「マイノリティーへの配慮って個人的には凄く大事だって思う。そこは間違いない。でも、、、、残念なことにういくらそれを主張しても絶対に聞き入れない連中ってのはいるよね、、、。何をどう説明しても理解してくれない連中っていうのがさ、、、。」
うん、そうなんだよなあ。
話せばわかるとは限らんし、さらに言えば理解と配慮はまた別なんだよねえ。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「マイノリティーへの理解が広まれば、寛容になるという見通しは甘い気がする」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
- マイノリティへの理解だけではマイノリティー問題は解決しないと思っている人
- 逆差別問題に関心がある人
- 話のネタが欲しい人等
マイノリティーに対する差別や偏見を是正するために、「マイノリティーへの理解が進めよう」というアプローチは今では結構当たり前の風潮ですよねえ。
正直、こういったマイノリティの人に対する配慮は今後人類が繁栄していくためには必要な事であろうって気はします。
ただ、個人的には「理解を進めることによる弊害もある気がする、、、」なんて思ってしまうんですよねえ、、、、。
何というか、ある程度の棲み分けをしてお互いにあまり接しないようにした方がいいこともあるとおもったりするんですよね。
理解と納得はまた別ですし、、、。
こういった考え方は、あまりにも人間の理性を過信しているし、性善説に立ちすぎた考え方だって気がしてしまいますなあ。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
マイノリティの問題なんて大多数にとっては、所詮他人事
近年、多様性の観点から、マイノリティーに対する偏見や差別というものが問題視されてきています。
これは人類史上、偉大なる進展と言っていいことですし、また、生物学的な文脈においても非常に有益なことです。
種の保存という文脈で考えるなら、遺伝子は多様であった方が環境の変化に対して適応できる可能性が高まるので有利なんですよね。
これがもし、「今の文明文化に則して有利」とされる遺伝子だけ残して、他を根絶するといった優生思想的な考えで生命を選別すると自然環境の変化がその「有利とされる遺伝子」に不利に変化した場合全滅してしまいます。
しかし、個体群の中に「色んな遺伝子がある」とそういった環境変化に対応できる遺伝子を持つ個体は生き残ることができますよね。
なので、遺伝的多様性は重要なんですね。
そういった意味では、政策的にマイノリティーを保護したり配慮したりするという事は重要な訳です。
しかし、「マイノリティへの配慮」といっても多数側からしたら、現実的な意味での利益は感じられないため、
「え?マイノリティーが困っている?だから何?わたしらには関係ないでしょう?勝手にすれば?」
となりがちですし、まあそれが普通な気がします。
決してこれがいいというわけではなく、「そういう傾向はあるだろう」ってことです。
人間は基本的に自分に利害のないことになんて無関心ですし、むしろそうでないと自分の身なんて守っていけません。
決していい訳ではないけど、そうなるのは仕方ない面もあるよねって思いますなあ。
複雑な気持ちになるっちゃなりますけど。
そもそもマイノリティーや弱者への理解が広まれば、差別や偏見がなくなるという見通しが甘いかもしれない
世間的には「マイノリティーへの偏見や差別はマイノリティーへの無理解が原因だ!」とする風潮があります。
確かに、人間には「未知のものを恐れる」という心理傾向があるため、よく実態がわからないからマイノリティーを攻撃するという論理もわからないではないです。
しかし、だからといって、「理解を進ませれば差別が解決する」みたいな考えは、「少し性善説に立ちすぎていないか?」という気になってしまいます。
まず、「理解」と「納得」は違うという事も大事です。
例えば、恋愛で考えてみましょう。
誰が見てもイケメンだけど性格的には結婚に不向きな男性と、明らかにブサメンだけど性格的には結婚に向いている男性がいたとします。
ちなみに、年収や身長と言ったものは同じと仮定しますよ。
ある女性がこの二人の男性から同時期にプロポーズを受けたとします。
理性的に考えた場合は、ブサメンを選ぶのが正解ですが、本能的にはイケメンを選びたくなるのが通常の感覚です。
つまり、「理解とは理性的な作用」であるのに対して、「納得とは本能的、感情的な作用」であるってことなんですよね。
