無理やり幸せになろうとしても不幸になるから止めときなさいな

「幸せになれないのは自分の責任だって話を最近すごく多い気がする。、、、なんだかなあ、きっついな。無理にでも自分は幸せだって思わないといけないんだろうか、、、。」

んー、無理に幸せと思わないといけないってことはないと思うねえ。

幸せだと思えないのは仕方ない。

オニギリス!

脱マンネリストのおにぎりです。

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「無理やり幸せになろうとしても不幸になるから止めときなさいな」という話です。

今回は以下のような方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ

幸せになれないのは自己責任なのか悩んでいる人

よく「幸せになれないのは自己責任だ」とか「自分がいかに恵まれているかに気付けない者は幸せになれない」なんて事が言われたりします。

これはまあ大筋で間違ってはいないといえそうです。

しかし、無理をして幸せでもないのに「自分は幸せであると思いこもうとする」のはお世辞にもいいことではないでしょう。

幸せなんてものは「なろうとしてなるもの」ではなく、「結果としてなっている状態」を目指すべきものだと思うんですよね。

なので、「幸せでもないのに無理にして幸せだと思わなくていいですよ。

では、ゆるりとおおくりします。

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「幸せになるかどかは自己責任」は大筋正しいが、、、

たまに、「幸せになるかどうかは自己責任である」なんてことを言う人がいます。

これは一聴すると、「かなり突き放した冷たい言い方」に聞こえますね。

ただ、大筋でこの見解はあっているといえるでしょう。

というのも、幸せというものは非常に主観的なものであって、「何にどの程度幸せを感じるか」は「当人の意識の持ちように依存している側面が大いにある」からです。

例えば、何かを失敗したときに「ああ、自分って本当にそそっかしい無能で嫌になる」と気落ちする人がいれば、同様の失敗をしても「まだ、自分には成長する余地がある。この失敗体験を生かして次こそは失敗しないぞ」と思う人もいます。

