人の痛みがわかる人になるなんて不可能!綺麗事より冷静な観察が大事。
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「よくいうよね、人の痛みのわかる人になれってさ。だけどさ、人の痛みがわかるっていうけど本当にそんなこと可能なんだろうか。その人の感じている痛みとそれを見て自分が感じている痛みって別物なんじゃないのかなあ、、、、。なんだか、他人の痛みを自分の痛みとして感じるって表現にはとっても違和感を感じるぞ、、、、。」

そうだねえ、人の痛みを自分の痛みとして感じるっていうと少し言いすぎな気がするね。

オニギリス!

脱マンネリストのオニギリです!

今回の話題は「人の痛みがわかる人になるのは不可能だ」という話です。

「人の痛みがわかる人になれ」と昔から言われてきた人は多いでしょう。

それは「思いやり」につながるからでしょう。

確かに人間の脳は他人が痛そうにしているのをみると、脳の痛みを感じる場所が反応することが実験で確認されています。

とはいえ、その観察者が感じている痛みが「当事者の痛みそのものか」といわれたら、それは違いますよね。

厳密には、わたしたちは「当事者の痛みを想像しているに過ぎない」んです。

わたしたちの感じる痛みはどこまでいっても「想像上の産物」であることを忘れてはいけないのです。

自他の痛みを混同したとき「おもいやり」は「お仕着せの独りよがり」に化けてしまうんですよ。

では、ゆるりとおおくりします。

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人の痛みなんて誰がわかるものか

「人の痛みなんて誰が本当にわかるものか、、、、」。

わたしは

「人の痛みを自分の痛みのように感じる人であるべきだ」

なんてきれいごとを聞くごとに心の中で失笑せずにはいらません。

「下らん理想論だ。笑わせるな。」

これが本音です。

私の見てきた世界が狭いのでしょうか。

わたしは「人の痛みを自分の痛みとして感じる」と言っている人たちで、「痛みを抱える他人の話を本当に聞いてあげようとしている人」をだれも知りません。

みんなこう考えるのです。

「わたしがこんなつらい痛みを感じたらどうしてほしいか?」とね。

そうです。

どいつもこいつも「わたしなら」。

視点が「わたし」のまま「他人の痛みを考えている」。

だから、往々にして「独りよがりのお節介」でしかないのです。

痛みを感じている誰かに「よりそう」といいながら、「まったく近寄ってすらいない」、自分という立場から離れて「相手の立場に立とうとしない」のです。

いつも、自分から見て「どんな痛みか?」としか考えていない。

こんな「やさしさもどき」は時に「ほったらかしより厄介」です。

辛い当人からすると「有難迷惑」であっても、当人は「やさしさもどき」を投げかけてくる人が少なくとも善意でやっていると思うため、迷惑であるにも関わずむげにはできないと無理して「ありがとう」と言わされるんです。

これこそ「泣きっ面に蜂」です。

きれいごとは結構ですが、自他の感情の区別をしっかりできない人がどれだけ迷惑行為をなしうるかについてはきちんと考えるべきでしょう。

やさしさは「なまやさしくない」

「やさしさ」って個人的に感じるだけですが、「相手のため」を考えるならそんな「なまやさしいもの」ではないと思っています。

本当に「実際に効果のあるやさしさ」を追求しようとすると、もはや「感情よりも理性による分析優位」の状態になると思うのです。

もちろん、いわゆる「かわいそう」とか「なにか助けになりたい」という「やさしさ」は、すべての慈善的な行為の「動機」とはなりえます。

しかし、実際に何かの行動を起こした後は「感情に飲まれてはいけない」んですよ。

もし、「かわいそうだから助ける」とかの感情のまま行動すると、それは単なる「独りよがりになる可能性が高い」でしょう。

動機はやさしさであっても行動は「理性による分析」です。

そのために必要なのが「傾聴」ですね。

とにかく、相手の痛みの理由を徹底的に相手の話を聞きこむことで、分析して行く姿勢が大事です。

痛みの理由と度合いは「その人しか知らない」からです。

誰にも他人の痛みなんてわかりません。

傷ついた分だけ優しくなれるという気休め

よくいいますね、「傷ついた分だけ優しくなれる」と。

では、優しくなってどうするんでしょう?

