾がこの「無償の愛」という言葉にはあるんですね。
そう、この言葉自体が「矛盾の塊」ってことです。
しかし、無償の愛という言葉の響きは甘美で心のよわった人間たちの最後のよりどころのようになっています。
そのため、よく考えればおかしいこの言葉が未だに世の中に流布しているんじゃないかと思っています。
そして、やたら理想化され崇め奉られて「素晴らしいもの」のようにされるんですな。
しかし、そもそも然とか悪とかいう概念自体あいまいです。
利他心は社会の安定には不可欠ですが、その一方で人間はどこまで行っても利己的。
基本的に自分が死んでしまっては社会が存在しようがしまいが関係がありません。
かといって、人間は非力なもので自分一人だけで生きていくことはできませんね。
なので、社会に与え社会から与えられて生きていこうという戦略をとることになるのです。
それこそ相互扶助ってやつですかね。
それは必要だったから「目的に有効だからそうなっている」というだけのことであり、いわゆる善でも悪でもないです。
なので、そもそも利他が美徳で利己が悪徳という発想自体がアンバランスなんですな。
人間はみな基本的に「利己的であり利他的である」というだけ。
その事実をただ受け入れて、「利他も利己も評価しない」で十分だと思いますね。
結局、情けは人の為ならずという言葉の通り利他主義もよく考えれば「人のためにすることで自分のためにもなる利他的利己主義である」のですから、、、。
参考記事等
無償の愛は人を苦しめる
さて、わたしはなぜここまで「無償の愛」をここまで否定しようとするのか?
理由は簡単です。
無償の愛なんてものがあるせいで、自責の念を持つ人がたくさんいる、、、それだけですね。
特に顕著なのは「わたしは子供に無償の愛を注げないダメな母(父)だ」と悩む両親がこの社会には思いのほかたくさんいるということ。
無償の愛なんて理屈で考えたらありえないのに、自分が無償の愛を注げていないという自覚で自責の念にとらわれて苦しんでいるんです。
「わたしは良き母(父)でなくてはいけないのに、、、」
「親であれば子供に無償の愛を注げないといけないのに、、、」
実現不可能な概念が社会で賛美されているし、社会側も「無償の愛を親子における最上の美徳」のようにかたり、それを親たちに押し付けようとする始末。
いっそこんな理論的に破綻している概念が世の中から消えてくれれば少しは気が楽になる人がふえるんではないかって気がします。
だから、わたしは「無償の愛を徹底して否定する立場を取ります」。
それに恋愛において相手に「無償の愛」なんてものを要求するとしたら、それはどうなんでしょうな、、、。
相手に要求するのは自由ですが、理想が大きいほど絶望も大きいもの。
それに、そもそも恋愛をうまくいかせたいのなら自分自身の努力も不可欠ですからねえ。
冒頭でも述べた通り、人間関係では「与え与えられのバランス」が重要なのでどちらかが一方的に損をし、もう一方が得だけをする状況は関係の破綻を待つばかりなのです。
「まあ、自分のことを一番に考えてくれることが多い人がいるといいな」と軽く思うくらいならいいですが、要求するとなるともうね(笑)。
夢など見ない方が身のためってやつです。
というよりも、「与えてほしい」とばかり思いそれがまかり通ると思う図々しさには心底あきれるほかありません。
「人に与えてほしくばまず自分から与えよ」ということです。
「私に愛を注いで幸せにしてほしい」等というのなら、「ではあなたは私の幸せのために何ができますか?」という相手からの無言の問いに答えられねば愛を受ける資格がありません。
そんな人がまずすべきことは「自分自身への想いやりや自尊心」であり他者からの恋愛感情ではないでしょう。
参考記事等
無償の愛という理想を追うものは不幸になる
心理学でいわれることに「幸福を追求すると不幸になる」というものがありますね。
これは理想的な「幸福という状態」を意識して追い求めると、その理想状態と自分の現状を比較してしまい「今の自分は不幸である」と考えてしまうからです。
これは実現不可能な理想を掲げる人にもいえること。
良き親であるために愛情深くあろうといくら努めても「無償の愛には絶対にたどり着けない」ので、徒労感とやるせなさしか残りません。
無償の愛を理想としている人はこんなことになったりします。
確かに、子供に親身に接するのは大事なこと。
でも、親である以前に自分が一人の人格ある人間であることを忘れてはいけないのです。
もっと、自分を思いやらないとね。
無理なものを追ったら燃え尽きたりノイローゼになりますね。
いわゆるきれいごとの中には「信じる事で人生を前向きに考えられるもの」があるのも確かですが、無償の愛に対してはあまりいいものだと思えませんね。
もっと現実的な価値を追い求めていきましょう。
人生における価値の設定に関しては以下を参考にしてみてください。
参考記事等
無償の愛なんてなくても救いなんて自分で作りだせる!
