生きる意味なんてない?そんな時こそロゴセラピーの考え方を使ってみよう。

「わたし、受験はそこそこ頑張ってそれなりの難関校に入り普通に大手企業に就職したけど、ふと自分は何のためにこれまで頑張ってきたのかわかんなくなってきたわ、、、、。最近、自分の生きている意味が分からなくなってきた。まあ、もっともこの悩みは高校のころからあったんだけど、、、最近になってより激しい悩みになってきたわ、、、。」

それ、まさか燃えつきではないよな?

まあ、でも生きる意味か、、、思春期ってそんなこと考えがちよねえ。

オニギリス!

脱マンネリストのオニギリです!

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「生きる意味が分からないならロゴセラピーの考え方を使ってみよう」という話です。

はい、「自分の生きる意味とは何か?」って本当によくあるけど深淵な悩みですねえ。

わたしも一時期少しだけ考えた時期がありましたわ。

結局、自分が人生で何を大事にしたいかわかったから割とすんなり解決したけど。

でも、中にはずっと深刻に悩み続けている人もいますね。

「自分の生きる意味」という問いはシンプルながら実にメンタルを破壊する威力を持ったものです。

自分で「これを人生で大事にしたい!」と気が付ける人はいいけど、中にはそんな価値が見つからないと嘆く人もいます。

そこで今回は「人生の意味を追い求める」アプローチではなく、「人生に求められる」アプローチによって生きる意味を考えてまいりたいと思いやす!

ん?

イミフ?

まあ、進んできゃ分かりますわ。

この記事は諸富祥彦さんの著書「フランクル心理学入門 どんな時も人生には意味がある」主なを参考としています。

では、ゆるりとおおくりします。

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意味の求め方には2種類ある

個人的に、人生の意味の求め方には2種類あると考えています。

あのホスト界の帝王ローランドさん的に言うなら、それは

「人生の意味の知り方には2種類の方法しかない。意味を求めるか、意味に求められるか」

て感じでしょうかね?

ん?

イミフ?

意味を求めるというアプローチは大方の人にとってはなじみがあるはずです。

てか、普通ですよね?

「わたしの生きる意味は何か、、、」という自問自答はまさに「意味を求めている」のですから。

では、「意味に求めらる」というアプローチは何なのか?

これが今回提案したい『夜と霧』という著作で有名な精神科医のフランクルさんにより考案された心理療法であるロゴセラピーの考え方によるものなんですね。

ロゴセラピーでは「自分が主体的に意味を見つけようとする」のではなく、「自分が人生によって期待されている意味に気づきそれにこたえる」というアプローチで「生きる意味とは?」という問いに回答を与えようとするんですね。

ちなみに、「意味を求める」アプローチとして最も有効であると思われるものは認知行動療法の一種であるアクセプタンス&コミットメントセラピーによるアプローチでしょう。

ACTでは人生で自分が大事にしたいと思う価値をはっきりさせて、その価値に導かれて生きることを目指していきます(厳密には意味を求めるのとは少し違う。ある種、意味を求めないともいえる)。

ACT的アプローチで意味を探求したい人はこちらからどうぞ。

そしてこれは個人的な見解に過ぎませんが、「意味を求める」アプローチと「求められている意味に気づく」アプローチのどちらが最適かは人によると思っています。

これは人には「自分が何かを成し遂げたいと思って燃える人」と「何かを守らなければいけないからと燃える人」がいるような違いといってもいいかもしれません。

ちなみに、わたしは何かを成し遂げたいから燃えるたちですな、余談ですがね。

また、求められている意味に気が付くというアプローチで意味を知った後にACT 的な発想を取り入れるのも十分可能でしょう。

そこは柔軟に対応していけるといいと思いますねえ。

参考記事等

歴史上の哲学者たちの答えは「幸せになること」

さてさて、ではここで歴史上の哲学者や偉人達たちは一体「人の生きる意味(主語がでけぇ、、、)」としてどんなことを見出してきたのかに関して少し探求してみましょうか。

まあ、何かの参考にはなるでしょう。

生きる意味としては当然ですがこれまでいろんなものが提案されてきました。

例えば、一番万人が納得しやすいものでいえば「生きる意味は幸せになること」というのがあります。

この生きる意味を提唱した人達は以下の通り。

  • アリストテレス
  • パスカル
  • フロイト
  • トルストイ
  • カント
  • プラトン
  • ソクラテス

ふむ、、、人間の本能的からすれば「幸せになること」を生きている意味に設定するのは納得といった感じではありますねえ。

しかし、そもそも「幸せって何なん?」て話も出てきますね。

一切の苦しみが存在しない状態なのか?

