究極の利己主義は利他主義?究極の利他主義は利己主義?善悪は快不快。
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「なんだか最近疑問なんだよね。利己主義はよくないって言われるけど、よく考えたら自分が人を笑顔にするのが好きだから人に親切にするっていうのも広義には利己主義なんじゃないの?なんだか、利己主義と利他主義の違いが分からなくなってきたなあ」

オニギリス!

脱マンネリストのオニギリです!

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「利己主義の究極系は利他主義になるのではないか?」、また逆に「究極の利他主義もまた利己主義なのではないか?」という話題です。

正直いいますね、私は究極的な利己主義者です、きっとね。

世間的には私が利己主義と聞いて、嫌な奴だとおもう人は多いでしょう。

まあ、自分でそんなこと知っているし、納得しているんでいまさら批判されたところでどうでもいいですが。

私は利己的ですが、人を笑顔にするのは好きだし、どうせなら一緒にいる人には楽しんでもらいたいです。

早い話、私が人を笑わせようとするのも、人の話を聞くのもそれが楽しいからというだけです。

それが私にとっての「利益にほかならないのです」

私は幸せで元気な人が増えると自分の気分がいいから人の話を聞いたり、人が元気になるヒントを提供しているだけなんです。

感謝されると気分もいいですしね。

実際、私の動機なんてそんなつまんないものです。

「人を救うために私は生まれてきた!」みたいな熱い使命感なんて微塵をありません。

「なんや使命感って??なんか、あんさん随分と自分に厳しいんやねえ」て感じです。

でも、結果感謝されることも多いし何も問題ないと思っています。

はい、ここで質問。

利己主義って一体なんでしょう?

まあ、一般には自分が得しようとする考え方ですよね。

今日は利己主義もとらえようで利他主義になるから、あんまり自分の性格が利己的だから悪いとか責めなくていいという事を主観バリバリだけど、お伝えしてみたいなと思ってます。

はい、非道徳?

ああ、そうですね、私はですね、人は気楽に生きられるのが一番だと思っているのでいわゆる善とか悪とかにそこまで興味はないです。

そんな概念に縛られる気はさらさらありません。

ま、気楽にいきましょ。

そんな、目くじら立てることもないでしょ。

では、ゆるりとおおくりします。

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1、善悪なんて結局「快か不快か」でしかない

はい、善悪の区別ってなんでしょう?

まあ、いろんな考え方があると思うんです。

判断の基準は様々です。

倫理だったり法律だったり自然の摂理だったり…

さあ、どれが判断基準として相応しいのでしょう?

これは主観になってしまいますが、「どれもあり」だと思っています。

その人が取る立場や目的で何が正しいか間違いかなんてすぐに変わるとおもっています。

言い方にごへいがあるかもですが、「この世界に善悪なんて存在しない」ということです。

結局、人の数だけ正しさも悪さもあるということです。

お互いの善悪は似ていてもそれぞれに違うのです。

これは私の立場ですが、人を純粋に生物として考えてみましょう。

人が好む行動は「快」を得られる行動です。

逆に、「不快」を伴う行動は避けようとする傾向がありますよね

結局、突き詰めると人が「快を感じる=善」、「不快を感じる=悪」という事になります。

原則はこれに尽きるはずです。

さて、あなたはどんな時に快と不快を感じますか?

きっと、それがあなたにとっての「善悪」でしょうね。

2、人間はみんな利己主義

人間なんてみんな利己的です。

所詮、人間なんて動物ですから。

これはただの事実としてそうだと言うだけです。

あなたがつらそうな人をみて「かわいそう」と思い助けようするのは、あなたが感じる「こころの痛み」という不快をとり除き「快」の状態に近づきたいからというだけです。

その感情自体が尊い訳でもなんでもなく、ただ「あなたは不快を取り除きたいから助けている」にすぎません。

そして、助けるという行動により「快」をえるんですね。

「一般に利他的と思われる行動」も「自分の快のための行動」にすぎないのです。

そう考えたら、「いわゆる利他的な行動」も利己的な行動になるのではないでしょうか?

