「目に見えるものが全てではない」が安易に目に見えないものを信じるのは愚か者かもしれん

「目に見えるものだけが全てではない、とか目に見えるものだけが真実じゃないってたまに聞くけども、まあそうなのかもしれんね。実際、見えないものが存在していないとは言えないもんな。」

ふむ、そりゃそうだ。

ただ、安易に目に見えないものを信じるのは、命取りかもしれんね。

オニギリス!

脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「「目に見えるものが全てではない」が安易に目に見えないものを信じるのは愚か者かもしれん」という話です。

今回は以下のような方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ
  • 目に見えるものを信じるのはいいことなのかよくない事なのかについて考えてみたい人
  • 話のネタを探している人

たまに「目に見えるものが全てではない」なんて格言チックな言い回しをする小説やらアニメやらのキャラクターがいたりしますね。

まあ、現実にもそういった事を言う人たちはいますが。

それは確かにそうですよね。

目に見えないからと言って、存在していないことにはなりません。

例えば、光の粒子や物質を構成する分子や原子は肉眼では見えませんが、確かに存在しています。

ただ、こういった目に見えないものというはその存在を証明するのが非常に困難なものゆえ、あると信じ切ってはいけないものです。

もし、安易に信じ切って批判精神を失っているようでは、簡単にだまされそうで心もとないですね。

目に見えないものに対しては批判精神を堅持して「あくまで仮定」といった気持を持ち続けたいものです。

ま、わたしはそう思いやす。

ここで一瞬だけ宣伝?ですが、「悩みがあんよなー」て人も「ただ誰かに愚痴を言いたいねん!」て人も悩みが重症化する前に頭をクリアにしてみませんか?

おにぎりのカウンセリングについて詳しくは以下。

では、ゆるりとおおくりします。

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目に見えないけど存在するものは確かにある

「目に見えているものが全てではない」なんて言葉を聞いて、どう思うでしょうか?

もしかしたら、サンテグジュペリさん著の『星の王子様』でのキツネのセリフ「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」を想像するかもしれません。

正直、このセリフはちょっと個人的には言葉遊びの類なんじゃないかなって印象がありますね。

そもそも目に見えようが見えまいが重要な事というのはあるものです。

「じゃあ、目に見えることは重要ではないのか?」と言ったらそんなことはないわけですね。

ま、これは物語の中でのセリフであり文脈に依存してますんで、いちいちこんなことを言うのも野暮というものですが。

まあ、それはいいとして、実際に「人間の肉眼には見えないけど確かに存在しているもの」というものはあります。

例えば、様々な物質を構成する原子や分子といったものは肉眼で見ることができません。

なんせ、10億分の1 m (1 nm)より少し小さいなんて言うとても小さい粒子ですから。

しかし、そんな微小な粒子も走査型トンネル顕微鏡などを使うことで、その存在を確認することができます。

で、この走査型トンネル顕微鏡は走査型プローブ顕微鏡の一種であり、1980年代あたりに開発されたものですので、1980年代以前は原子等の存在はあくまでも「理論上の存在」だったのです。

実は、このような「あらゆるものは、それ以上分割できない極小のものが集まって構成されている」という原子論の起源は、古代ギリシアやインド等にあります。

そして、近代ヨーロッパになってから高校で化学を勉強したことがある人ならしっている通り、ラボアジェさんやドルトンさんといった人たちが出てきて元素の概念が提唱されるに至ったわけです。

こんな風に原子の存在は最初は「理論上は存在しているとされていたもの」だったに過ぎないのに、実際にその存在が後に確認されるようになってわけですね。

なので、確かに「目に見えなくても確かに存在しているものはある」といえましょう。

また、そもそも人が肉眼でものを見ることができるのは、「光が目へ反射しているから」ですので、「光を吸収して反射しない物質」なんてものがあったら目では見ることができません。

そのように考えれば、「目に見えるものが全てではない」っていうのはその通りってことになります。

そもそも盲目になったら何も見えない

上述のように、確かに「目には見えるものが全てではない」です。

しかし、「目に見えないものの存在をただただ信じる」のは、愚か者の所業であろうと思います。

科学ですら、今まで発見されてきた数々の科学的事実を「全てのことを真実である」とは扱っていません。

科学論における重要な定立に、「反証可能性」というものがあります。

これは哲学者のカール=ポパーさんによって主張されたもので、

「その仮説が実験や観察によって反証される可能性がなければならない」

というものです。

科学では、どんなに確からしいと思われているものに対しても反証、つまり「仮定的事実や証拠が真実でないことを立証される潜在的可能性がある」と考えるんですね。

要するに、「科学理論は反証される可能性のある仮説の集まり」という事。

どこまで行っても「真実」ではなくて「仮説」ってことです。

そして、反証に対しきちんと反論できるものが信頼性の高い科学理論だってことになります。

どんな物事に対しても「決して信じきる」なんてことをせず、「いつも別の可能性がある」といったスタンスでいたいものです。

盲信してしまうと、「これは仮説であって真実ではない」みたいな視点がなくなってしまいます。

これではあまり賢いとは言えない気がしてしまいますね。

想像も度を超すと有害な妄想になる事をわきまえたい

物事に対する「これは仮説であるという意識」がないと、自分の考えた想像をあたかも真実や事実のように考えることになってしまいます。

例えば、相手の本当の心のうちなんて到底わかりもしないのに誰かの笑い声を聞き「自分は笑われている」と感じたり、自分の考えている事が見透かされる等まずありえないのに見透かされていると感じてしまうという感じです。

どんな物事に対しても「批判的かつ多面的にものを見る」事は大事ってことですな。

悲しそうに見える人がいたとして、「その人は本当に悲しいのか?」や「何に対して悲しんでいるのか?」なんて事はおそらくその本人しかわからないでしょう。

自分の思考に対しても「この考えや思考に間違いの可能性もある」といつでも、批判精神をもっていくのが大事だと思う次第。

わたしは、この世界に何一つ「真実なんてなくて仮説しかない」って感じで生きる方が賢いし何より世の中が面白いって思いますねえ。

まあ、わたしなんてまだまだなんですけどね。

まだまだ精進精進って感じだなあ。

おわりに

この記事は「「目に見えるものが全てではない」が安易に目に見えないものを信じるのは愚か者かもしれん」と題しておおくりしました。

確かに、「目に見えるものが全てではない」というのはその通りです。

しかし、だからと言って「目に見えないものを妄信する」のは賢い態度とは到底言えないと思います。

あくまでも、「全てのことは仮説であって潜在的に否定される可能性がある」という事は強く意識しておきたいものです。

はい、自戒いたしマウス。

共に気をつけていきましょう。

では!

参考

https://www.st.keio.ac.jp/education/learning/1907.html

参考記事等

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