今回は以下のような方に向けておおくりします。
- なぜ、子供が欲しいと思うのかがわからんという人
- 話しのネタが欲しい人等
特に女性、、、、。
わたしは無理だなあ、とてもじゃないけど子供なんて持ちたいなんて言えないよ、、、。
子供を産むって誰かの人生に責任を持つってことでしょ?、、、そんなのムリだわ、、、責任が重すぎる。
それは理性的な人の意見だろうなあ。
多分、大半はそんなこと考えていないと思うな。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「「人はなぜ子供がほしいのか?」について割と真面目に考えてみたい」という話です。
ちょっと、今回はナイーブなテーマに切り込んでみたいと思います。
[人はなぜ子供が欲しいと思うのでしょうか?]
ちなみに、わたしは完全に子供が欲しくないって立場です。
理由の最たるものに「自分が不自由になりたくないから」というのもありますが、それと同等くらいに「人の人生なんて軽々しく背負えんわ」という気分がありますなあ。
まあ、やはりこの世界に生まれてくるからには「自分が望んだことは基本的に何でもできる下地」を用意してあげたいしそうすべきって個人的には思ってるんですな。
そうなると、遺伝的な才能を始めとして財力やらなんやらといった様々な事が頭の中によぎり、「いや、責任負えんわ!」と結論してしまいますね、ええ。
ま、今回は「子供なぜ人は作ろうとするのか」って事について少し考えてみたいと思います。
ただ今回は、どうしてもわたし自身が男性なこともあり、ものの見方が「男性から見てなぜ子供が欲しいと思うのか」に偏るであろうことはあらかじめ申し上げておきたいと思う次第。
あ!
それと「めっちゃ主観的でノーエビデンスな内容なのですいません!」
なお、本記事とは逆の「自分の遺伝子を残したくない人の心理」についてリンクから。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
子供という存在は一体なんなのか?
「子供」という存在は一体、人間にとって何なのでしょう?
人間を「遺伝子を伝達する器」と考えた場合、おそらく「子供とは遺伝子を受け継いでいくための新しい器である」といえる気がします。
しかし、そもそも「何で遺伝子何ぞを受け継ぐ必要があるのか?」て話にもなりますが、まあこれはもはや「生物の本能的なもの」ってことになるでしょう。
まあ、本当はこんなに単純に結論出来るほど軽い内容ではないですが、とりあえずそういった感じだと思います。
生物学的には、動物は「種の保存」、つまり「同族たちの遺伝子を残しつづけ種を絶やさない」というプログラムの元に生きているといえます。
なので、「子供が欲しい」という欲求は「理性的かつ合理的判断に基づくもの」ではなく「本能に基づくもの」です。
特に女性に関しては、「子供が欲しい」という人の割合が個人的な体感ではありますが、「男性に比べて相当多い」と感じますね。
で、当の本人に「子供が欲しい理由」を聞いてみると、「えー、だって子供ってかわいいじゃん」とか「んー、、、、なんでだろう?」、「、、、何となく」と実に曖昧としていて明確な根拠がありません。
まあ、こういった事を言うと若干の反感があるのは予想できますが、あえて言うとわたしは「子供がかわいいのは、客観的に見て顔の整合性が取れている場合しか妥当しないぞ」と思っています。
ま、凄く平たく言うと「かわいい顔してない子供はかわいくないだろ」てことです。
、、はい、怒ってますね?
サーセン。
ただ自分の子供だったら、親のよく目で可愛く見えるって事もあるのかもしれませんから、まあなんともいえないんですがね、、、。
、、、話が脱線しそうなので戻しますが、結局のところ子供という存在は「自分の遺伝子を受け継がせるべき新しい器」だという事です。
そして、「自身の遺伝子を残す」というのは「本能に基づくもの」だってこと。
結局、生物的な立場で見れば、所詮一人一人の人間の存在は、「遺伝子の器」にすぎないってことなんだと思います。
理性的な人ほど子供を望まない?
