偏見と差別、区別って同じもの?その違いについて少し考えてみたい

「偏見とか差別って本当嫌だよなあ、、、、マジでクソだわ。偏見が強い人とか差別的な人ってクッソきらい!あと差別しているくせにいけシャーシャーと「これは差別じゃない。区別だ。」みたいに言ってくるヤツはもうマジで腹立ってしまう。何でもかんでもうまく言い訳すればいいと思うなよ?」

うむ、、、確かに差別と区別ってよくわかんないよねえ。

実際、差別と区別ってようわかんないよな。

区別って使いようでは差別の正当化だもんねえ。

オニギリス!

脱マンネリストのオニギリです!

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「偏見と差別、区別って同じもの?その違いについて少し考えてみたい。」という話です。

今回は以下のような方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ

偏見や差別、区別の違いについて考えたい人

偏見や差別が強い人って嫌ですよなあ、本当。

正直言って、そんな人を好きな人はなかなかいないでしょう。

しかし、明らかに差別じゃないか?と思われることであっても、「これは差別じゃない!区別だ!」なんていう人がいます。

そこで気になる人がいるはずです。

「差別と区別の違いって何?」と。

そして、なんで差別なんて起こるんだろうか?、どうやったら差別は減るんだ取ろうかとも思うでしょう。

今回はこれら差別と偏見、区別の違い、その原因や減らす方法について考えてみたいと思う次第。

では、ゆるりとおおくりします。

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偏見、差別、区別ってなあに?

まず、偏見と差別についてその定義を確認しておきましょう。

差別とは

「集団間関係の文脈の中で使用される概念であり、特定の集団や構成員に対して公平さを欠く不当な扱いをすること」

を意味します。

引用

https://www.jstage.jst.go.jp/article/arepj/53/0/53_133/_pdf

例えば、「このクラスではAはいじめてもいいけど、Bは明るいからいじめない」みたいな感じですかね。

明らかに不公平な対応です。

そして、偏見を語るにおいては、まずステレオタイプ(固定観念)についても触れないわけにはいかないでしょう。

ステレオタイプの定義を示すと、ステレオタイプとは

「偏見の認知基盤をなすものであって、歴史的には、特定の社会集団に対して抱かれる集約的イメージを指す」

とされているといいます。

引用

https://www.jstage.jst.go.jp/article/arepj/53/0/53_133/_pdf

そして、偏見は

「対象に対する否定態度を指し、対象集団に関する否定内容の信念や感情、行為意図を含んでいる」

ものだそうです。

引用

https://www.jstage.jst.go.jp/article/arepj/53/0/53_133/_pdf

つまり、ここまでの流れを簡単にまとめると、偏見は

「ステレオタイプに基づいて対象となる集団に否定的な見方をする」ってことになるでしょう。

具体例を挙げるなら、「デブって自堕落な生活しているからあんな風な体型しているんだよな。デブは能力低いんだよ」みたいなのは偏見でしょう。

太っていても有能な人はいるし、そもそも太りやすい体質の人や病気で太りやすい人もいるので、一概に「太っている人は~」なんて断言するのは極論です。

また、「~人は歴史的に粗暴な振る舞いが多かった民族だ。だから、~人は迫害されて当然だ」みたいなのは偏見であり同時に差別的発言って感じでしょうね。

まあ、いずれにせよ、いい気分がしない例でした。

そして、最後に区別について考えておきましょう。

区別とは辞書的な意味では

「[名](スル)あるものと他のものとが違っていると判断して分けること。また、その違い。「善悪の区別」「公私を区別する」」

とされています。

引用

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%8C%BA%E5%88%A5/

この定義を見る限り、区別に関しては「違いを認識して違いを判断すること」であり、そこに「悪意」のようなものはないわけです。

例えば、女性と男性の生物的観点から見た身体的特徴の違いを認識したうえで、「女性と男性は身体構造が違うのだから、それぞれには適した社会制度の在り方がある」みたいなのは区別であり、差別ではないってことでしょう。

まあ、「悪意ゼロの判断」なんてものはないのかもしれませんが、少なくとも差別に比してそこに含まれている悪意が少ないのは確かだと思います。

偏見や差別ってなんで生まれるのかな?

