「なんか苦労すればするほど偉いって思考している人いるけど正直どうかしている気がする。特に現代はネットも発達したんだしさ、別に昔みたいな苦労しなくたってある程度の収入なら得られるじゃん。何が若い時の苦労は買っでもだよ、笑わせんなよ。この老害どもが!汗水たらして?その思考、古いんだよ!」
まあ、「思考停止した苦労」は大して有益じゃないかもね。
あと、汗水たらしてって別に「物理的な汗」のことに限った話じゃないぜ。
頭を必死こいて回転させているならそれも「頭に汗かいている」って感じじゃね??
オニギリス!
脱マンネリストのオニギリです!
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「苦労自体をありがたがるような人は一生底辺なんじゃないか?」という話です。
はい、今回の話に特段エビデンスはありません。
これは個人的にいままでいろんな人を見てきた結果思ったことに過ぎません。
なので、わたし自身の「独断と偏見」になります。
ですが、結構思うんですね。
世の中には「一向に苦労がなくならない人」と「最初苦労するけど途中から苦労しなくなる人」の2種類がいると。
この前者には全員が全員ではないものの、実は結構な割合で「苦労自体に意味を見出している人」が少なからず含まれているような気がしてなりません。
そう、言ってみれば「苦労すること」ばかりに意識がむいているのです。
だれが、苦労するために何かを始めるんですか?
苦労するために何かを始めたんじゃなくて「何か自分が実現したいこと」があったから始めたんじゃないですか?
自称苦労人の中には「苦労したからわたしは偉い」と言ってはばからないどうしようもない人たちがいます。
こうなってしまってはもうどうしようもないですね。
言っている時点では人生オワコンです。
人生に努力が大事なのは論を待ちませんが、「苦労自体が目的になっている時点でその努力は報われない確率が非常に高い」といえます。
持論ですが「苦労は結果に結びついてこそ意味を成す」と考えてますね(ま、実際はとらえ方次第ですけど)。
さて、あなたの苦労は「果たして有効な苦労」でしょうか?
では、ゆるりとおおくりします。
目次
苦労自体に意味はない
まずは当たり前のことを言いたいです。
「苦労自体に意味も価値もありません」。
はい、苦労自体には何の意味もなくそこに意味を付けるのは「その苦労をした本人」に他なりません
さらに言えば、苦労しているかどうかすら「本人が決めること」なので、例え他人から苦労に見えることも本人が苦労と感じていなければ苦労ではありません。ね。
よく聞く「若いうちの苦労は買ってでもしろ」に関しては、個人的には「売ってでも手放せ」の方が正しいと思っています。
言うなれば、「苦労をしないよう頭を使って苦労をできる限り売り飛ばせ」ということです(それ自体を苦労だと言い出したら何もできない、、、)。
苦労なんて追い払ってもやってくるもの。
特に自分が何かを達成しようと思って行動しているなら、必ず何らかの障害にぶつかります。
言ってみればそれは進路に生じる必然的な苦労なので、進みたいという思いがあるなら超えていく以外にないです。
そして、その進むために必要な努力をしていくのみ。
他のことは最悪全部捨ててもいいのです。
その捨てるものが「いらない苦労」ですね。
何でも苦労すればいいわけではないのです。
また、そんな時にそれを「苦労」ととらえずに「成長の機会」ととらえて、主体的に行動するならそもそも苦労はないともいえそうですがね。
ただ、いわゆるブラック企業の経営者どもがのたまわるこの手の「自己成長」のロジックはただの搾取するための論法なので、聞くに値しませんよ。
まあ、ブラック企業でトップとるにはサイコパスにでもならんと厳しいわね。
良心なんて持っていたらたまったもんじゃないでしょう。
人の生死について生まれつき何も感じず、良心も持たず自分以外は人間ではないくらいの感覚でないときついだろうね。
逆にそれくらいの感覚だったら、多くの人を死に追いやりながらでも上に行けるかも。
多くの人を死に追いやってその屍の山の頂上に立ちたいですか?
多分、多くの人は御免でしょうね。
ええ、わたしもです、今は。
参考記事等
あなたは何を大事にしたのか?
さて、あなたはそもそも何を大事にして生きていきたいのでしょうか?