文明や文化、高度な教育、そういったものが多くの人間たちの理性を育んで「今」があります。
本能に対して理性は、ブレーキのような役割を果たしているといえますが、あまりこの理性が肥大化すると生物的にはあまり好ましくない状況に陥ったりもするんです。
例えば、「人間とは何か?」とか「生きる意味とは?」なんて答えのない問いに本能優勢の人はあまりハマらないと思います。
特に理由なんてものはなく「生きたいから生きてます」というのが普通だし、むしろその方が精神的に健康とすらいえるかもしれません。
これは単なる持論ですが、「あんまり深く考えない方が人生は何となく幸せなんじゃないか」って思います。
で、「子供を持つ事」に関しても同じことがいえると思っていまして、
「子供を持つという事は誰かの人生に責任を持つ事だ」
と理性的な人は考えがちなのに対して、本能優勢の人は
「あー、なんか知らんけどできちゃった」
とあっけらかんとしているって具合になると思うんですね。
ええ、何が言いたいかというと、「理性が肥大化しすぎると子供を作ろうとは思えなくなる可能性が高い」という事です。
この発想は人間を生物としてみた場合は、相当危険な状態ですよね。
だって、種の保存をちゅうちょしているってことになりますから。
ただ、理性が肥大しすぎると、生まれてきた子供の将来のこと等をいろいろと考えてしまうので仕方がない気もしますよ。
人生には色んなリスクや困難が待ち受けています。
いうなれば、子供を作るという行為は子供にそういった困難やリスクを背負わせるという事です。
よほど、自分の能力や財力等に自信がある人でもなければ、「生れてくる子供が不自由するだろうから、責任もてんわ」みたいに思ってちゅうちょするかもしれません。
もっと、ひどくなるといわゆる反出生主義者たちのように、
「子供に必ず来るであろう死の苦しみやその他生きる上で経験するであろうあらゆる苦しみを経験させるのは罪深いことである。だから、子供は作るべきではない。人類は穏やかに滅びるべきである」
なんて言い出したりするでしょう。
このような反出生主義者たちの意見はそれなりに理屈としては間違っていないので「なるほど」と思うものの、そもそも人間には「遺伝子を残そうとする本能」がありますので、この手の見解が広く支持を集めることはないのです。
ちなみに、この手の考えはかなり昔からありまして、その起源について詳しくはわかりませんが、2世紀にはキリスト教神学者ユリウス=カッシアヌスさん達を始めとした禁欲主義者達が、「誕生が死の原因」であることに気づき「死を克服するため、我々は出産をやめるべきだ」と主張していたらしいですね。
2世紀なんて言ったら、西暦101~200年ですから、現在が2021年なので1800年以上の昔ですよ。
とんでもない大昔ですわ。
そんな大昔の2世紀にはもうすでに、反出生主義的な考えの走りが存在していたのに、反出生主義思想は今なお一般化していません。
まあ、その後ショウペンハウアーさんとかベネターさんといった哲学者が唱えはしていますけども、反出生主義思想は依然として広く支持を得られているとはいいがたいです。
そして、これからも一般化することはないでしょう。
それは「人には生きようとする本能」があるからです。
結局のところ、「人の生きている意味」なんてものに普遍的な物なんてなくて、「その当人が自分自身に対して与えるしかな」のだと思います。
人間なんてみな「生きているから生きている」のであって、「~のために生きている」なんて事ではないと思うのですよ。
もっというと、「身体が勝手に生きようとしているから精神も生きようという方向で考える」ともいえるでしょう。
そのような本能があるからこそ、この手の反出生主義者の見解に「気持ち悪い」とか「理解できない」、「嫌い」といった本能的な嫌悪感を示す人が多数いるのだと思われます。
で、わたしに関して言うと、割と本能に忠実だと思うもののやっぱり心の隅っこに、「いや、お前責任とれへんやろ?」といったツッコミをしてくる自分がいますな。
それと「自由に好き勝手にいきたい」という願望が合わさって、「あー、子供いらんわ」て結論がわたしの中ではおそらく出ているようです。
あと自分で言うのもなんですが、自分の見た目に関しては自己評価はフツメンですが、くせ毛であること以外はおそらく客観的に見て取り立てて欠点となりうるものはなさそうなので容姿が遺伝してまずいって事はあまりないかなって思います。
ただ、頭に関しては、、、どうなんだろうか?
