きれいごとばかりいう人こそ不道徳的だったりする理由。道徳は増減する!


今回は以下のような方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ
  • きれいごとばかり言う人が嫌いな人
  • きれいごとが嫌いな人
  • きれいごとをよくいう人から凄くうさん臭さを感じるのは何故なのか気になる人
  • 話しのネタが欲しい人等
名無しの猫氏
なんだか、最近すごく思うんだよね。

感謝感謝と感謝を連呼している実業家ってすんごい胡散臭い!

なんか、言葉にできないけど。

結構前にも、日頃から感謝を口癖のようにいっていた実業家が詐欺の容疑で逮捕されたというのがあったし…なんでうさんくさく感じるのかなあ?

うんうん!

めっちゃわかる!


オニギリス!

脱マンネリストで心理カウンセラーのオニギリです!

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「きれいごとばかりいう人こそ不道徳的だったりする理由。道徳は増減する!」という話です。

なぜ、私達は「きれいごとばかりいう人をうたがうのか?」、「きれいごとばかり言う人に非道徳な人が多いと感じるのか」、それをあきらかにしていきましょう!

ちなみに、いわゆる「きれいごと」を言うこと自体がダメだという事はありませんよ。

きれいごとを信じる事も人生を幸せに生きるためには重要です。

では、ゆるりとおおくりします。

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きれいごとってなんだろう?

 さて早速ですが、きれいごとってどんなものでしょうか?

例にならって辞書で調べてみると

 実情にそぐわない、体裁ばかりを整えた事柄。「もはや綺麗事では済まされない」「綺麗事を並べる」

 手際よく美しく仕上げること。

「―でなくってはいけねえから、折角骨を折って詰めさせたに」〈滑・八笑人・初〉

引用元https://kotobank.jp/word/%E7%B6%BA%E9%BA%97%E4%BA%8B-480546

んー、なるほどって感じですね。

2番目の意味は「きれいごとをいうな!」とかで使われるきれいごとではないので置いておきます。

問題は1番の意味ですね。

この定義からすると「きれいごと」の条件は以下になりますね。

  • 実情にそぐわない
  • 体裁ばかり整える

では、きれいごとってどんなものなのか、具体例を考えてみましょう。

例えば、きれいごとの例をあげると

「職業に貴賎なし」

「話せばわかる」

「努力は報われる」

「人は中身だから中身さえ良くすれば必ずモテるようになる」

「社会の皆が幸せになるべきだ」

「地球の全ての人が幸せでなければならない」

とかでしょうか?

あなたはどう思います。

「そのとおり」とおもいますか?

それとも、「うさんくさい!へどがでるわ!となりますか?

ん?私ですか?

私は「あらそう。あなたはそんな世界がすきなのね」でおしまいです。

他には何とも思いません。

思うのも言うのも自由です。

別に実害を加えてこない限り戦う必要なんてないですから、意見の違いなんてどうでもいいですね。

むしろ、違いを楽しんでおります!

それにわかりあえる時はわかりあえるし、無理な時は無理ですよね。

それはともかく、上記のきれいごとに反感を持つ人はなぜ反感をもつんでしょうか?

確かに、「努力は報われる」とは限らないし、「職業に貴賎はない」もおそらく無理です。

社会を構築する上で「便宜的な貴賎」が無いとこまることがあります。

そもそも、職業の貴賎どころか誰の生命にも何の存在にも本来意味も価値もないでしょう。

恋愛の大原則は「外見的魅力のつり合い」であるため、モテるようになるためにはまずはよしから良くしないと始まりません。

勝手に、人間の都合で価値や意味が付いているだけです。

そして、社会の全ての人が幸せは土台無理、話してもわからない人はいくらでもいます。

どの発言も現実を無視した発言でしょう。

いってみれば、過度に理想主義的ですね。

「あんたさあ、そんなこと本当にできるとおもっているわけ?バカなの?」

と人によっては言いそうなくらいどれも理想的すぎます。

私はきれいごとを言う人が大嫌いだった時期があります。

その時は、

「そんな、実現できるかもわからない理想を言ってなんになる?それを実現するための具体的な戦略はあるのか?目標立てるなら現実を加味してくれよ」

と思っていました。

なので、「世界の人が全員幸せに」なんて聞くと

「そもそも、どうやって全員が幸せになったと証明する?それに誰かの幸せが誰かの不幸によって成り立つ場合には矛盾が起こるぞ?バカですか、あなた?」

と思ってましたね。

「実現もできないことをいうな、無駄な事を言うな、現実にしたいなら具体的な策をだせ、行動しろ」

こんな気持ちでした。

きれいごとを言う人がバカか何かに見えてかなり不愉快でした。

つまり、当時の私からすると

「きれいごと言うやつはただ無駄な事を言うだけの暇つぶし野郎」

だったんです。

それが当時、私がきれいごとを言う人がうさんくさい、又は嫌いな理由でした。

 
まあ、今はそんなこと思いませんけどね。

いいたくもなったりしますよ、なんか世の中変な事多いですからね。
 

実は、人生を前向きにきるためにはきれいごとを信じるのも大事なのです。

将来が漠然とでもよくなるとか思えなかったら心理的に生きるのがしんどくなってきますからね。

きれいごとを言う人は差別的?

自然, 木, 霧, 領海, 雪, 湖, 水, ミラー, 反射, パノラマ, ヘイズ, 冷, 冷ややかです

先ほど、きれいごとを言う人が嫌われたりうさんくさく思われるのは、「現実味がない自分の願望を垂れ流しているだけで無駄な事を言っているからではないか」と言いました。

とはいえ、果たしてそれだけが原因なんでしょうか?