ここで、もう一回話をマイノリティ―に戻すと、例えば、いわゆる障碍者というものに対しての理解が進み「なるほど、助けは必要だよね。障碍者差別はよくない」と理解するのと、「自分も助けたい。平等に接すべきだ」と思うのは全く別だってことが言いたいのです。
むしろ、ひどい場合になると、実態を知ったがために「本当にどうしようもない連中だな!!こんな連中になんて生きていていほしくねえよ!!絶対あんな連中を認める訳にはいかない!!排斥してやる!!」とか言い出す人も出てくるかもしれません。
例えば、いわゆる路上生活者や生活困窮者に対する一般の人のイメージには、「なんだかんだお金はないが性格的にはガツガツしてなくて控えめでつつましく大人しい」みたいなものがあるかもしれません。
しかし、現実を見てみると、むしろ逆であることもよくある気がします。
まあ、言葉を選ばず言えば、「救いようがない程に性格も生活態度もあれている」という感じでしょうか。
お金がないことによるストレスによって認知機能が顕著に下がるなんて話もあるくらいですので、これは全然あり得る事なんですがね。
生活困窮者の実態や性格的なものを実際に接して体験したり実際に接した人の話を聞くなどして、よく理解したりすることでかえって、「こんな奴ら助ける必要なんてない!のたれ死ねばいい!」なんて言い出す人も出てこないとは限らないのです。
事実、最初は支援する気満々でいたのに、次第に現実を知って憎悪が募っていったなんて人がいてます。
ちなみに、あまりに粗末な格好をしている人を人間は「自分と同じ人間と思わない傾向がある」という研究結果もありますね。
これを「非人間化」といったりしますな。
いくら、口で「差別してはいけない。人はみな平等だ」等と理屈上もっともなことを言っていても、脳は正直に反応しているのです。
理解が進むことでかえって、「こんな奴ら許せない!」という本能的な敵意が生じる事もあり得るという事です。
なので、ある意味では、「お互いにすみ分けて関わらない」というのも、一つの共存の形なのではないかって気がしてしまいます。
ライオンとシマウマを共存させようというのに、ライオンの群れの中にシマウマをはなったら無意味です。
それでは「ライオンにシマウマという餌を与えている」だけになってしまいます。
お互いに関わりあうことで実害が生じるもの同士は、お互いに距離をとるってことも必要だと思いますね。
「相手を理解する」という事は、「相手に近づいていく」という事と同義です。
不用意に近づきあうことで、無用な血が流れることも大いにありえます。
「理解が進めば差別や偏見が消える」は、あまりに人間の理性を信用しすぎているし、性善説に立ちすぎた考え方だって思ってしまいますね。
正直いって、「そもそも理解が必要だとはたから見て明らかに分かるような人は、理解してもそれを材料にしてさらに攻勢を強める」様な気がわたしはしています。
もう、こういった人達は、「相手がどんな状況に置かれているのか」なんてどうでもよくて、ただ本能的に「目障りだから徹底的に殴り倒したい」くらいにしか思ってないってことです。
そういった人に、いくら理屈を言っても「あー、そう。しらねえよ。オレはテメエが気に入らないから殴る!」てなるだけなんですよねえ、、、。
その一方で、相手のことを理解してなくても、「ふーん、君はそうなのね。何かかわってるね?」くらいで何も思わず、むしろ「なんか違っていて面白くね?」みたいに思うやつもいるんです。
まあ、わたしもそう言った違いを面白がる一人ですが。
始めから、「殴ろう」と思って助走付けている奴に、いくら理屈を言っても意味があまりないんですよねえ。
だったら、素直に棲み分けしたほうがいい気がします。
マイノリティ配慮で侵害される大勢の権利
マイノリティー側に配慮をするのは大事ですが、それが行き過ぎるといわゆる「逆差別」というものが起こってくることがあります。
逆差別とはアメリカにて、差別是正のために導入されたアファーマティブアクションの結果、多数派に属する有資格者の一部が不利益を受けてしまうという事です。
具体的な例を挙げるなら、女性を優先的に大学へ入学させたため、入学試験においてその女性より高得点だった男性が大学の定員枠からはずれて不合格になったなんて感じですかね。
平等を実現するためにマイノリティ側を優遇するのは大事ですが、優遇し過ぎるあまり多数派が割を食ってしまったという事です。
こう言った事は日本でもいたるところで起きていますよねえ、、。
特に恋愛とかだと、最近の日本はなんだかんだ女性の優遇が進みすぎて、多くの男性がかなり割りをくっているような気がしますね。
正直、何も関係ない、、、、いやむしろ得をしているのは、一部の「誰が見てもイケメンの男性」くらいかな?