実は、これこそが「苦労をするとかしないか」なんかよりよほど気にしないといけないことです。
価値とはわたしたちの心の中に存在する「願い」のことをいいます。
そう、具体的に言うなら価値とは
「何を大事にして生きていきたいのか?」
「自分の一体どんな長所を伸ばしていきたいのか?」
「どんな人物になりたいのか?」
、、、そんな希望のことです。
価値とはコンパスのようなものです。
コンパスに従うことで、あなたは自分の望んだ方角へと進むことができます。
対して、ゴールとは「自分が成し遂げたいこと」や「獲得したいもの」であったりしますね。
そして、ゴールとはそのコンパスで指示された方角の途上に存在する中継地点でしかありません。
ただ、「大事にしたい価値に固執する」のは本末転倒です。
価値は「軽く持っている」くらいがよく、「何が何でも!」と執着するものではありません。
だって、価値ってその時々の心境で微妙に変わるものでもありますから。
人間の心なんてすぐ移ろうもの。
価値は今ここにあり、ゴールは未来にあります。
そして、価値は日常生活の中でいつでも触れられるもの。
だから、固執しないのが正解ですよ。
そして、自分が大事にしたい「価値」に「倫理的か」なんて思考を加えて正当化しようとしなくていいのです。
価値は人それぞれであり好き嫌いのようなもの。
誰に対しても「弁明しなくていい」んですね。
さて、あなたは「人生のこの短い時間を誰とどんなふうに過ごしどんな人として生きていきたいですか?」
参考記事等
苦労に目を向けるのはやめよう
上述した価値にも優先順位というものが存在しています。
ですから、全ての価値を同じくらいに大事にするというは不可能ですね。
これは苦労に関しても同様のことが言えます。
「苦労にもいらない苦労といる苦労」があるということはしっかり考えるべきです。
あなたの「大事にしたい価値」が何かを分かったら、次に必要なのは「その価値に優先順位をつける」こと。
例えば人間関係においても、「あの子は一番大事にしたい」、「この子は多分2番目くらい」みたいに無意識的に順位がついていると思いますがそんな感じでいいのです。
今は何を優先すべきなのかをしっかり意識しましょう。
そして、必要ないものはちゅうちょなく捨てて「優先事項に集中する」のが大事なんですね。
人生、時間も労力も限られているのです。
もし、苦労すること自体に「価値がある」なんて考えてしまうと、「苦労するために苦労する」という思考になり「苦労の結果何を得たのか」という発想にも行きつきません。
大事なのは「苦労ではなくてその苦労が自分の価値にとって有効か」ということなんですねえ。
これは主観ですが、苦労すること自体を美化したりする人は年をとっても苦労ばかりしているように思います。
こういう人たちは「人生が苦労を乗り越えるために存在している」とか「苦労することがアイデンティティーである」等と考えているので、無意識に苦労が寄ってくるし苦労を取る思考になるってことです。
つまり、苦労せずに楽してとれるものもあえて苦労して取ろうとする「苦労バカの思考」が出来上がるわけ。
対して、苦労をすること自体を強く嫌悪していても必要なものなら決して目を背けずに対峙する人は次第に苦労しなくなります。
彼彼女らは「将来苦労しないために今必要な苦労と対峙している」からです。
これはやみくもに苦労しているのとは話が違うんですね。
「苦労バカ」になって一生苦労している人は本当に救いがないし、一緒にいて苦労自慢ばかりなので不快ですし付き合う方としても学びがありません。
もし、あなたのまわりにそんな「苦労バカ」がいるなら絶縁することをおすすめします。
そんな人たちに関わるだけの価値はありません。
そうして、「苦労すること自体をありがたがる人」は時間と労力を無駄遣いして、一生苦労にさいなまれ他者から疎まれ一生底辺を這いつくばり無惨にゴミのように死んでいくんでしょう、、、。
もし自分が「苦労バカかもしれない」と気が付けたのならその時から「自分の人生で大事にしたい価値ってなんだろ?」て考えてみてくださいな。
気が付けたらその瞬間から「価値に沿った人生」が始められるでしょう。
気づきに遅いことはありませんね。
何時からでも大丈夫です。
きっと、人間関係も「苦労バカ」であった時より格段によくなるでしょう。
苦労人は「苦労した人」ではない
よくなされる勘違いに「苦労してきた人が苦労人である」というものがあります。
苦労人は「苦労して大成した人」のことを言うのであって、単に苦労した人を苦労人とは言いません。
なので、よくちまたにはびこっている「若い奴は苦労が足らない~」なんて感じのフレーズが好きなヤカラは「自称苦労人」であっておそらく「苦労人ではない」です。
そう、苦労が絶えないのは単なる「苦労症」であって苦労人なんて大層なもんじゃないんですよね。
参考
https://dic.pixiv.net/a/%E8%8B%A6%E5%8A%B4%E4%BA%BA
さらに言えば、苦労人の精神面での特徴によく「何事にも動じない」とか「寛大である」なんてものが挙げられますが、「自称苦労人」の苦労症連中はこれとは似ても似つかぬ心理構造をしているはずです。
なるのであれば、「苦労した人」ではなく「苦労人」になりたいものですね。
間違っても自分より年下の人を捕まえて苦労話をするようなヤツにはなり下がりたくないですな。
目線は苦労ではなく「自分大事したい価値」に向けたいもんです。
苦労は解釈次第で全て報われている
苦労が報われる、つまり「役に立っているか」に関しては見方次第であるといえます。
当初の目的からしたら失敗している場合であっても、それを達成しようと努力した経験から得たものは沢山あるはずです。
いわゆる先人たちが言う「苦労は買ってでも」というあの一聴すると殺意すらわく不快なフレーズの本当に意味することは、「実際にいろんな経験をして沢山失敗してその中で実践的な学びを深めていこう」というものなのかもしれません。
知識だけ増えてもそれは往々にして標本にしかなりませんね。
実践して失敗と改善の試行錯誤を繰り返していく中でしか、実践的なスキルは身につかなかったりします。
やはり、自分が何かを達成しようとしたり、自分の大事にしたい価値に沿って生きようとするとそれを妨害する障害には出くわすもの。
そんな時、試行錯誤して頭をひねって状況を好転させていくわけです。
まあ、自分から進んで必要ない苦労をすることはありませんが、「必要な苦労であれば真正面から対峙」してやりましょう!
おわりに
この記事では「苦労自体をありがたがるような人は一生底辺なんじゃないか?」と題しておおくりします。
いささか、強めのタイトルでしたがこれは偽らざる本心です。
苦労すること自体にばかりフォーカスしている人の人生ってわたしが見ている限り、本当に苦労の連続でありいつになっても波乱があって気が休まりそうにありません。
おまけに、そんな人は周囲の人からも見放されて孤立しているか、見放されるまでいかずとも非常に周囲の厄介者になってその存在自体が迷惑になっているような感があります。
なので、苦労自体をありがたがると苦労から好かれてどんどん苦労が寄ってくるんではないかって思ったりします。
苦労にフォーカスするのではなく「自分の大事にしたい価値」のために頑張りましょう。
では!
参考記事等