もうすこし、みていきましょう。

 ここで少しおもしろい? 理論を提示致しましょうか。

それが「道徳の貯金理論」というものです。

この理論は

過去に道徳的振る舞いをする人としての地位を確立した人は、非道徳的振る舞いをしやすい

というものです。

そしてまた、この理論によると

道徳は貯金のように増減するものだ

といいます。

この理論に関する実験が2001年プリンストン大学で行われました。

参考http://www.ask-force.org/web/Discourse/Monin-Moral-Credentials-Prejudice-2001.pdf

この実験の結果を要約すると

きれいごとを言う人は無意識的に道徳の貯金がプラスになったと感じ、現実では差別的になる」

となります。

さて、この結果は何を私達に提示しているんでしょうか?

以下は私的な考察です。

そもそも、「道徳的なふるまいをする人」という地位を得たら、その後の評価もその地位の影響をうけます。

例えば、学生時代を思い出してみてください。

優等生がやった行動は何かと先生から高評価でヤンキーは何をやっても「どうせお前のことだから」みたいにマイナス評価をうけやすかったとかありませんでしたか?

これと同様のことが、道徳的な人という地位を得た人にもいえます。

一旦地位を確立すると、多少非道徳的なことをしても

「いやいや、あの人は道徳的な人だから今回の行動には、きっと何か理由があるんだよ」

なんて周囲が援護してくれやすくなります。

これが地位を得た人には想定できるため、気が緩みます。

「まあ、少しくらい非道徳的なふるまいをしてもみんな多めに見てくれるだろう」

と。

※心理学的にはモラルライセンシングといわれるものである。

すると、安心して非道徳的なふるまいが多くなるのだと考えられます。

そして、きれいごとを言うと、人は自分が道徳的な行いをしたと無意識で思います。

それがつづくと、人は自分が道徳的人間としての地位を確立したのだと思って安心します。

そうすると、非道徳的な行いが増えますね。

で、結果的に何が起こるか?

それは「いっていることは道徳的」、一方で、「行動は非道徳的」という状態です。

しかも自分では「自分は道徳的だ」と思っているから余計に事態は悪化します。

心理学的に、人間は「一貫性」を重視します。

行動と言動が一貫しない人は信用されません。

きれいごとばかり言う人から感じるうさんくささの正体とは、まさにこの「言動と行動の一貫性の無さ」に起因すると思われます。

そして、初対面できれいごとばかり言う人を私達が怪しいと思う場合以下の原因が考えられると思います。

・過去にきれいごとを言うくせに非道徳的だった人を見た経験がある

・実際の言動と行動が一致していない

特に過去にきれいごとを言うくせに非道徳的だった人を見た経験があると、ギャップが大きいので記憶に残りやすいです。

「きれいごとばかり言う人は怪しい」という思い込みが出来上がってしまう可能性があります。

すると、次にきれいごとばかり言う人をみるとその人の「非道徳的な行動」にばかり目がいくようになります。

そして、

「ほらやっぱりきれいごとばかり言うやつにろくなやつはいないじゃん」

などと「きれいごとばかり言う人は非道徳」という思い込みが次第に強化されていきます。

このような思いこみを確証バイアスといいます。

最終的に、私達は

「きれいごとばかり言う人=非道徳」

という公式を心の中につくりあげてしまうんですね。

こうなると、もうその都度判断なんてしません、きれいごとばかり言う人を見た瞬間「うさんくさい」という印象を自動的に持ちます。

あともしかしたら、私達は本能的に「きれいごとばかりいっていると非道徳的な行動が増える」とわかっているなんてこともあったりしますかね(笑)。

きれいごとを言うのはいいがほどほどに

 はい、以上から私が皆さんに良好な人間関係を築くためにお伝えしたいなあ、と思う事は一つです。

「きれいごともほどほどにな!☆」

てことです。

まあ、そりゃ幸せな人が多いのはいいことだし、話せばわかるとも信じたいですがね。

あんまりきれいごとを口にしていると、「私は道徳的な人間だ」という意識が強くなって行動が非道徳的になって人の信用を失うかもしれません。

特に「きれいごとが好きでツイ言いたくなる人」は注意しましょう。

人道的な理想が高いのはいいことです。

でも、だからこそその道徳性を自ら損なうようなことはしないでほしいのです。

思っていてもあまり言わないのがいいと思います。

どこぞの時代劇の登場人物よろしく、「世のため人のため」みたいなことを言いまくるのはよした方がいいですよねえって話。

自分は道徳的だとおもっているのに周りからみたらとんでもなく非道徳的だなんて笑えないし、自分が一番辛いですよ。

自分を客観的に見るために瞑想に取り組んでみるのも手かもしれませんね。

まとめ:綺麗事ばかり言っているといい事してる気になるだけで危険

 この記事は「きれいごとばかりいう人こそ不道徳的だったりする理由。道徳は増減する!」と題しておおくりしました。

きれいごとばかり言う人からは何とも言えないうさん臭さを感じるものですが、その理由としては以下が考えられましたね。

・理想的にすぎ現実味がなく信用できない

・言動と行動が一貫していない

・過去の経験から「きれいごとばかり言う人=非道徳な人」という強い思い込みが出来上がっている

そして、道徳の貯金理論に基づけば、私達が道徳的にあろうとするならあまりきれいごとは言わない方がいいということになります。

まあ、あんまりきれいごとは言わず、意思を示すなら実際に行動していきましょう。

行動が世界を変える! 

では!

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