どう考えても自分の頭はノイマンクラスじゃないので、いくらでも替えがきくからあえて残す価値はない気がしますなあ。
さらに言うと、東大の理科三類にも落ちているんで、知能面での保証は何一つできない気がしますね。
で、財力はからっきしだわww
まあ理性的に考えたら、わたしは子供の人生に責任の取りようがない気がしますね、、個人的に。
やっぱ、わたしは自分勝手に生きて、晩年は慈善活動でもして人の役に立って生涯を終えるのがよさそうですわ。
私の遺伝子なんて残す意味も必要もないでしょう。
人には2種類いる気がする
ローランドさんの「世の中には2種類の男しかいない。俺か、俺以外か」のセリフではないですが、個人的に「世の中には2種類の人がいる」と思っております。
そして、この2種類では、子供を持つ事に対する意識が大分違うように思うんです。
その分類が以下。
・自分の願望が優勢な人
・自分の願望より人の願望を優先する人
以下順次簡単に補足。
・自分の願望が優勢な人
まず一種類目は「自分の願望が優勢な人」です。
これは「モテたい」とか「金持ちになりたい」、「権力を持ちたい」といったような「自分の願望」が主な動機となって人生を生きていく人です。
つまり、「自分が何をしたいか」が大きなやる気になるってタイプですね。
この手の人達は生れてくる子供自身のことをちゃんと考えて「子供の損にはならんから」等と考えず、「自分が欲しいから」というだけで子供を作る人が多い気がしています。
まあ、「欲望に忠実」とか「本能に忠実」って感じでしょうか。
で、こんな人たちは悪く言うと、「自分が人生の主役で子供は自分の人生を彩る副菜」みたいな考えをしているかもしれません。
「子供のため」というよりも、「自分のため」の方が強いってことです。
なお、わたしも分類上は一応こちら側の人間ですね、多分。
わたしの場合は、「自由で快適に過ごしたい。好きな人たちに囲まれて生きていきたい」といった願望ですが。
あ、言っときますが、ここでわたしがいう「好きな人」というのは「自分の言いなりになる人」でも「ご機嫌取りをしてくるイエスマン」の事でもなく、「単に気心知れた親友」って感じの意味です。
・自分の願望より人の願望を優先する人
二種類目が「自分の願望より人の願望を優先する人
」です。
この手のタイプは、「自分自身が何をしたいか」よりも「他の人の願いを叶えるためにやる気を出す」人達といえます。
いわゆる「守るべきもの」があると、実力以上の力が出る人達かもしれないですね。
あと、もしかしたら、感受性が高い傾向にあるかもしれません。
この手のタイプは「子供や家族のために生きようとする」傾向が強いと思いますねえ。
子供のことを真剣に考えるからこそ、安易には子供を持つべきでないと考えるし生れてきたからにはちゃんとしようと思うって感じでしょう。
なので、多分この手の人はちゃんと結婚して家庭を持った方がいい人生を送れるんじゃないかなあって思ったりしますね。
ただ、この手のタイプの人は子供に対して過保護になりすぎる傾向がある気がしております。
一概には言えませんが。
過保護は心理学上はお世辞にもいいものと呼べないし、一歩間違うと毒親と称されても文句は言えないくらいの事態になるので問題なんですけどね。
で、実は、わたしからみると、わたしの父がこのタイプであろうと思っています。
自分のことは大してやろうとしないのに、人の世話ばっかり焼こうとするのですな。
本当、飽きれるくらいに。
子供の時分は、「何でそんな得にもならん下らんことを、、、バカちゃうか?」としらけた目でよくそんな父を見ていたもんです。
まあ、でも今となっては、「いい意味でバカだよな。そういった生き方も芯が通ってんならかっこええんちゃう?」ぐらいには思えるようになりましたね。
今となっては嫌いじゃないかも知らん。
絶賛は出来んが。
ちなみに、この手の人は生きていく中で食い物にされないためには、食い荒らしに来る狡猾な連中と同等以上に渡り合える胆力と頭の回転が必要です。
自分で言うのもなんですが、わたしの父の場合は、感受性が非常に強い癖に凄まじく逆境に強くいい意味であきらめが悪くて、頭がわたしからすると異常なほどよく切れるという「実力を伴ったお人好し」だと思います。
「よくここで何の前知識もなくそんな対策を思いつくな、、、」とか「なんでそこでその発想した?」みたいな奇手を結構打って見事に向かってくる相手に完勝したり事態を円満解決させたりするんですわ、これが。
正直、「お人好し」な性格が一時期父を非常に嫌いになった原因でもありますが、まあ自分の身を守るだけの実力があるのならお人好しでもいいのかもしれません。
ただ、力もないお人好しは完全に食われるので、どうしたもんかって思います。
