「最近、ルッキズム?、、、そう外見至上主義って凄い問題視されているよなあ。どうやらミスコンが中止になったりもしているみたいだし、凄いムーブメントよね。でもさあ、何かわかるんだけどもさすがに騒ぎ過ぎじゃない?別にミスコンなんて参加者やそれを見たい奴らが勝手に盛り上がってるだけじゃん。そんなの気にしてたらきりないって。」
まあ、それも一理ある。
過度にポリティカルコレクトとかを盾に、「これはやるべきでない」とか「これについて議論することは許されない」て言い出すのはそれはそれである種の言論弾圧になりかねないねえ。
オニギリス!
脱マンネリストのオニギリです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「「世の中顔!ではつらい」ルッキズムとの付き合い方をガチで考えた。「外見至上主義の闇」」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
- ルッキズムについて知りたい人
- ルッキズムはよくないと思うが、反ルッキズムの動きが行き過ぎていると感じる人
- ルッキズムとの付き合い方を模索している人
最近、上智大学のミスコンが高まるルッキズムの熱気に当てられて、廃止になったなんて話がありました。
わたし自身は「あ、ふーん」といった感じで全く気にも留めなかったのですが(そもそもミスコンというもの自体に興味がない)、随分と世間では反ルッキズムの人達が精力的に活動しているのだなと知るよい契機となった次第。
で、それで改めて思ったんですね。
「人間に目がある限り外見を評価することは避けられないやん」と。
でもそれと同時に、その評価を「どう表現するか」は大きな問題だよなと思ったんですな。
今回は、「ルッキズムとどう向き合っていったらいいのか?」や「ルッキズムに左右されないで生きるにはどうしたらいいか?」について考えてみたいと思いマウス。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
ルッキズムってなんじゃいな?
まずは、例にならってルッキズムの意味を確認してみましょう。
ルッキズムの辞書的な意味は、以下。
ルッキズム(lookism)とは、人を容姿の美醜によって評価し、身体的魅力に富む人(美男美女)とそうでない人を差別して扱う、という考え方(ステレオタイプ)を意味する表現。「外見至上主義」とも訳される。
ルッキズム(lookism)とは、人を容姿の美醜によって評価し、身体的魅力に富む人(美男美女)とそうでない人を差別して扱う、という考え方(ステレオタイプ)を意味する表現。「外見至上主義」とも訳される。
https://www.weblio.jp/content/%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0
日常のそこかしこに、美人やイケメンとそうでない人達との扱いに差をつける人は一定数居るものです。
で、そういった人達は「見た目で差別して扱いに差をつけていい」思っているってことよね。
これがルッキズムってことやな。
まあ、胸くそ悪めな感じよね。
たまに、スポーツ選手とかが「世界新記録出した」とか「金メダルとった」とかいう話をきいて、そこに「いや、でも、、、あいつブサイクじゃん」なんて感じで話に水差してくる人おらん?
ああいった「でも、ブサイクじゃん」みたいなのもルッキズムに基いた発言よね。
「そこ論点ちゃうやん!!」て突っ込まざるを得ないですな。
こういった「相手の容姿の良し悪しで露骨に対応に差をつける」人達がいるから、多くの人達が傷つけられているんですよねえ。
また、社会もそれを暗に良しとしている風潮がある気がするのも問題ですわね。
普遍的な美は存在するのか?
「何が美しいか」は正直な話、その国の文化等によって違ったりします。
事実、国によっては太っている人がきれいとされることもありますしね。
それをもって、「何が美しいかは人による」という話をする人は一定数いますね。
しかし残酷な事実ですが、顔については「普遍的な美が存在している」のはほぼ間違いないです。
普遍的な顔の美について詳しくは以下。
まあとはいえ、美のとらえ方で主に問題になるのは「パーツの位置配置」なので、日本でよく話題に上がる「一重か二重か」はそこまで重要ではないと考えられます(あくまで個人的な見解)。
事実、現在一重も美しいとする風潮が出てきている模様。
※もっとも心理学的な観点からいえば、二重の方が好印象な可能性がある。
まあ、日本で二重がもてはやされる理由の最たるものとしては、心理学的な理由もさることながらやはり「そもそも日本人には二重が少ない」という希少性も関係しているかと思います。
同様の事例としては、日本でほお骨がでている顔は「ごつい印象がするからいやだ」と嫌煙されがちですが、アメリカではかえってその特徴が「美人やイケメンの特徴」とされています。
これはアメリカの治安等からくる心理的影響のせいもあるでしょうが、欧米人は基本的にほお骨が出ていないからこその現象ともいえるかと思う次第。
要は、アメリカ人にとってはほお骨はレアだってことですな。
でも、美意識の根底に「平均顔がある」のは人間の成長に伴う美意識の形成を考えたら変わらないはずです。
参考記事等
「ブサイク!」も「可愛い」も「イケメン」も呪いの言葉?
