「大切なものは目に見えない」からこそ気付きと分析が必要なんだ

「大切なものは目に見えないってよく聞くけど、本当そうだよなあ、、、。でも、よくよく考えると一体何をもって『大切』なのか少し判然としないなあ。」

まあ、そうよな。

「大切なものは」って表現だけじゃ『アバウトすぎる」よなあ。

オニギリス!

脱マンネリストのおにぎりです。

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「「大切なものは目に見えない」からこそ気付きと分析が必要なんだ」という話です。

今回は以下のような方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ
  • 何となく人生に疲れた人
  • 人間関係に少しお疲れ気味の人

『心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ』

これはフランスの作家サン=テグジュペリさん著の「星の王子さま」の中で出てくる言葉。

キツネが星の王子さまに言った一言です。

物事を正しく見ようと思ったら、偏見というものを排除しないといけませんが、偏見を減らすことはできてもなくすことはできませんね、人が人である限り。

また、ここでいう「目に見えないもの」とは、主に「心」の事ではないかと思いますが、心は「心をもってしても見えません」。

何者にも見ることはかなわないのです。

本人ですら見えない時があるものですし、見えていると思っているだけかもしれません、、、。

だから、わたし達が「相手の心を知りたい」と思う場合の最善は、「他人の心は見ようとしない事」であり同時に「自分の心の動きを冷静に受け止める心境になること」だと思います。

人と自分を完全に別の存在であり、「ある一定以上は分かり合う事の不可能な存在」であるとの認識が必要だと思うのです。

そのような心境であってこそ、より正しく相手への配慮というものができるし、結果としてよい人間関係を築けるものと思うんですねえ。

そして、それが人生の幸福度を上げていく、、そんな気がします。

では、ゆるりとおおくりします。

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大切なものは自分の心の中にしかない

「大切なことは目に見えない」といったフレーズを口にするとき、多くの人は「大切なもの」として「心とか思いやり」といった抽象的で捉えどころのないものを想定しているのではないかと思います。

しかし、実際のところ「何をもって大切と思うか」は個々人によって実に様々でしょう。

そう、「大切なもの」と一言に言っても、「誰にとって大切」なのかが問題なんです。

一般論として、「~を大切にすべき」と言われたところで、あなたにとって価値のないものであれば、それは「大切にする必要のない取るに足らないもの」にすぎません。

「かんじんなことは目に見えない」というのは、結局のところ「自分が一体何に対して価値を感じるのかは自分にしかわからない」ということを意味しているのだと思うんですね。

