今回の話題は「モテすぎる人は果たして幸福なのか不幸なのか?「別にモテは極めなくていい」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
- モテすぎる人がどんな心理状況なのか気になる人
- モテを追求した果てに何があるのか気になる人等
いわゆる非モテと言われる人たちは、モテている人達はみんなモテていることによって精神的に充足していると思ったりしがちです。
しかし、実際にはどうなのでしょうか?
気になる人は沢山いるかと思います。
正直結論は「まあ人によるよ」といった何とも歯切れの悪いものになるでしょう。
しかし、モテるかどうかを極めようとするとおそらくは「不幸になるだろう」と考えられます。
これは何も単なる決めつけではなく、それなりに根拠があります。
ただ、今回の内容はかなりわたし自身の考えが主となります。
そこはご注意を。
ちなみに余談ですが、
この理由についてはリンクからどうぞ。
では、まいる。
目次
「恋愛」とは一体何か?
モテる状態というのは一言で言うなら、「不特定多数の異性から恋愛感情を持たれている状態」といえるでしょう。
モテを極めてきた人の中にはモテている状態というのを、
「芸能人上位層くらいの容姿をしている不特定多数の異性から恋愛感情を持たれている、ないしいつでも落とせる状態」
のように定義している人もいるようですがね。
で、そもそもですが恋愛というものは心理学的に考えた場合は何なのでしょう?
恋愛も「愛」という字が入っている以上は「愛」の一種と考えられますが、現状、心理学分野では恋愛が一体何であるかは「明確に定義されていません」。
詳しくは以下。
そこでわたしなりに妥当であろうと思う恋愛の定義をここでは提示します。
恋愛とはとどのつまり、、、
「性欲と依存」
で説明できるものです。
よって、恋愛強者とは「依存させるのがうまい人である」といえます。
誤解してほしくないのですが、そもそも人は依存しあって生きているので依存自体は悪いものではありません。
しかし、その依存が行き過ぎると日常の生活に支障をきたすようになり「恋愛依存症」なんていう状態になったりするのです(雑な言い方ですまない)。
性欲も生物が遺伝子を後世に引き継ぐために生殖が必要である以上あってしかるべきものですから、本来それ自体に卑しいも何もあったものではありません。
全ては程度の問題といえるでしょう。
そして、きちんとしたエビデンスを元にしているとはいいがたいものの、「人は幸せになるため生きている」という見解に多くの人は納得すると思います。
はい、わたしもそのような立場です。
もし、「幸せになるために生きている」のだとしたら、依存と性欲が適切なバランスでたもたれた恋愛は人を幸せにするでしょう。
恋愛は人生を豊かにするものであり、その究極的目的は「幸せになるため」であろうと、わたしは愚考します。
モテすぎることは果たして不幸なのか?
さて、では次に「モテすぎることは不幸なのか?」ということについて考えてまいりたい。
これははっきり言って、「人による」でしょう。
「自分が他者より圧倒的にモテている」という事実と、それによって生じる身の回りに起こる出来事をどうとらえているかが問題です。
いうなれば、モテすぎることによって感じられるメリット-デメリットが正か負かということでしょうか。
あと「不幸」をどの程度のものとするかも重要ですねえ、、、。
まあ、細かい議論はとりあえずおいておいて少々雑ですが、考えてみますか。
では、モテすぎる人が「不幸である場合」と「幸福である場合」についてそれぞれその心理を考察してみましょう。
不幸である場合
モテすぎて不幸な人の心理には以下のようなものがあるでしょう。
- 気のない相手からも好意を持たれるのがめんどくさい
- 自分の競争相手であると本能的に判断した周囲の同性からのやっかみがうっとおしい(あらぬ風評を流されることも含む。女性に多い傾向があると推測する)
- 恋愛観が多くの人と共有できない等々の理由で、友人ができにくいかもしれない
まあ、正直モテない人からしたら大したことない不幸のようですが、まあその感じ方は人によりけりといったところ。
ただ、自分の周囲の人間関係が不安定になるのは結構大きな問題でしょう。
事実、ハーバード成人発達研究にて、人の人生の幸福度を大きく左右するものとして「良好な人間関係」が挙げられていますしね。
ただまあ、一概に「誰が誰より不幸だ」とは決められませんね。
幸福である場合
モテすぎて幸福な人の心理には以下のようなものがあるでしょう。
- 自分に魅力があると確認できるため自信が持てる
- 他人より自分の方が性ある存在としては優秀であるとの優越感を持てる
まあ、こんなもんでしょうかね、、、?
ただ、これらの理由をもって幸福感を感じていたとした場合、長期的視点に立って考えたら、あまり幸福になれそうにはないですね。
他者との比較において「自分が優れているから自分に価値がある」という気持ちが強すぎますんで。
まあ、分からんではないですがね。
自分の自信の源泉の多くを「他者よりモテる事」に置いていたとしたら、少々問題ではあります。
モテること自体が目的ならいずれ破滅する
「人生の目的は幸せになること」
これは上述した通り。
この前提に立脚するならば、恋愛の目的も「人生の目的を達するのに寄与するもの」である必要があるでしょう。
そう、「恋愛は幸せになるための手段」であって、それ自体が目的ではないってことです。
なので、「モテを極める」ために邁進するというのは手段自体を目的化していることに他ならないってことになるかもしれませんね。
※もっとも、この話は「より優れた子孫を残すために生きている、性的快楽を感じるために生きている」といったような、より動物的な文脈で生きる意味をとらえている人には通用しないだろう。
上述したように、性欲と依存のバランスが恋愛を最適化するとしたら、性欲のままに性をむさぼっても承認欲求等を満たさんと多くの異性を狩っても幸せにはつながらないってことになるでしょう。
恋愛を極めてくると「異性を落とすこと」は単なるゲームや娯楽になり、「いかにレベルの高い(あくまで容姿の話)異性を落とすか」に力点が置かれがちです。
そうするととにかく異性を狩り、一時の性欲も満たしつつ狩った異性の容姿を点数化して「うん、この人は芸能人でも最上位レベルだ。わたし凄いわ。」みたいな感じになってくるでしょう。
ただ、自分が落とした異性より格上の異性を落とした人を見かけると、「ちっ、、、ならもっと格上を落としてやる!」といつになっても特定の人と安定した信頼関係を築き長期的関係を築けません。
※ちなみに、容姿、つまり自信の顔によってどれくらいの相手を落とせるかには上限があるように思われる。なので、超イケメンや美人が本気を出したら普通の容姿ではまず勝てないと思う。ま、知らんけど。
まあ、このくらいならいずれその不毛さに嫌気がさして、結婚するなんてこともあるかもしれないのでまあいいでしょう。
しかし、過度に多くの異性を依存させる方向に進んだ場合、新興宗教の教祖にでもならない限り(まあなっても命の保証はないが、、、)は異性から刺されたり最悪命を落としたり、暴力性が高くなりすぎて犯罪者となったりしそうな感じがします。
まあ、モテなんて極める必要はないだろうってことが言いたいだけです。
人並みに持てる努力は必要ですがね。
おわりに
今回は「モテすぎる人は果たして幸福なのか不幸なのか?「別にモテは極めなくていい」と題しておおくりしました。
モテは極めるものではありません。
多くの男性に必要なのは「人並みにもてる努力」でしょうね、間違いなく。
だって、恋愛って「幸せになるため」にするんですからさ。
いい人間関係を長期的に築いていきましょう。
では!
参考記事等