これはあなたに備わった「共感性」、正確には脳の「前頭葉腹側の働きによる熱い認知のせい」です。

私が人を笑顔にしたいのも、それがわたしにとっての「快」だから、それだけです。

人に感謝されるとなんだか嬉しいのも「快」です。

結局、みんなそれぞれに快を追求しているにすぎません。

感情も見方によっては脳や体のプログラムの一環でしかないのかもしれません。

みんな人は程度の差はあれ「快」を求めて生きるようプログラムされています。

だから、いわゆる「利己主義」なんてもう仕方ないことなんです。

みんな利己的で自分勝手よ!

だから、利己主義であることに罪悪感を持つ必要はありません。

私はいつも新しく仲良くなった人にいってます。

「私は利己主義を極めし者!あなたの笑顔を頂くぞ!」

とね。

ええ、快には貪欲なんです(笑)。

3、利他はいいけど犠牲だけは容認するな!

実は利己主義はあなたが幸せになるために不可欠な考え方なんです。

当ブログで何度も登場していただいている心理学者のアダムグラントさんが著書「GIVE&TAKE」にて、人生で「いわゆる成功者」となるためには人に惜しみなく与えよと述べています。

彼は人には3種類いると言います。

  • おしみなく与える人
  • 奪う人
  • 与えることと奪うことのバランスを取ろうとする人

実は、社会の上の方にいるのは与える人なのです。

これだけ聞くと利他主義、つまり人のために行動しようとする人が得をする気がしますね。

厳密に言うなら、人のためになることを「快」と感じる人ですが。

しかし、最低辺にいる人も与える人だといいます。

なんで、こんな変な事がおこるのか?

この差の元凶は「自己犠牲」です

与える人が自己犠牲をするとき、奪う人達から食い物にされてしまいます。

「あいつはお人よしだ。押せばこっちの要求をとおせるぞ」

なんて自己犠牲をする人は奪う人から狙われています。

それが与える人が最低辺にいる原因なんですね。

言ってみれば、自己犠牲をする人は「快」を我慢して「不快」に甘んじていることになります。

自分の「不快」を誤魔化すのではなく、自分の「快」に忠実なった方が幸せにいきれるんではないでしょうか?

自己犠牲をする人はもっとわがままになりましょう!

自分も「快」をえられるし相手も「快」を得られるのがベストです!

あなたが「不快」であいてばかりが「快」を得る要求なら突っぱねた方がいいですね。

はい、ふざけんなて話です。

とはいえ、自分に価値をかんじないから主張できないなんて人もいるかもです。

はい、そんな人達には以下をご用意しました。

・「自分はやればできる!」と思えるようになりたいならこちら。

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もっと、自分にやさしくしましょ。

4、中途半端な利己主義者は最悪

私はさっきから自分を「究極の利己主義者」と言っていますよね。

そう、利己主義は利己主義でも「究極の」です。

これはどうしたら「人生で感じる不快を最小限にして、快を最大化できるか」を徹底して追求する姿勢を持っているという事です

「いわゆる利己主義者」は中途半端なんです!

自分が将来的に快を得られるかどうかの見通しが甘い!

「快」にも「短期的な快」と「長期的な快」があります。

現代社会は色んな規制があるし、さきほど言ったように多様な善悪があります。

自分の善悪を貫こうとするとあつれきが生じますよね?

そのあつれきは多くの人にとっては「不快」です。

だから、大抵その不快を避けようとして「短期的な快」を諦めます。

しかし、場合によっては「将来得られる莫大な快」のためにあつれきを起こしても突きすすむ人がいるんですねえ。

つまり、「長期的な快で今の不快は帳消しになるから」突き進むわけです。

このように「快不快」を長期的かつ戦略的に考えられるかどうかが大事なんです。

この視点がないと「いわゆる利己主義者」になります。

愛想は悪いし不親切だし悪口ばかり言う、、、

もしかしたら、こんな人は他人を不快にするのが「快」なのかもしれないですね。

でも、それが自分の将来被る「不快」と比べて大きいのでしょうか?