要は、「大切なものは自分の心の中にしかない」ということかなって話です。

外を見渡してもそこには大切なものはないのですな。

もっと言うなら、「あなたが『大切だと感じる心』」はそこら辺に落ちてないし飾られてもいないってこと。

まあ、あの漫画「コジコジ」にて主人公のコジコジが言っていた、

「神様は心の中をウロウロしているので この辺をウロウロしていません」

というセリフと似たような感じでしょうか、、、。

わたし達の心は「自分が見たいものしか見ない傾向がある」ので、常に自分が望んだ形に世界をゆがめてとらえてしまったりしています。

外界の情報は本来「そのようにある」だけで、それ自体は「何の価値づけもされない単なる情報」に過ぎません。

その「何の色付けもされていない情報」をわたし達は「心というフィルター」を通すことで、「価値があるかないか」を感じているにすぎません。

わたし達が真実だとか大切だとか思っていることは、結局のところ「そう感じているだけ」なのです。

なので、「本当に大切なもの」は「あなたの心の中にしかない」ってこと。

ならば、その「大切だと感じる対象に気付く事」が大事だということです。

「普遍的に大切な何か」がこの世界に存在しているなんてことは全くないですな。

そして、誰も「現実そのものをみてはいない」といえるでしょう。

相手の心にしてもそうです。

「悲しそう」とか「嬉しそう」なんて相手の態度等から色々と感じても、それは「本人以外には知りえない事」です。

「悲しそうな相手」も「嬉しそうな相手」も「あなたの心の中にしかいない」んですね。

そう、もちろん「愛する人」ですらも。

「大切なものは心で見ないと、、、」ていうのは結局、

「自分の心の有り様や感じていることをありのままに自分が受け取り気付かねばいけない」

ということに他ならないのでしょうな。

「分かり合いたい気持ち」は心を曇らせる

もし、「出来る限り外界からの情報を現実に即して理解したり感じたりしたい」というのであれば、なるべく偏見等の思いこみを排除しなければいけません。

いわゆるバイアスを除去するデバイアスが必要ってことですな。

デバイアスやバイアスについては詳しくは以下。

これは「人の心についても同じ」といえます。

どんなにつらそうな人をみて「辛そうだ」なんて感じても「本当に相手が辛いか」はわからないし、実際に辛かったとしても「どんな風につらいか」なんて知りえません。

あなたの感じる「辛い気持ち」と「相手の感じているつらい気持ち」が等号で結ばれることは絶対にありえないってことです。

わたし達はどんなに親交を深めようが結局のところ、人はお互いに存在としては隔絶しており、ある一定以上に心が近づくことはないんですな。

だから、お互いが感じている「大切なもの」も「感情」も同じになることはないでしょう。

そのような「存在としての絶対的な隔絶」を受け入れると、「分かってほしい」とか「わたしがこう思うからきっと相手もこう思っているだろうだから~する」みたいな感情の押し付けが起こらないため結果として人と仲良くなれます。

「お互いの価値観の違いを認める」というのは、この隔絶を受け入れることによって可能になると思うんですね。

もし、この隔絶を受け入れられないと、「自分のことを分かってほしい」みたいな気持ちが強くなったり、良かれと思って行った親切等も押しつけがましいお節介となります。

相手と上手く関係を築くためには、「自分の感情によって相手の感情を推測しない」事が基本です。

「思いやり」と「身につまされる」は似て非なる全く異なる概念といえます。

そして、「身につまされる」とは自分と他人を混同する恐れのある好ましくない状態だと個人的には感じていますね。

まあ、これは異論があるでしょうが。

相手の話を聞いて「何を思い感じているのか」をよく聞き出すことから始めないと、分かり合うことは無理なんですな。

分かり合いたいという気持ちが強すぎると、「分かり合うことはできない」のです。

むしろ、「わたし達は絶対に本当の意味では分かりあえない」ということを前提にしているからこそ、「より相手の心の有り様を忠実にとらえられる」ってことですね。

例えていうなら、「自分の心を鏡として相手の心を映し取っていくってことが必要」ということでしょうかね。

これができると、相手が何を今感じていて何をしてほしいのかが分かるようになってきます。

「さらに言うなら、「相手の大切なもの」も見えてきたりしますね。

これも心で見るってことかなって思いますよ。

ま、知らんけど。

自分の大事なものを探しにいくなら自分の心の中へ意識を向けよう

上述したように、「普遍的に大切なもの」なんてありはしません。

それぞれの人にとって、「大切な何か」があるにすぎないでしょう。

だから、「大切なものをみえるようになりたい」のであれば、自分の心に問うてみればいいです。

もし、「愛」や「思いやり」が大切であると思うのであれば、「なぜ、それをわたしは大切だと感じるのか?」と問いかけることが重要なのですな。

「大切だと思うから思うんだ」で終わらせていたら、おそらく「何も自分にとって大切なもの」なんて見えてきません。

誰かが「愛は大切だ」とか「思いやりは大切だ」といったから、愛や思いやりは大切なのでしょうか?

おそらく、そんな理由から大切だと思うわけはないはずです。

きっと、愛や思いやりに思いをはせるには、何がしかの自分にとっての理由があるはず。

「愛や思いやりはなぜあなたに必要なのでしょう?」

「自分が漠然と大事だと思うもの」を分析して自分なりに「その大事な理由に『気付くこと』」で、「自分にとって本当に大切なもの」が見えて来ると思います。

その「大切なもの」に気付けたら、あなたは人生を後悔のない方向へすすめるようになるかもしれませんねえ。

そんな気がします。

自分の中の「大切なもの」に気付くことが、大切なもの見れるようになる第一歩じゃないでしょうか。

あとは、偏見を定期的に除去すればいいね。

外界からの情報をなるべく正しく受け取るために。

おわりに

この記事は「「大切なものは目に見えない」からこそ気付きと分析が必要なんだ」と題しておおくりしました。

「大切なことは目に見えない」と言うとき、多くの人は「大切なもの」として「心や思いやり」を想定していると思われます。

しかし、それは結局のところ「自分の中にあるもの」なので、「自分の大切と思うものに気付く」事で見えてくるでしょう。

そして、外界からの情報はそれ自体に基本的に「価値はなくあなたがそう感じるから価値が生じる」ので、自分の心からなるべく偏見を取り除いておかないと現実を現実としてみることは難しくなります。

なので、定期的に「自分は偏見に毒されていないか?」と内省することがいいです。

人は偏見をなくすことはできませんが、日々の努力によって「減らすことはできます」。

「大切なものを見れる」ように、また「現実を現実として正しく見れる」ようになりたいものですなあ。

わたしも日々精進の日々ですが、共に頑張ろうではありませんか。

では!

参考記事等

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」は綺麗事ではなかった??

男の日傘は気持ち悪い?「男の日焼け対策」

参考

https://gakuen.koka.ac.jp/archives

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