一般に、人に対して「おめえ、ブッサイクだなあ」みたいに発言するのは暴言だとされていますし、それは明白です。
誰も「ブサイク」といわれていい気がする人などいないでしょう。
しかし、幼少期に「可愛い」とか「イケメン」といわれても「それがのろいになる」場合があるんですな。
その原因の例の一つが、「容姿が良くなければ愛されないのだ」という思い込みが形成されるというものです。
例え美人であっても、自分を「可愛い」といって可愛がってくれる同じ大人が自分以外の子には露骨に可愛くないからとぞんざいな扱いをするのを見たりすると「そうか、可愛くないとこんな目に合うのか」なんて思うようになるでしょう。
美人の中には「ブサイクどもは可哀想だなwざまあww」と思う人がいる一方で、「自分も可愛くなくなったら、可愛くないと思われたらこんな扱いをされるんだ、、、」みたいに恐怖を感じる人もいるのです。
こういった容姿の程度によって、過度に差をつけた対応がとられる現場を見せられては、「可愛くないとだめだ!」みたいなある種の焦燥感や強迫観念があおられかねないだろうなって思います。
これではすごく生きづらくなりそうです。
また、社会でやたらと「美人だ」とか「イケメンだ」という特徴ばかりを大々的に取り上げ、素晴らしいともてはやす風潮もそのような意識の形成に一役買っているでしょう。
ちなみに親の中には子供が実際に可愛いとかかっこいいとかに関わらず、いつも「かわいい」とか「かっこいい」といってあげるなんてスタンスの方がいる模様。
個人的にこのような子供へのアプローチは心理学的にも有効と思えます。
また、わたしも「親が味方になってやらんで誰が子供の味方になるんだ」みたいに思ったりはしますね。
子育てに際して、親は子供の存在に対して常に肯定的な立場をとってあげたいところです。
※悪いことをしても無条件に許すということではない。
世の中顔!と言いたくなるのは本能のせいだが口は慎みたい
正直、外見の良し悪しを感じることは本能によるものであるため「どうしようもありません」。
マインドのつぶやきは止めようがないっす!
そう、人間に目がついている限りは「見た目を評価しない」なんて無理ってもんです。
とはいっても、「感じたことを何でもそのままドストレートに言えばいい」っていうのは違います。
「ブッサイクよなあ、、、」みたいに感じたからといって、「おんめえ、ブッサイクだなあ」みたいに言っていいってことはありません。
何と思ってもいいです。
それは仕方ない。
でも、「伝えていいかは考えろ」ってことですな。
世の中には「わかっていても言わなくていいことがある」って思います。
そして「相手の容姿がいい、悪い」みたいな評価を最優先して、相手への対応に差をつけないように強く意識する必要は大いにあると思う次第。
「この人の容姿は~だなあ、、、」みたいに思った次の瞬間に、「そうだ、人は相手の容姿によって判断を左右される心理傾向を持っているのだ」と意識するだけでも判断は幾分ましになります。
まあ、それでも差別的対応をゼロにはできないでしょう。
でも、ゼロにはできなくてもそのような姿勢を心しておくだけでも、明らかに差別的な対応は減っていくと思うのですわ。
また思うのですが、主にテレビのバラエティーなんかで未だ頻繁に行われている「ブサイクいじり」はマジで害悪だと感じる次第。
メディアが先導して「ブサイクはいじっていい、ネタにしていい」みたいな風潮を作っているような気がするんですわ。
まあ、「見なきゃいいやん」て意見があるのもわかりますがねえ。
メディアによる情報操作が問題視される昨今ですし、やはりメディアが世論の形成に果たす役割は軽視できないですね。
やや大げさかもしれないけど、放送局は国から放送法に基づいた認定を受けているんで、いくら表現の自由を盾にしてもやりすぎなことはあるでしょう。
「ブサイクを公然といじっていい」みたいな風潮を助長するのは、憲法で言うところの「公共の福祉に反する行為なのではないか?」なーんて思ったりしますな。
ただミスコンやミスターコンに関しては、わたしは特に問題だと思ってません。
まあ別に参加したい人が参加しているだけだし、ある意味容姿も才能ととらえられるため、それを何らかの自分の次の人生のステージへの武器として活用するのはいいんじゃないかと感じます。
また、そのような場もあっていいと思いますね。
ただね、そのミスコンやミスターコンを「メディアがどう取り上げてどう報道するか」は大いに問題だと思うんですわ。
わたしは「相手の容姿をいじっていい」とか「容姿さえよければいい」みたいな世論の形成を助長する報道の仕方には、大いに異論があるってことです。
ミスコンやミスターコンの開催自体が悪ではなく、「それをどう報道するか」に問題意識を持っています。
自分なりに精一杯やったならあとは腹をくくるしかない
もうね、率直に言って、上述したように「人間に目がついている限り容姿を評価する、されるのは仕方ない」です。
「人の容姿を判断しない」のは、人間の本能に依存するため無理!