知らんけど。
そして、例えば、これはよく一般にやりがちな間違いですけども、「障碍者は助けられるべきかわいそうな存在」等といった一般化です。
「障碍者」という広範な属性に対して一様に、「助けられるべきかわいそうな存在」という解釈を紐付けるのはかなり危険だって思います。
大抵、人が「助けられるべきかわいそうな存在」と聞いて想像するのは、「自分に対して好意的で感謝を欠かさない良心的で無害な人物」だと思うんです。
しかし、例として適当かは分かりませんが、現実には「性格の悪い障碍者」とか「殺人等凶悪犯罪を犯してしまうような障碍者」とかもいるでしょうから、「障害者=人格者」なんかではないんです。
障害を持っているからと言って、犯罪行為や悪意による加害行為が免責されるなんてことはあり得ないし、法秩序の面からも「絶対にあってはならない事」だといえます。
こういった「マイノリティへの過度の美化」が根底にあると、いざ理解が進んだ時に「なんて奴らだ!!ふざけやがって!」と不必要にヘイトがたまってしまうでしょう。
美化なんて必要ないし、しては行けませんよ。
「個別にその個人をしっかりと見てその人の人格を判断する」のが大事だって思いますね。
あと、これいうと少しきついかなとも思うものの、わたしの思うところを言うと、「マイノリティーだから無条件に優しくされるべき」等とはわたしは全く思わないんです。
やはり、「優しくされるにたるだけの本人の努力もなしに、優しくなんてされる事はないのが道理。だから、本人の努力不足によって優しくされない事があるのも仕方ない面はある」と思います。
まあ、もちろん、「努力する機会を社会が与える」というのが大前提なんですけどもね。
例えば、人に好かれるために過度に努力する必要はないですけども、「ちゃんと感謝を表明する」とか「自分から負担にならない程度に親切にしてみる」みたいな簡単なものもせず、いつも過度に攻撃的だとかクレームばかり言うなんて話ではどうかなって思います。
少なくとも、わたしはそういった感じが慢性的に続くような人には、手を貸したくないですね。
まあ、色んな事情があったんだろうなとか環境がどうとか理解はできますしもちろん想像もできますが、だからと言って「助けたいとは全く思いません」。
それとこれとは話が全く違うよって感じです。
正直、自分よりもっと精神的に余力のある人に助けてもらってくれって感じで、わたしは身を引きます。
やはり、助けてもらう側にも助けてもらうだけの努力は、必要だって思ってしまいますなあ。
マイノリティへの配慮が得になる社会を作る方が現実的ではあるかもしれない
マイノリティへの配慮が大事なのは当然なのですが、その配慮を優先するがあまり多数派の人が損失を被るような状況が蔓延すると、マイノリティへのヘイトが蓄積していっていつか何らかの形で爆発する気がします。
なので、わたしは政治家ではないので何とも言えないところはありますが、「マイノリティの人を助けると助けた人が何らかの目に見える形で得をする制度」をもっと作っていくといくらか事態はましになるんじゃないかなって気はしますなあ。
決して、根本解決にはなってないですけども。
でないと、いくら「人権が~」とか「平等が~」といったところで、多数派の人達に「で、それで私に何の得があんの?そんなことしても自分が損するし嫌だね。知ったこっちゃない」と思われるだけだと思います。
まあ、一応わたしの狭い見識の範囲内で判断するに、現状の日本って結構「人の善意にたかるような制度が多い」気がしますねえ。
なんというか、「人の役に立てるんだから報酬いらないよね?」みたいな不当な搾取を正当化する論法を使うクソどもがのさばっている気がするという、、、、ね。
自己犠牲が称賛される気持ちの悪い風潮って感じでしょうかな。
こういった風潮も是正してかないと、今後ヘイトが爆発する気はしますけどねえ、、、。
人に親切にするにしても、自分が負担にならない程度にしないと自分が不幸になるんですから、自己犠牲は可能な限りしないようにしていきたいものです。
自分の心の余裕のおすそ分けが他人への親切だとも、ある意味言えるわけですからね。
ま、そんな単純に言えるものではないけどねえ。
おわりに
この記事は「マイノリティーへの理解が広まれば、寛容になるという見通しは甘い気がする」と題しておおくりしました。
「マイノリティ―への理解が広まれば、マイノリティーへの偏見や差別がなくなる」という見通しは、個人的にかなり甘い気がします。
理解が進むことで敵意が生まれることもあるし、理解が進む進まないにかかわらず「殴りたいから殴る」という連中がいることも忘れてはいけないでしょう。
なので、現実的に考えるなら、「お互いの棲み分け」とか「マイノリティーを助けると得をする制度」と作るみたいなものの方がまずは大事じゃないかなって気がしてきますなあ。
まあ、「人の善意にたかるやつは総じてクソ!」ってことですわ。
では!
参考
https://kotobank.jp/word/%E9%80%86%E5%B7%AE%E5%88%A5-177138
参考記事等