常に何かを達成し続け達成感を感じ続ける状態なのか?

それとも、、、、。

一体何をもって幸せなのかは各人によりやっぱり違っているんですよねえ。

結局のところ、幸せの形は人によって違うので「幸せになることが人生の意味であったとしても各人が各人なりに幸せを定義するしかない」ってことになってしまいますな。

これって結局問題が解決しないんですよねえ、、、。

なので、どうやら歴史上の偉人や哲学者の考え方から、普遍的な生きる意味を探求することは不可能なようです。

生きる意味はオーダーメイドであるって感じですね。

幸福を求めると不幸になる

さて、ここで幸せに関する重要な皮肉ともとれる心理学的事実を述べておきましょう。

それは

幸福を追求すると不幸になる」

ということです。

「何それ?」て感じがするでしょう。

進もうとすると後ろに下がるみたいなもどかしい感じがする事実ですね。

ま、ムーンウォークなら出来たらかっこいいからやれたらいいけど、幸福を追って不幸になるなんてことは誰もしたくないですよねえ、、、真面目に。

でも、現実にわれわれの多くは日々幸福になろうともがいています。

でも、幸福は追っているうちは永遠につかめないのです。

血のにじむ努力の果てに権力と有り余る富を手にしようと、その飢えと渇望が癒える日は幸福を追う限り手に入らない、、、、。

ひたすら追い続ける。

だからこそ苦しい。

非常に苦しい、、、。

例えば、

「フェラーリ買った!財力ぅ、、、、虚しい、、、」

「ブガッティ買った!ヤバい財力ぅ!!、、、虚しい、、、」

「国を買った!!有り余る財力ぅう!!!、、、虚しい、、、」

、、、この繰り返し。

いくら高いもの買っても幸せにはなれないってことです。

この事実についてフランクルさんはこう言っているそうです。

「『幸福の追及』は幸福になるのを妨げる」

「幸福の追求は自己矛盾」

求めると手に入らなくなるとかなんて皮肉でしょうか。

これは心理学的に考えると人間の優れた認知能力のせいとも言えます。

というのも「幸福な状態」を想定した場合、常にわたしたちはその「幸福で満たされた状態」と現在の「幸福とは程遠い状態」を比較し続けることになるので、いつになっても「幸福そのものへ到達できない」からです。

いうなれば、目の前にニンジンをぶら下げられた飢えて飢えて仕方がない馬がニンジンを食べようと走り続けるような感じとも言えますな、、、。

フランクルさんによると幸福になりたいなら、

幸福に対するこだわりを捨て去り、ただなすべきことに取り組めばいい」

とのこと。

そして、フランクルさんはこうも言っています。

「もし幸福になる理由が存在すれば、自ずと、つまり自然発生的かつ自動的に、幸福は結果として生まれてくる。このことが、人間が幸福を追求する必要のないことの理由である」

引用

諸富祥彦著「フランクル心理学入門 どんな時も人生には意味がある」P86

参考記事等

意味はいつもそこにある

上述したように「幸福を追い求めれば追い求めるほど不幸になる」ので、人によっては「そもそも何かを追い求めること自体やめてしまえば楽になるのではないか」なんて言い出すかもしれません。

しかし、フランクルさんに言わせればそれは無理な話。

人間には生まれついた時から死ぬまで、「意味と目的を発見し実現しようとする基本的努力を絶えず続けていく意味への意志というものが備わっている言います。

なので、「人間は意味への意志によって完全に支配されつくしている」のです。

一見、ただ快楽を追求していたり権力を追求していたりと意味への意志とは無関係に生きているように見える場合であっても、意味への意志から解放されているわけではないといいます。

そう、意味への意志を満たしたくても満たせないから意味の代替物として快楽や権力を追求しているにすぎないというわけです。

人間は「自分が生きている本当の意味を実現していると思いたい」という欲求から解放されることは生きている限りないんですね。

なので、生きる意味の追求を避けては人生を幸せには生きれないということになります。

さて、ではこの「人生には何の意味があるのか」という難題にどう立ち向かっていけばいいのでしょう?