差別や偏見がなぜ起こるのかについては「断言できません」。

ただ、これまでの大量に行われてきた差別や偏見についての研究を概観するに、これだけは言えると思われます。

「偏見や差別は人間の本性に深くかかわっている」と。

つまり、「差別や偏見は人の生来の特性によって生じている可能性が高い」ってことです。

偏見や差別に関する研究は、1920年代以降から始まったとされています。

そして、その研究の変遷は以下の順のようになっているとのこと。

  • 人格理論的アプローチ
  • 集団心理からのアプローチ
  • 認知的アプローチ(ここに至って偏見や差別が人間の正常な心理メカニズムに由来することが示された)
  • 社会動機的アプローチ

最近の社会動機的アプローチにおいては、偏見や差別を容認、肯定しようとする心理動機に言及する研究が増加しているとのことです。

その具体的例としては、支配志向支配性という概念の提唱が挙げられるでしょう。

この概念では「人間には集団間の序列や優劣を肯定せんとする根強い心性があり、この心性には進化論的な起源がある」としています。

そして、その中でjostさんらが唱えるシステム正当化理論が登場してくるのですが、これが結構辛辣です。

その理論の大雑把な概要は

「人間は基本的に現状維持をしようとするため、現行の社会の仕組みを『現にそこに存在している』という理由から公正かつ正当であると肯定してしまう」

というもの。

これってかなり怖い話です。

例えば、この理屈でいくと

「現行の社会の仕組みのせいで社会的に弱い立場の奴が死んだとしてもそれは当たり前だ」

と一切社会の仕組みのせいで苦しんでいる人たちを救済する必要はないって感じの論法が取れてしまうのですから。

ただ、普通の人はこのような主張を聞いて「いや、そんなバカなことあるか!」と怒るはず。

そう、わたし達の多くは自分たちの暮らすこの社会が差別や偏見のような理不尽でおおわれているとは考えたくないものです。

そんな時にわたし達の不条理に対する不快感を相殺してくれるものが相補的ステレオタイプというもの。

相補的ステレオタイプとは

「全ての物事には長所と短所があり、ある次元では優れていてもまた別の次元では劣っている者だという信念」

のことです。

この相補的ステレオタイプによって、ある次元で不公正や格差があっても別の次元でその格差等が相殺されるのであたかも平等が実現されているような錯覚が生じるといいます。

この錯覚が生じると、社会的に不利な立場にある人々を救済しようとする意図が減じられると考えられます。

例えば(jost&Kay,2005)によると、女性は男性と比べて能動性や主体性は低いかもしれないが、協調性や共感性では優れているというジェンダーステレオタイプ(性別に関する固定観念)が顕著になると以下のようなことを肯定する態度が強まるといいます。

  • 性別役割分業社会
  • 雇用や昇進における男女間での格差

このような社会動機的アプローチは差別や偏見というものが人間の根源的な欲求等により引き起こされるということを示唆しています。

つまり、この議論をまとめると悲しいですが、「人が人である限り差別や偏見は無くならない」と結論できるということになるでしょう。

ま、「現時点では」の話ですがね。

偏見や差別がなくならない?

上述から、現時点では偏見や差別は人間からはなくなることはないと考えられます。

とはいえ、差別や偏見をこのまま放置していていいわけないのは明白なので、どうにかして減らしていきたいのが人情というもの。

事実、偏見や差別の解消に関する研究は様々な観点から進められています。

例えば、オルポートさんは接触仮説を提起して偏見は相手に対する知識の欠如が大きな原因であるとしました。

つまり、相手との接触を増やして真の情報に触れることにより、偏見は自然と解消されるということです。

ただし、接触が効果を持つには以下のような条件があるとのこと。

  • 多数者集団と少数者集団が対等の立場で共通の目標を掲げる接触であること
  • 両者の接触が制度的に是認されていること
  • 両集団に共通する関心や人間性の認識を促す接触であること

まあ具体的な例を挙げるなら、アニメが好きな外国人達を日本に招いて日本のアニメファン達と交流させる事例でしょうか。

この他にも細かいものですが、「障害者」という表記を「障がい者」という表記にしてアンケートを取るとイメージの好転が見られたとする研究もあるようです。

たしかに、偏見や差別というものは人が人である限りついて回るものなのでしょう。

しかし、だからといって「あって当然である」と考えてしまっては、「一向に減らない」わけです。

なくならないとしても、「減らす努力は不可欠」ですな。

おわりに

この記事は「偏見と差別、区別って同じもの?その違いについて少し考えてみたい。」と題しておおくりしました。

偏見や差別は人間の本性に深く根差したものであり、なくすことはおそらくできません。

しかし、「少しでも減らすために何ができるか?」と考えて実践していかねば、一向に減るものではないでしょう。

そのためには特定の集団を「あいつらはこういうやつ」と決めつけることなく、開かれた心で交流してみたりその集団に関する知識や違った見方を調べてみることが大事といえるかと思います。

いずれにせよ、「決めつけない柔軟な姿勢」を心がけてまいりたいものです。

では!

参考

https://www.jstage.jst.go.jp/article/arepj/53/0/53_133/_pdf

参考記事等

ぶっきらぼうな人が冷めたい人とは限らない。「不器用は損」

ステレオタイプ(固定観念)にとらわれていると能力がだだ下がり

「多元的無知の恐怖」根拠のない思いこみは混乱の元凶だよ

「偽の合意効果(フォールスコンセンサス)」自分はいつも多数派という考えの罠

偏見や差別、決めつけの度合いは知性の高低と関係ある?他人事じゃない。

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