お人好しであることが自分で分かるなら、「だからこそ力をつける」という強い決意を持つ事が必要かもしれませんね。
まあ、何が正義かなんてわからんものですが、「多くの人が好ましいと思うであろう価値観」を綺麗事抜きで実現させたいとか、その実現のために力を尽くしたいというのであれば、、、、そういう人であればこそ「力が必要だ」といえます。
力自体は厳密な意味では正義と呼べませんが、その力の振り向け方が好ましい人には「絶対に力が必要」でしょう。
「仁義もクソもあったものか。この世は勝ったもののものよ」って考えの方が、権力を握りやすいのはおそらく疑いようがありませんし勝負事では勝ちます。
事実、組織で出世する人は自己利益の最大化を最も優先しているって話はありますし、、、。
詳しくは以下。
まあ、結局、個々人が幸せに生きれればいいだけなんだけどねえ、、、。
決め手は育った家庭かもしれない
子供を持ちたいか否かを決定する重要な要因に、おそらく「どんな家庭で育ったか」があると思います。
自分の親がDV三昧だったとか育児放棄してたとか、いつもケンカばかりしていた、父親が多額の借金をこさえて迷惑や我慢ばかりを強いられていた、、、なんて話になると、「家庭って地獄だな」みたいに思って家庭なんて欲しくないと思うかもしれません。
それに自分が実際に親になった時に自分がされていた事と同じことを自分の子供にもしでかすんじゃないかと思って子供を持つ決意が固まらないという人もいたりします。
で、実は、この負の連鎖に関しては必ずとは言えないものの結構よくある事例でして、軽視できません。
誰にとっても第一子の育児なんて初めての事なので、育て方なんてわかりませんし、誰か詳しい人に子育てについて聞いたり育児系の本を読んで知識を得ても中々うまくはいかないもの。
そんなことが重なると、「あー、どうしたらいいのわからない」等と軽くパニックになり、冷静ではいられなくなるでしょう。
そうなってくると、やはり一番に頼りにしてしまうのが「自分が親に育てられた方法」です。
自分がいくら「自分の幼少期に受けた育児は間違っている!」と理性でわかっていても、反射的に間違った方法を頼ってしまうかもしれません。
ただ、分かっていればまだいい方で、実際には「それが普通だ」と思っているケースが多いでしょう。
例えば、「幼少期にいう事を聞かない時は問答無用で体罰を受けていた」という人は、自分が子育てをするときにも「何の疑いもなく体罰をしてしつけをする」と言った事をやることがあるという事です。
そして、「反出生主義に陥る原因はこれだ!」みたいに断定はできないものの、「どういう家庭環境で育ったか」は反出生主義に陥る原因に大きく関係している気がしますねえ。
反出生主義とはいうなれば、「人生の暗い闇の部分を見つめる思想」って感じですからね。
そりゃあ、過酷な家庭環境で育てば自尊心は低くなるしメンタルも弱まるし、、、あげく「人生とは苦しいもの」って意識ができそうなものです。
あと、感受性の高さも関係ありそうですな。
もちろん、断言しませんけどね。
で、わたしの場合も「子供などいらん」と思うからには何か家庭環境に原因があるのかもと思ったので、色々と自分なりに分析を始めたところ、決定的とは言えないまでも「それっぽいもの」があることに気が付きました。
父はいっつも人のために何か行動する人でしたんで、まあ毒親的な過保護まで行かないにせよ、わたしのためにいろいろと考えて奔走してくれていたものです。
で、そんな父を見て小さい子供ながらに「ああ、親ってのはこんなにも自分の事をかまわず子に尽くそうとするものなのか、、、」みたいなことを少し感じていたんですね。
なんというか、父にその気はなかったそうですが、わたしからすると「父は『子供であるわたし』のために、自分のやりたいことも我慢して自分の人生を浪費している」ように見えてしまったんです。
向こうからしたら「やりたいからやっていただけ」であっても、こっちからしたら「やりたいことを我慢をしている」と見えたわけですな。
なので、やはり心のどこかに「子供のために自分の人生を犠牲にするなんて冗談じゃない!!子供なんて疫病神だ!」といった気持がある気もします。
「子供なんぞに自分の人生を邪魔させるか!」みたいなね。
ま、同じような状況をみてもそう思わない人もいるでしょうから、元々の遺伝的な性格のせいかもしれませんねえ。
なお、母に関しては、毒にも薬にもならんというか何というか、あまりわたしの人生には影響を与えている気がしません。
ただまあ、かなり理性的な人だとはおもいますね、感情的になることってほとんどないです。
とはいえ、気が利く人ではないので、たまに「ったく、どんくせえな!」みたいに少しイラっと来ることはありますけども、、、。
ま、それはいっか。