そして、「見た目で露骨に差をつけた対応をしない」と心するのは当然としても、やっぱり少しくらいは「ひいき」と取れる行動もしてしまうかと思います。
人間だもの。
だから、世の男性や女性は容姿に気を遣うわけです。
それは本能的に当然な社会的行動なわけですわ。
なので、個人的にはできるだけ「自分の限界といえるところまで容姿を磨くのを頑張ったらあとは開き直る」くらいの意識になったらいいのではないかなんて思ってしまいます。
ダイエットでも化粧でも筋肉つけるでも肌にいいことをする、、、何でもいいです。
とにかく、できるところから自分ができるところまでやってあとは開き直りましょう。
ま、その努力が人によっては整形とかにまで及ぶかもしれませんが。
とにかく、「自分がもうこれでいい」と言い切れるくらい頑張ってみたらいいと思いますよ。
実は、わたしも自分の容姿に自信があるわけではないんす。
例えば、今の自分の顔については「特に不満はないしコンプレックスらしいところはない」ていう程度のフラットな感情です。
わたしの場合、幼少期は自分の奥二重な目やややハーフっぽい自分の顔が嫌いでした。
ただ、そのあと成長とともに並行二重へ変化し個人的にはそのコンプレックスは解消されました。
が、もし今も奥二重だったらアイプチくらいしていたかもしれませんな(さすがに整形はないと思う)。
ただ、今となっては自分の顔に特段のコンプレックスはないけれど、「もそっと左右対称であれば、、、」みたいなことは本当たまーに思ったりします。
ですが、肌は綺麗にしないといけないって思うんで、毎日できる範囲で保湿や紫外線対策を頑張っている模様。
あとは筋トレはほぼ毎日のようにやってますな。
まあ、「できる限り」でいいんす。
無理してまでやらなくていいのだ!
そして、人事を尽くして天命を待つって言葉通り「やるだけやったら腹をくくる」しかないです。
「おう、自分は結構いろいろ頑張った。そんな努力で来た自分偉いぞ!よくやった!素敵だ!誰が何といってもな!」と自分をほめてやって、「どう思われるかなんて知らん!」くらいに胸張っていくしかないですな。
、、、まあ、むつかしいのは百も承知ですけどもね、、、。
少なくとも、「顔が悪いからみんなうまくいかないんだ、、、」てことは「まずありえない!!」と断言します。
「顔が悪いから、、、」は原則として免罪符になりません。
取り敢えず、できることから頑張りましょうぞ。
ただ、ここで終わっては何の参考にもならない気がしてきたので、最後に自尊心を高めたりメンタルを安定させる方法、役に立ちそうな書籍なんかを提示しておきマウス。
世の中顔!では辛すぎるけど、容姿を高める努力自体はした方が人生生きやすい!
今回は「「世の中顔!ではつらい」ルッキズムとの付き合い方をガチで考えた。「外見至上主義の闇」」と題しておおくりしました。
ルッキズムとは見た目の評価によって差別的な扱いをすることでしたね。
確かに、「こんなこといいわけがない」です。
でも、外見を評価してしまうのは目がついている以上はもうどうしようもありません。
であれば、個人的には「自分のできる範囲内で容姿をよりよくする努力をしてあとは開き直る」しかないんじゃないかって思います。
例え容姿を磨いてイケメンや美人になれずとも、その努力をしたという事実は変わりませんし、それができたこと自体がすごいことです。
あとこれは主観だけども、女性って化粧ですっごく変わるよねえ。
ただ、科学的な視点でいうなら化粧に力を入れるのもいいけど「肌をきれいにすることを重視する」のをおすすめします。
詳しくは以下からどうぞ。
まあ、「できることからできるだけ」頑張っていいきましょ。
あと最後に、、、
「頑張ったアンタを笑うやつはみーんなクソだ!みーんなトイレに流してしまえ!!」
、、、こちらからは以上です。
では!
参考記事等