「マザーテレサが愛の反対は無関心だって言っていたらしいが、よくまあ思いついたなって感じがするわ。本当、上手いこと言うよなあ。」
ふむ、まあ確かになあ。
中々に、聞いていて「おお!そうきたか!」て感じの発想だわねえ。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「愛の反対は無関心は嘘か本当か?意味不明?マザーテレサは言ってない?」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
- 愛の反対は無関心という言葉は妥当なのか気になる人等
- 話のネタを探している人
マザーテレサさんが言ったとされる「愛の反対は無関心」という言葉、中々に深い感じがするしよくぞまあこんな言葉思いついたよなって少しその視点の特異さに目を見張りますよねえ。
ただ、この斬新な意見は果たして妥当なものなのでしょうか?
ちょっと、検証してみてくなりますよねえ。
という事で、「愛の反対は無関心」が果たして妥当なのかどうかについて少し今回は考えてみたいと思う次第。
ここで一瞬だけ宣伝?ですが、「悩みがあんよなー」て人も「ただ誰かに愚痴を言いたいねん!」て人も悩みが重症化する前に頭をクリアにしてみませんか?
おにぎりのカウンセリングについて詳しくは以下。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
「愛の反対は無関心」という言葉に込めた思いって何?
マザーテレサさんが「愛の反対は無関心」といったというのは結構有名な話ですが、さて、この文は妥当なんてしょうか?
まずは、国語的に検証。
愛の対義語という事で辞書をみらべると、やはり「憎」の文字が、、、。
参考
https://taigigo.jitenon.jp/word/p4
うん、やっぱりね、純粋に語彙の意味だけで言ったら「憎」が正しいようです。
ということは、どうやらこの言葉は、言葉本来の定義を超えたテレサさんの独自解釈と考えてよさそうですね。
さて、ではこの言葉に込められたテレサさんの思いとは、一体どんなものだったのでしょうか?
まあ、ネットを調べる限りではあまり確度の高いことは言えませんが、どうやらこの言葉には
「他人の痛みや苦しみに対して傍観者であることはよくない!」
という強い思いが込められているといえそうです。
ふむ、確かに、他者の痛みや悲しみといったものを別の人が理解することは、その痛みを感じる当人ではないため「絶対に不可能」ではありますが、「なぜ、苦しんでいるのか?」とか「なぜ、悲しんでいるのか?」と関心を寄せることができます。
つまり、興味を持つ事は可能だってことですね。
そうして、他人の苦痛等に関心を寄せるという事は、「苦しむ当事者の苦しみを和らげるには何ができるか?」といった思考を生み出すでしょう。
しかしそもそも関心、つまり興味自体が欠如していたなら、その苦しみの存在を認知することもできない訳で、そうなったら「愛」と呼ばれるものもそこには存在しえないでしょうね。
となると、これは当たらずしも遠からずって感じなんですかな。
なんだか、段々不毛な言葉遊びになってきた感がありますが、テレサさんのこの言葉に込めた思いを考慮すると割とこの「愛の反対は無関心」という言葉は妥当な感じがしてきます。
愛の反対は無関心は妥当なのか?
さて、なんとなくテレサさんの込めた思いを考慮したら「愛の反対は無関心」という言葉は妥当な気がしてきますが、、、、まだ少し続けましょう。
じゃあ、今度は生物学とか心理学とかそっちの方面から検証してみましょう。
そのためには、「愛」というものが「どういったものなのか」を明らかにする必要があります。
、、で、はやくも悲報ですが、心理学では愛の定義が十分になされていません。
また、人を純粋に生物としてみても、完全に愛というものを説明できるか怪しいですねえ、、、。
ただ、俗に「愛情ホルモン」と呼ばれるオキシトシンに焦点を当てて愛を説明しようとするなら、「愛の反対は無関心」というより「愛と無関心は反比例する」という感じかもしれません。
オキシトシンというホルモンが分泌されると、人に限らず動物は愛情や信頼といった感情を呼び起こされるといいます。
しかし、この副作用のようなものとして「自分の仲間以外には無関心になる」というものがあるといいます。
はやい話が、「身内に甘く外にはきつくなる」ってことですね。
なので、オキシトシンは自民族中心主義や行き過ぎた愛国心の発露の元凶にもなりえるってことになります。
進化という文脈で考えれば、「人であればだれでも愛する」というスタンスはどうも生存に有利とはいいがたいので、「対象を選んで特別扱いする」のは当然といえば当然です。
そのような観点から言うと、いわゆる
愛には限りや偏りがあるって感じかもしれませんな。
誰かに愛を注げば注ぐほど、それ以外の人間なんてどうだってよくなるのが人間の性ってことかもしれませんし、まあ、綺麗事抜きにすれば直感的にもそれは妥当な気がします。
少し覚めた感じですが、あくまでこのオキシトシンというものの性質から愛を考えた場合は、「愛の反対は無関心」というのはある種本当で、より厳密には「愛と無関心は反比例する」といった感じでしょうかね。
やはり、愛される対象と愛されない対象では扱いが違うのが普通だしそれが、進化の出した結論だという事です。
もし、テレサさん達博愛主義者達が言う「理念的な愛」を実践するなら、それは「生物学的な意味合いでの愛」ではありえないし、あってはなりません。
「規律」のように「~である時には無条件に助ける」の様な形式をとった「愛の形式」や「思いやり律」といった感じのものである必要があるでしょう。
ここまで来ると、感情を伴う必要がなくなっています。
しかし残念ながら、人間は本能の方が理性よりも強いのでこのような愛は、実に無理があります。
とてもじゃないですが、現実的ではありません。
なので、博愛主義者たちが実践することを唱える愛は、突き詰めれば「形式的にしかなりえない」ってことです。
俗にいう偽善でしかないってことですな。
で、このような「形式的な愛」を何の抵抗もなく守っていけるのは、「そもそも人間に愛を持たない人」の方が向いているのではないかとすら思ってしまいますねえ。
そもそもの好き嫌いも愛を抱く対象もないとなったら、「全ての人を平等に形式的に愛する」事がなんのためらいもなくできそうです。
もっとも、誰も愛さないとなると、そもそも形式的にでも愛を表現するための動機に何があるのかって話になります。