結局のところ、母は母でわたしに対して日ごろから寛大だった気もするんで、やっぱりそういった意味ではいい親だったのかもしれませんな。
能力的にあまり尊敬できるとことはない気がしてしまうのですがね、、、。
ということで、わたしの場合は、父の影響で「子供を持つ=自分の人生をあきらめる」みたいに思ってしまった可能性はありますな。
断言できないですけども。
人は自分のためにだけ生きれるほど強くないってこともあるかもしんない
たまに、「人は自分のためにだけ生きれるほど強くない」なんて言葉を聞くことがあります。
まあ、この言葉の起源がわからんので何とも言えないところはありますが、個人的には「まあ、分からんではない」って思いますね。
「自分の為だけに生きる」ってことをしてると、次第に人生に飽きてくるというか「何のために自分って生きてんの?」みたいなやや空虚で退廃的な気分になってきたりすると思うんですよね。
このような気分を打破する対策の一つが、「子供を持つ事」なのかもしれません。
やはり、人って誰かの役に立っているって気持ちもそれなりにないと、普通はあまり幸せではないものです。
先ほどは結構無理やり主観で人を2種類に分類してみましたけども、どちらのタイプであっても割と「誰かのため」ってところに収束してくる気がします。
まあ、収束しないやつも当然いるでしょうけどね。
なお、子供を持つなら原則実子の方がいい気はします。
わたし自身は「養子だっていいんじゃん?」と思う感がありますが、やはりそれは本能にあらがう選択です。
「自分の遺伝子でなくて違う遺伝子の存続に自分のリソースを割く」なんて生物としては、「リソースの無駄使い」に他なりません。
まあ、これが連れ子を可愛いと思えない理由の原因ともいえるわけですが、、、。
連れ子がかわいくない事の理由についてはリンクからどうぞ。
たまに「子供が生きがい」と言っている子煩悩な人がいたりしますが、こういった人たちは「子供によって人生が豊かになっている人たち」なのかもしれません。
生きた証明を残したい人もいるにはいる
「自分の生きた証を残したいから子供が欲しい」という人も中にはいます。
まあ、子供からしたら「てめえのエゴじゃねえかよ!」と言いたくなるものですが、まあ実際にいますね。
実は何を隠そうわたしの父もややこの手の発想をしている気がします。
以前、父に「なんで、子供が欲しかったんだ?」と純粋に疑問に思ったので聞いてみたところ、「自分の人生を見ていてほしいと思ったから」みたいな感じのことを言っていたはず。
まあ、父は「家の歴史」とかについて家系図とかを見せながらくどくどと色々説明したりするほど「家の歴史」というものにこだわりがある人なので、まあ「子孫代々の歴史的つながり」ってものに人一倍の思い入れがあるのは容易に想像はつきます。
とはいえ、わたしはどうにもそんな「歴史的な繋がり重視」の価値観には嫌気がさしてしまって、「歴史とか知らねえよ」と思うこともしばしばでしたし、「元を正せば貴族だったとか生粋の日本人だとかどうでもいいわ!」と内心結構反発したもんでした。
、、、まあ、歴史に思い入れがそんなに強くなくても、「自分一人だけで人生を生きている」って感覚は多くの人にとってしんどいのかもしれません。
だから、「誰かに見守っていてほしい」みたいな考えで子供を作る人もいるのかもしれませんなあ、、、、。
とはいえ、妻にこういった事を期待するのもありなのかもしれません。
ただ、妻は「遺伝子的には絶対的に他人」なのに対し自分の子供は「遺伝子的には自分の分身に近い存在」なので、子供に「見守っていてほしい」みたいな期待をする人はそんな「遺伝子的な近さ」を重視しているのかもしれませんな。
知らんけど。
おわりに
この記事は「「人はなぜ子供がほしいのか?」について割と真面目に考えてみたい」と題しておおくりしました。
今回はエビデンス的なことにとらわれず、かなり主観的に「なぜ人は子供が欲しいと思うのか」について考えてみた次第。
んー、なんだか、少しだけ自分の内面を探ってみたら微妙な気分になったわあ。
まあ、みなさんからしたら「テメエの感情なんて知ったこっちゃねえ」て感じでしょうけども。
まあ、一つ言えるのは「やっぱり家庭環境って大事だよね」てことですかな。
もちろん、どういった家庭環境で育ったかだけで子供を持ちたいと思うかどうかが決するわけではないですが、結構決め手になりうると思うんですよね。
なので、「良好な家庭環境」の家庭が増えれば人口ってふえるんじゃない?と思ったりし申した。
まあ、少子化問題はわたしの手に負える問題じゃないから基本ノータッチですけど、なんかそんな気がしますねー。
では!
参考記事等
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