きれい事の何が悪いのか?いう意味はないのか?少し考えてみたい

「わたしはきれい事ってなんだかんだ好きだよ。だって、『現実は~なんだ!』なんていくらデータと共に残酷な事実をつけつけられても、やはり「現実がそうだからってそれをそのままにしておきたくはない」っておもってしまう。まあ、どうせわたしみたいな奴は世の中的には救いようのないバカなんだろうけどさ。」

ふむ、まあそうだわな。

「現実が~だから」ばかりで「理想なんていらねえ!」て感じでは、現実の不条理等を変える努力自体を放棄することにもなるっちゃあなるわね。

オニギリス!

脱マンネリストで心理カウンセラーのぐれんの おにぎりです。

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「ミニマリストはやりすぎだけど「モノを持たない」は重要な視点かもね」という話です。

今回は以下のような方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ
  • きれい事がなんだかんだ好きな人
  • きれい事も必要だと思う人

早速ですが、わたしはなんだかんだ言って、きれい事は好きなたちではありません。

とはいえ、それが全く無駄で不要なものかと言ったら、そこまでは思っていないです。

以前の記事で、「努力は報われる」とか「因果応報」等をいわゆるきれい事の例として挙げましたが、こういったことは「大筋では間違っていない」といえます。

そう、「条件付き」で正しいのです。

現実を踏まえた上であえて「きれい事」を言うのなら、いいと思います。

それはわたしも大賛成。

しかし、現実をみたくないからきれい事を唱えるのには大反対です。

「現実を踏まえないきれい事」の向かう先に救いはない気がしますね。

では、ゆるりとおおくりします。

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きれい事は「人の願い」にすぎない

いわゆる「きれい事」というのは、「実情にそぐわない体裁ばかりを整えた事柄」の事。

つまり、「現実を無視した理想論」といえるかもしれません。

いわゆる「努力は報われる」とか「因果応報」なんていうのもそのようなきれい事の一種といっていいんじゃないかと思います。

努力は「正しい方向」に行えば、何もしないよりずっといいですし、時期に日の目をみるかもしれません。

しかし、方向性を誤った努力は場合によっては、その人の人生を破滅させることすらあるでしょう。

また、因果応報は

「いいことをすれば自分にいいことが返ってくるし悪いことをすれば自分に悪いことが返ってくる」

みたいなものですが、これは大筋であっていますが絶対に正しいかと言ったら違うでしょう。

世界には散々人を大量に殺しておいてのうのうと生き延びて、最後は病死しているなんて輩もいますし、権力者であれば殺人すら不問に付されて普通に安らかに老衰で最期を迎えている人も沢山いるでしょう。

歴史上で考えたら、中世ヨーロッパの王侯貴族なんてアフリカ等から現地の人を奴隷として連れてきて重労働をさせたあげく使えなくなれば殺していたなんてことも別に珍しくもなかったと思います。