「無償の愛」という言葉の甘美さにはすさまじいものがあり、救いがないと感じる人の中にはこぞってこの幻想を信じようとする人がいます。
でも、結局人生をどうにかできるのは自分だけなんですよね。
カウンセラーがやっているカウンセリングとかもそうでして、あれは「人を助けている」とか「救っている」なんてそんな大層なもんじゃないんです。
結局やっていることは、
「本人の生命力を信じ信頼して対等な立場でチームを組んで本人が精神的に立ち直る手伝いをしている」
にすぎないといえるかと思います。
救われているのではなく、「救っているのは自分」であり「救われるも救われないも全部自分次第」ということです。
上述したように、愛が足りないと思う人は「もっと誰かから愛がほしい」といいますが、そもそも「他人から愛をもらっただけで解決はしない」ことが多いでしょう。
愛を他人から受け入れるには、「自分が自分自身を愛していないとね」てことがあるのです。
これが「今のあるがままの自分を受け入れる感覚である自尊心が高い」、「自分の不完全さを認め許す」という思考として現れてくると思われます。
他人からの愛情を受け入れる以前に自分が自分に思い遣りをもって接しないと話にならんのです。
自分を救うのは常に自分。
「他の誰にもあなたは救えない、決して」
しかし、
「あなたには自分を自分で救うだけの十分な生命力がある」
無償の愛ではなく共感と自制心こそ人間関係のかなめ
愛情とは相互的なもの。
結局、愛情は与え与えられのバランスの上に成り立っています。
それに目をつむっていると、恋愛でも結婚でも「相手がわたしに何もしてくれない(本当にしてくれない場合は除く)」とばかり言い、要求するばかりでは関係が破綻しますね。
愛は一方通行ではないんです。
やはり、好きで付き合ったり結婚したのであれば自分から相手のことを考えて率先して行動していくのが望ましいと思います。
そのためには共感性をもって相手のニーズを冷静かつ的確につかむことが肝要。
ですから、個人的には瞑想等を通して共感性やセルフコントロール能力、つまりは自制心を養うことが必要だといえるでしょう。
瞑想や共感性については以下からどうぞ。
そして、男性の話ですがパートナーと長期的な関係を保つためには誠実さが大事だとする研究結果があったりしますね。
また、恋愛においてはそもそも相性とかはなくて成功するかはメンタルの安定にかかっているとも言います
ついでに結婚が破綻しにくくなる秘訣についての記事も置いておきますねー。
気になったらどうぞ。
参考記事等
無償の愛はなくても利他と利己のバランスとればOK!
この記事は「人間に無償の愛があると思っているとメンタルを病むかもしれない」と題しておおくりしました。
もう、人間に対する過度の美化はやめましょう。
かといって、人間の本質は悪であると考える必要もないです。
そもそも、人のために行動するという利他主義も詳しく見てみれば「回り巡って自分のためになるからの行い」に過ぎません。
利他が善で利己が悪という思考自体がはなはだアンバランスです。
利己と利他はアクセルとブレーキのようなバランス感覚の大事な感覚なんですよ。
そして、無償の愛なんてそんな概念は矛盾の塊。
人が幸せになっていくのに必要なのは良好な人間関係ですが、それは共感性と感情に振り回されない自制心によって実現できると思います。
共感性と自制心があれば、相手の心との距離感をしっかりと図ってお節介にならないように行動することもできますしね。
そして、善意が報われない確立は減り、報われなくても気にも止めないでいられるのです。
幸福は心の平穏から、、、そんな気がします。
では、よき人生を!
参考記事等
いわゆる自己啓発は怖い?意味ない?ちょっと考えてみたいと思う
「愛なんてわからない!」なら愛は知らないままでいいから無理すんな
『無償の愛』の存在を信じる事のメリットデメリット「全ては有償の愛」
無償の愛がほしいと思ったら危険「無償の愛をくれる男性も女性もいない」