人によっては「人はいずれ死んで灰となって無に帰す。そこに意味などあろうはずもない」なんて言ったりするかもしれません(ちなみに、わたしはこのタイプ)。

フランクルさんは「人生に普遍的な意味はない」としたうえで、

「人はいずれ消えて無に帰すはかない存在ではあるが、それであってもなお人生を肯定する「悲劇的英雄性」に人間の偉大さがある」

としています。

この偉大さはフランクルさんによれば以下の人生の根源的事実をどれだけ自覚し体験的に会得しうるかにかかっているとのこと。

「世界体験の根源的な構造を振り返るために一歩退くと、人生の意味を求める問いに次のようなコペルニクス的転換が生じる。人生が人間へ問いを発してきている。したがって、人間は、人生の意味を問い求める必要はないのである。人間はむしろ、人生から問いかけられている者なのであって、人生にこたえなくてはならない。人生に責任をもって答えなくてはならない。そして、人間が答えるこの答えは、人生の具体的な問いに対する具体的な答えでしかありえない」。

引用

諸富祥彦著「フランクル心理学入門 どんな時も人生には意味があるp106、107

つまり、わたし達は「人生から問いかけられる者」なので、まずは「生きる意味についての問い」を捨てて、「人生から発せられてくる問いを聴き取りそれにこたえることに全身全霊を尽くさないといけないってことになりますね。

人生からの問いかけに対して全力で答えていこうとすると、もう悩んでいる暇はなくなってきます。

言ってみれば、「没頭している状態」ともいえますね。

そして、フランクルさんの言う「意味」というものは「その意味を実現する機会は『今ここ』限りで二度となく、その人にしか実現できないもの」だといいます。

これはユダヤの賢人であるヒレルさんの言葉を借りるなら、

「もし私がそれをなさないのなら、誰がそれをなすのだろう。もし、私がたった今それをなさないのなら、いつそれをなすのだろう」

ということですね。

このフランクルさんの「人生に期待されている」という発想は、「誰もが人生に期待されている」とされているため「救いの理論」であるといえます。

そう、「もともと人生の意味は与えられている」ので、「人生の意味を追い求める必要性から解放される」わけですから。

ただ、別の側面から見ると「生きている間人生は人を見捨てずに絶えず意味を与え続けているため、人生から逃げられない」とも言えますね。

まあ、一長一短ですな。

意味発見の指標

人は生きている限り、常に「人生で実現されるべき意味」があるといいます。

ただし、その意味を知るのは自分の努力です。

「一体自分は人生に何を期待されているのだろうか?」という問いに自分なりにこたえていくことが大事になるんですね。

フランクルさんによると意味を探索するための指標として、以下の3つの価値領域があるといいます

  • 創造価値
  • 体験価値
  • 態度価値

以下順次解説していきます。

・創造価値

創造価値とは何かを行うこと、すなわち「何らかの活動を行い想像することにより実現される価値のこと」を指します。

具体的に言うなら、その人により遂行されるのを待っている仕事であったり、その人により想像されることを待っている芸術作品等といったものです。

いうなれば、これは使命感を持って仕事等に取り組むということにもなるかもしれません。

なお、この創造価値では「活動半径の大きさ」、つまり「どんな仕事であるか」とか「どれくらいの規模の仕事であるか」等ということは問題ではないということには注意が必要でしょう。

仕事に取り組もうとすると、得てしてわたしたち達は「その仕事のスケール感」とか「社会的な評価」といったものに目が生きやすいもの。

しかし、「職業に貴賤なし」であり「そのスケールに関わらず意味がある」ということです。

問題なのは「人がその使命圏をどれだけ満たしているか」、つまり「どれだけ仕事を全うできているか」こそが重要といえます。

・体験価値

体験価値とは「何かを経験すること、すなわち自然の体験や芸術の体験、誰かに愛情を注ぐ体験等により実現される価値のこと」と指します。

冬の雪の積もった富士山の有り様や京都の秋の燃えるような紅葉に感動したり、ルーブル美術館にじかに足を運びそこに展示される芸術品に心震わせたりする、、、そんな体験のことです。