心理学の研究によると、人が幸福になるには「良好な人間関係が大事である」といいます。

詳しくはこちら。

つまり、理論的には人に不親切であることや愛想が悪いことは割に合わないのです。

これは直感的に私達の多くが気づく事実のはずです。

なのに、原因をおいておくとしても、短期的にしか考えられないせいで目の前の「快」を取っているって話です。

実に愚策です。

これは犯罪を起こす人にも言えますね。

「快を得るために」法を破った結果、「法により罰せられるという不快」をのちのち感じることになるわけです。

ただ、快不快の基準があまりに一般離れし、かつそれを追求する衝動が著しいとき、法は何の抑止にもならなくなります。

特に、共感性が低いと、人の痛みで不快を感じないのでちゅうちょなく行動できますね。

例えば、殺人狂は人を殺害するのが快です。

法に触れることは分かっていても、得られる快が「本人にとっては大きい」ためちゅうちょしないのです。

こう考えると、共感性があるおかげで人の社会はまとまっているといえるのかもしれません。

中長期的かつ戦略的な視点を持たないと人生では快がかなり少なくなってしまいます。

中途半端に利己的な人は本当に今の「快」を取ることが、「将来の大きな快を得るために役立つのか」を考えてみてはでしょうか?

世間的に見て「利他的に見える利己主義」こそ本当に役に立つ利己主義だとおもいますぜ?

まあ、長期投資だと思ってやってみませんか?

学問的にも裏付けはあるんですから。

5、利他主義も過ぎると害悪

一般的には人に尽くす事はいいことだと言われています。

まあ、私はこの「人に尽くす」という言葉が何より気持ち悪いのですが…だって「尽くす」ですよ??

自己犠牲を推奨しているみたいで甚だ不快です。

まあいいや、それはおいといて、、、

いわゆる利他主義も度を超すと単なる害悪になります。

いわゆる利他主義もきわめると聖人になるとは限りません。

最近よく取り上げられるようになってきた「サイコパス」は共感性がなく自分の利益しか眼中にない人達ですが、実はこの逆の人達がいます。

「他人の利益しか眼中にない」人、、、

それが「アンチサイコパス」という存在です。

アンチサイコパスは人のためならルールを破ってで目標を達成しようと行動します。

アンチサイコパスは時にハタ迷惑だったり、お節介だったりする人達です。

実はサイコパスとアンチサイコパスには共通することがあります。

それはどちらもある意味の中毒状態であるということです

どちらも、「快に対する中毒状態」であることに変わりありません。

違うのはその「快の対象」が何かだけです。

言ってみれば、」意識の向きの違い。

そう、

  • サイコパスは自分の「快」に意識が向いている
  • アンチサイコパスは他人の「快」に意識が向いている

それだけの違いですよ。

そして、外から見るとどっちも「ヤバいヤツ」に見えるんですよ。

どっちも「目標達成ののため全力でルールをぶっこわす」て感じですから。

そういえば、メンタリストのダイゴさんが今話題のN国党の立花孝志さんがアンチサイコパスではないかと言っているようですね。

彼はどうなんでしょうな?

私はよくわからんですが。

まあ、それはさておき

快の中毒状態になると戦略もクソもなくなります。

ですから、まあ、いくら「いい人」であっても迷惑ですね。

つまり、利他の心でやっているとかいくらいっても、まわりからしたら「いわゆる利己的な人」に見えてしまうこともあるって話ですね。

人のためになるのを「快」と思うのは個人的にいいことだとは思いますが、やっぱり程度が大事です。

薬も飲み過ぎると毒であるように、いくら一般に善とされるものも度を過ぎたら悪と変わんなくなります。

バランスって大事です。

おわりに

この記事では「利己主義の究極系は利他主義になるのではないか?」、また逆に「究極の利他主義もまた利己主義なのではないか?」ということについて述べました。

まあ、かなり大雑把に述べたので反論やらなんやらいろいろあると思います。

それに厳密性に欠けているなあとも思わなくもないです。

しかし、この記事の目的は「自分を利己的であると悩んでいる人」や「充分いい人なのに自分を責めている人」に自分を責める必要が無いという事を訴える事」です。

理論的にどうこうと突っ込みどころは満載ですよ、そりゃ。

多分こんなテーマは本来研究論文とかで厳密にやる内容です。

それこそ学者が一生をかけて、、、

私程度の門外漢の浅知恵で攻略できるようなもんじゃないです(笑)。

でも、自分を利己主義だと責めている人が

「あー、人間なんてみんな利己的なのかあ。じゃあ、私の場合は程度の問題なんだ」

とか

「あんまり、思いつめなくていいや。どうせみんな利己的なら、私ももうすこしわがままでもいいかも」

なんて考えて自分を責めることが無くなったらいいんですわ。

ま、いいんす。

人生楽しくてなんぼ。

気楽にいきましょ。

最後に自分に優しくする方法おいときやす!

では!

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