同じような失敗をしても意識の持ち方次第で、その失敗体験を糧にも毒にもできるという話です。

幸せに関しても同様のことが言えます。

毎日、朝ごはんが食べれることに対して幸せを感じられる人もいれば、宝くじでそこそこの金額が当たっても何もうれしくない人もいるわけです。

つまり、不幸を感じやすい人は「幸せを感じるハードルを自分で上げてしまっているから幸せになれない」ともいえるわけですね。

この考え方がいい悪いという事ではなく、「ただそういう論法もある」という事だけは抑えておきましょう。

ただ、この論法はややもすると「全ては物事のとらえ方次第である」の様な乱暴な根性論の一種に陥りがちです。

確かに、「何に対して幸せを感じるか」や「どれ位幸せを感じるか」には本人次第な側面があるものの、「本人のおかれている環境の影響」も大いにあります。

全てを「本人の気の持ちよう」で済ましてしまったら、世話ないのです。

社会人の多くは、「全部自己責任で考える」事が美徳であると上司や会社に教えられていると思います。

これは確かに物事に取り組む際の心構えとしては妥当ですが、よくよく考えたら「全てが全て自己責任なはずはない」のは誰だって分かるはずです。

例えば「ある取引が失敗した」としても、その原因には色んなものがあります。

自分の責任だけでは説明のつかない他種多様な原因が、複雑に入り組んで失敗していることもあるのです。

例えば、「たまたま事故で商談の席に送れてしまった」なんて場合はどうしようもない事もあります。

そんなことまで「自己責任」なわけはないですよね。

姿勢の問題ではなんです。

「幸せを感じられるかどうか」には、「当人のおかれている環境も影響している」という事を忘れてはいけませんわな。

意識だけでどうにかなるとは限らないのです。

そんな不可抗力までひっくるめて「全部自分の責任だ」と考えるのは、精神衛生上いいものとは到底いいがたいですね。

「まあ、仕方ないわ。そんなこともある」と諦めるならまだしも、真剣に「自分の責任だ」と悩んでしまうのはよしましょう。

幸せでない事を他人や環境のせいにしても始まらないのは確かですが、「全部自分のせいにするのもダメ」です。

全部自分のせいにしていると自己否定感ばかりが肥大して、余計に精神状態を止んでしまう危険性があります。

無理に笑ってもいいことはないし何ならストレスである

よく「笑う門には福来る」といいますし、実際にそれを支持する研究も確かに存在しています。

しかし、「楽しくもないのに無理に笑う」事によって、幸せを感じられるかというとそれは必ずしも妥当ではない可能性がありますね。

いや、「余計に不幸になる可能性すらある」と言えるでしょう。

以前の記事で取り上げましたが、ある研究で

「仕事で作り笑顔をすることが要求されるサービス業に従事する人達は、仕事が終わると深酒をするリスクが高い」

ということが示唆されています。

これは「無理に作り笑いをするとかえってストレスになる可能性がある」という事を示唆しています。

やはり、自分の気持ちを偽ることはいいことではないんですね。

なので、笑うのであればちゃんと快感情を伴う場合、つまり「心から楽しいと思って笑う」以外は笑っても仕方がないという事になりそうです。

自分の好きなお笑い芸人や落語家等といった人たちをあらかじめ見つけておくと、毎日快感情をもって笑えるかもしれません。

参考記事等

幸せを感じられるために出来る事

このまま終わっては、「無理に幸せになろうとしなくていいのはわかった。じゃあ、どうすればいいのさ?」となるでしょうから、少しだけ幸せになるためにすぐ出来そうなことをいくつか提示してみたいと思います。

それが以下です。

・幸せになろうとするのをやめる

まず、「幸せになろうとする」のはやめましょう。

「幸せになりたい!」と強く思うほど、自分の現在と自分の理想とする幸せな状態を比較してしまうのでより自分の置かれている状況を不幸であると認識してしまいます。

それよりも「自分の身近にあるちょっとした幸せを見つけてみる」といった事に意識を移すといいです。

・運動や筋トレをしてみる

気がめいっているときはあれこれ考えるより、体を動かしてみるのもいいでしょう。

例えば、緑の多い場所を歩いてみるだけでもかなり気分が楽になるはずです。

また、筋トレをするのもいいですね。

筋トレにはウツの予防効果があるといわれておりますしね。

詳しくは以下の記事からどうぞ。

・自分の行動や意識を変えてみる

自分の行動パターンを見直すことで精神状態を向上させることもできます。

以下の記事を参考にしてみてくださいな。

また、上述したように「物事の見方等を変える」のも一つの解決法です。

心理学でいうところのリフレーミングというものを使うわけですな。

リフレーミングについて詳しくは以下。

・自分に対して思いやりを持ってみる

自分に対して厳しくあろうとし過ぎると、自己肯定感が下がってしまいます。

人は誰しも不完全であり、出来る事があればできない事もある存在です。

「完全でなけばイケナイ」なんて事はないですし、そもそも「完全であることは無理」ですね。

なので、失敗しても「もう自分はダメだ」と思うのではなく、「そんなこともあるさ。人間だしな、ドンマイ。またがんばろ」位に自分に対して優しくいるのがいいです。

詳しくは以下。

・抵抗がない人は死を思ってみる

人は誰しも必ずいつか死ぬ運命にあり、人生とは有限です。

この事実を抵抗がない人は意識するといいでしょう。

そうすると「もっと限りある人生を有意義に生きなくては!」といった気分になってきたりするかもしれません。

もっともこの方法はウツ傾向のある人がやるとウツが悪化する可能性があります。

そのような方はやめてくださいな。

基本的にこの方法は「死を思っても何ら抵抗感を持たない人」にしか進められないものです。

詳しくは以下。

よく聞く「メメントモリ」の本当の意味ってなあに?「人名ではない」

おわりに

この記事は「無理やり幸せになろうとしても不幸になるから止めときなさいな」と題しておおくりしました。

無理に幸せになろうとしても仕方ありません。

不幸である時に、無理やり笑っても意味がないし幸せを感じられない時は感じられなくても仕方ないです。

無理に自分の感情を偽って「わたしは幸せだ!」なんて思い込んでも、とても幸せになれるとは考えられないですね。

無理に幸せになろうなんてしなくていいです。

少しずつ自分の出来る範囲から、幸せのハードルを下げていけばいいでしょう。

日々の生活の中に笑いが欲しいなら、あらかじめ自分の好きな芸人や落語家等を見つけておくのをおすすめします。

まあ、気楽に笑って生きていきたいものですよね。

では!

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