そして、誰かを愛するという経験はなにも恋愛に限ったことではありません。

その例としてフランクルさんは

「重い障害を持って生まれてきた我が子を「神のように崇め、限りなく愛した母親の例」

とあげていたりします。

自分を必要とする誰かを愛する行為が、その愛する人自身へ生きる気力や活力を与えてくれるということです。

いささかきれいごとのように感じられる人もいるかもしれませんが、これは実例なんですね。

愛は相互的なものです。

愛し愛されることは生きる力につながるんですねえ。

いやあ、いいはなしですわ。

・態度価値

態度価値とは「自分ではもうどうにもできない状況や、変えることのかなわない運命等に対峙した際、その窮状に対してある態度をとることで実現される価値」を指します。

なお、「変えられない運命」には「死」や「病や障害」のみならず「生まれや育ち」等の「過去の一切」が含まれるそうです。

その運命に対してどのように態度をとって引き受けて、自分自身の人生をいかにして創っていくかが問われているといいます。

各人がこの中においてとる態度により実現される価値が「態度価値」なんですよ。

、、、、んー、、、少しめんどくさい言いまわししてしまったんでもう少し具体的にいいますね。

例えば、不慮の運命によって(例えば、事故による重い障害とか)、上述した体験価値や創造価値の実現可能性がなくなってしまってなお、その人の人生には「なんらかの生きる意味が必ずあって見出され実現されるのを待っている」んです。

だから、自殺する権利はないといいます。

フランクルさんによれば自殺するのはチェスでどんな風に手を打てば分からないからやけを起こして盤をひっくり返そうとするようなものであるとか。

自殺は人生のルール違反だよ」ってことのようです。

人生あまりに嫌なことが続くと「もういいわ、生きている意味なんかないわ!」と放棄したくもなるもの。

しかし、そんな中にあっても

「決して人生は人を見捨てていない。必ず意味があって救いがある。だから、最後まで人生を放棄しないで」

等と人生は人生をやめようとする人にメッセージを送っているってことでしょう。

だから、人生を放棄すべきでないし放棄する必要もないってことですな。

んー、なんか全体的に宗教性を感じますねえ。

しかし、それもそのはずで、そもそもロゴセラピーの創始者であるフランクルさん自身が初期にはロゴセラピーと宗教をかなり直接的に関係づけていたといいますから。

詳しくは諸富祥彦さんの著書「フランクル心理学入門 どんな時も人生には意味がある」の第5章七節「宗教との違い」を読んでみてくださいな。

おわりに

この記事は「生きる意味が分からないならロゴセラピーの考え方を使ってみよう」と題しておおくりしました。

ロゴセラピーでは「全ての人間は人生に期待されている」とされていましたね。

その上で、「自分は人生に何を期待されているのか」を自分自身に問うていくことで、自分の人生の意味に気が付き、そして取り組んでいくことになるという話でした。

はい、そうです。

結局意味を知るのは自分次第でした。

ただ、ロゴセラピーではその意味を発見する為の指標として以下の3つの価値の領域を提案していましたね。

  • 創造価値
  • 体験価値
  • 態度価値

確かに、ロゴセラピーでも自分自身の生きる意味は自分で見出す姿勢が求められます。

しかし、「元から意味がない」のではなく、「もともと意味があって、あとはそれに気が付くかどうか」とする考え方は「すべての人間はだれ一人として見捨てられていない」といえますね。

そういう意味では「救い」といえます。

もし、自分の生きる意味について迷うことがあったなら、「自分が人生に何を期待されているのか?」という視点から自分の生きる意味を考えてみるのもいいと思いますね。

「愛している人が待っている」のか「まだ自分にはなすべき仕事が待っているのか」、、、、さて、なんなのでしょうか?

さあ、勇気をもって「人生からの期待」に応えてやりましょう!!

では!

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