権力を持ったものに、因果応報なんてそうそう届きやしないのです。

特に、抜け目なく悪賢く立ち回ってる者についてはなおさらのこと。

きれい事には以下の二つの側面がある気がします。

・人々のこうあってほしいという願い

きれい事はおよそ「世界にこうあってほしい」という位人々の願いが反映されていると思います。

そりゃあ、誰だって努力は報われてほしいし、悪いことをしたやつは然るべき処断をされてほしいでしょう。

そうでなかったら、目覚めが悪いというものです。

しかし、それは「そうであってほしい」であって「そうである」とは全く違います。

願いと事実は違うのです。

大衆を油断させるための謀略

きれい事が世の中で当たり前のことと思われると、都合のいい人たちがいます。

それは「自己利益の保存のために手段を選ばない人達」です。

グリム童話に「ハーメルンの笛吹き男」がありますが、あの物語でいうならきれいごとを信じさせて都合がいいのが笛吹き男で大衆がネズミでしょう。

ネズミは笛の音に誘われて男の後をついていきますが、最後は川に誘い込まれて見事溺死してしまいます。

謀略家としては綺麗ごとを信じる人が多ければ多いほど、その裏をかいて利益をかすめ取ったり奴隷のようにすることもやりやすいということです。

いわゆる倫理や道徳にも同様の効能があるように思われます。

きれい事を妄信するのはアカン

いわゆる「きれい事」は「条件付きで正しくなる」と思います。

努力にしても方向性が間違ってなければ成果は何がしか出るでしょうし、因果応報も大筋ではあっているので。

きれい事はあくまで「願い」でしかないので、現実とのずれを把握しないととんでもないことになります。

そして、そのようなきれい事を真に受ける人が増えると、得をする人間がいるのだということも忘れてはいけません。

「願いはあくまで願い」なので、願いと現実を混同しないようにしたいもの。

そうでないと、きれい事をことさら言っている人達に出し抜かれてしまい、思わぬ損を被るかもしれません。

きれい事ばかり言っている人がいたら、それはあくまで建前であって本心ではないと思ったほうがいいでしょう。

現実を知って、あえてきれいごとを言うのはいいかもな

いわゆる「きれい事」、つまり「現実にそぐわない理想論論」が「多くの人の願い」に基づくものであるとしたなら、その願いの中に「人々が大事にしたい価値」のようなものが反映されているとも言えるでしょう。

ならば、きれい事をもって「きれい事なんて馬鹿げている。現実は違うのだ」と無下にするのもなんか違うかもしれません。

いわゆる「きれい事」は現実主義的な人からはかなり目の敵にされます。

しかし、多くの人にとっての「大事にしたいと思う価値」がそこに反映されているのであれば、その方向に向かうことでより多くの人の幸福度が上がるのかもしれません。

なんだかんだ、幸せそうな人が増えたほうが結果的に自分も幸せになれるって人がほとんどでしょう。

わたしもその一人。

「自分だけが富んで他の人間は奴隷のようであってほしい」とか「人の苦しんで死んでいく姿を見るのがたまらなく楽しい」なんていう人は、おそらく一部を除いてはいないはずです。

なので、あえて「世の中はきれいごと通りではない」ということを踏まえても、きれい事を言い続け、その方向へ向かって行動するのも悪くないかもしれません。

ただ、あくまでも「現実を踏まえた上で」というのが大事なんですよね。

「願いを現実と混同しない事」が大事ってことです。

現実を知らないと理想に近づけるための具体的な方法なんて見えてこないですからね。

現実を知ったうえで、どうしたら理想に近づけていけるのかを考えていきたいもの。

まあ、たまには理想が理論的に破綻してて「これは現実と照らして絶対に無理」てこともあるでしょうが、そうしたときは理想の修正が必要かもしれませんねえ。

例えば、無償の愛とかは「そもそも理論的にありえない概念」ですね。

愛において、無償性を強調することは、健全な人間関係の構築を放棄することに等しいです。

詳しくは以下。

理想論には、ある程度は理論的裏付けが必要です。

ちなみに、きれい事ばかり言っていると、「いい事している気になって不道徳的になる」かもしれないので注意です。

詳しくは以下。

おわりに

この記事は「きれい事の何が悪いのか?いう意味はないのか?少し考えてみたい」と題しておおくりしました。

きれい事はいうなれば、「多くの人の願い」。

願いには、その願いを抱く人にとっての大事にしたい価値が反映されていると思います。

なので、「きれい事を言うこと自体は悪くない」です。

むしろ、そのきれい事に反映されてる価値に沿って生きることで、多くの人の幸福度が高まるかもしれません。

ただし、願いを持つ以上は実際の現実がどうなっているかを知ることが肝要。

現実を知らないと理想に現実を近づける具体的な方途が何も見つかりません。

現実の状況も踏まえながら、理想にどうやったら近づけるのかを考えていきたいものです。

では!

参考記事等

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