思い遣りのある人になれる?

なったらなんなのでしょう?

上述の通り、やさしさは動機にはなっても効果を保証するものではありません。

ですから、やさしさはある程度あったら、実際に誰かの痛みを取り除く行動、もしくは苦痛を避けるように行動するほうが大事です。

やさしさだけが増大しても仕方ないのです。

やさしさで傷はいえません。

優しさを表現してこそ傷はいえるんです。

しかし、やさしさを表現するには勇気が必要なんですね。

「やさしいだけ」では「やさしさは表現できない」のですよ。

そして、また人の性格は千差万別。

傷を負っても、その傷にどのような意味を見出すかは「その人の性格による」んです。

はい、「傷ついた分だけ優しくなれる」なんて気休め以外の何物でもないです。

くわしくはこちら。

優しくなりたいなんて言うなよ、もう充分だ!

さて、人によっては「もっと、やさしくなりたい」なんて言っている人がいますね。

正直に言いますと、もうそういう思考をしている時点であなたには「これ以上のやさしさはいらない」と言えます。

あなたがなぜ「もっと、やさしさをもとめるのか」というと、それは「人を傷つけて知った罪悪感」のせいではないでしょうか?

はっきりいって、絶対に人を傷つけない、他人に迷惑をかけない人なんてこの世界には存在しないのです。

日々誰しも誰かを傷つけながら生きています。

問題となるのは「その程度」だけ。

そして、傷つけた過去の事実は変わりません。

あなたに必要なのはやさしさではなく、すでにある「やさしさを正しく人に表現する方法」であったり、「あるがままの自分を認める感覚」である自尊心をたかめて罪悪感を昇華することです。

参考までにここにメンタル強化、コミュニケーション系の記事、自尊心を高める方法等を置いておきます。

きれいごとでない「思い遣り」

これは個人的に思うことですが、一般に言われているような「思い遣りが大事」なんて言われる文脈で登場する「やさしさ」というものは抽象的すぎます。

一般には「やさしさ」とは心に持っていれば済む、表現しようとしなくてももっていれば勝手に行動に表出するものといった感じで語られてはいないでしょうか?

しかし、わたしはそうは思っていません。

やさしさに限らず思いというものは「表現しないならないのと同じ」であると考えています。

そう、いくら「やさしい心」があったところで、それを表現できなかったら「ないのと一緒」なんです。

なんの足しにもなりません。

「やさしい心があれば」という言葉は得てしてきれいごと、要は実効性のない理想論か気休めに過ぎないんです。

きれいごとでない思い遣りは「相手の話をよく聞いて相手のニーズをとらえることから始まる」と言えます。

そのニーズをもとに何をしてあげるか考えるから相手を喜ばせられるっていう話です。

相手の立場で考えるというのもこれのことですね。

おわりに

この記事では「人の痛みがわかる人になるのは不可能だ」と述べました。

はい、誰かの痛みは想像することはできても「感じることはできません」。

ですから、大事なのは「相手の痛みの原因やどんな痛みであるのか」ということをしっかり知ることです。

それがあって初めて「相手の立場」がわかるのです。

痛みの理由や程度は相手しか知らないのですから。

もし、つらそうにしている人を見て「わたしだったら、、、」なんて考えるのは論がも論外です。

あくまで立つ出来は「相手の立場」であって、「自分の立場」ではないのですからね。

ということで、とにもくにも「相手の話を聞きましょう」。

これにつきますね。

自分で勝手に相手の痛みを想像しているよりも、実際に親身に話を聞いてあげたほうがよっぽどいいですよ。

そして、相手のニーズがわかったら、行動です。

変に気を利かせているアピールしなくていいんですよ。

では!

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