中国のかっこいい?ことわざを心理学的視点から分析してみた「格言は結構正しい」

「ことわざとか格言ってあるけど、正直ああいったものって正しいのかね?なんか、一見すごくいいこと言ってそうな感じはするけど、その内容が妥当なのか非常に疑わしい、、、、そんな気がする。なんせ、現代と昔じゃあ時代背景が違いすぎるもんなあ。」

ふむ、まあわからんではない。

ただ、時代や社会が変わっても人間ってそんなに変わっておらんね。

なんせ、人間は長らく進化してないしねえ。

オニギリス!

脱マンネリストのオニギリです。

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「中国のかっこいい?ことわざを心理学的視点から分析してみた「格言は結構正しい」」という話です。

今回は以下のような方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ
  • 中国の格言やことわざの妥当性を心理学的に検証てみたい人
  • なんか、中国古典のかっこいい格言やことわざを探している人
  • 話のネタを探している人

昔からある格言やことわざって人を説得しようとする場で、使われることが多いですね。

なんか、その文体のせいもあるのか凄く大層なこと言ってそうな気がします

でも、よくよく解釈してみると「ん?これ現代でも通用するんか?」なんて感じの内容のものもありますな。

その一方で、格言には「んー、これどうかなあ、、、、心理学の観点からだと妥当だとはとても言えんなあ、、ちょっと理想論に走りすぎて現実味がない、、、」みたいなに思うものもあります。

そこで今回、中国の格言から「これ心理学的にわりと妥当じゃね?」と思うものを探してみました。

なんで、中国の格言かというと、中国の格言は中国の風土や文化のせいなのか結構、現実的なものが多い印象だからです。

※もちろん、わたしの主観にすぎない。

多分、現代の日本でも今回取り上げる格言は使える状況は多いと思います。

「なんか、少しかっこつけたいかもしんねえ」と思うときは、使ってみてくださいな。

それに年長の人との会話でこういった格言を知っていると得することって結構あります。

年長の人が言った事を肯定する時に、「そういえば、昔の格言に~なんてものがありましたね。まさに~さんのおっしゃっていたのと同じような趣旨でした。、、、」みたいに言うとかなり信用されますね。

ただ、正直いって、格言の意味に関して今回は厳密な解釈をしているわけではないんで、そこは注意。

何となくのニュアンスでお願いします(笑)。

※とはいっても、会話のネタにするのに支障がないレベルではあるはず。

ま、厳密な意味や解釈が知りたいのであれば、他のお堅い人のところへ行ってください。

なお、他にも名言を知りたいという人は「「心に響く名言(迷言?)」心に残る名言60選「人生に豊かさと気付きを」」の記事をご覧くださいな。

この記事は守屋洋さん著「中国古典 一日一話」を参考にしています。

では、ゆるりとおおくりします。

スポンサーリンク

中国古典の格言、名言の妥当性を心理学的に分析してみよう

さて、では中国の格言心理学的な観点から見ていきましょう!!

・上善は水の如し(老子)

上善(じょうぜん)とは「最も理想的な生き方」の意。

「水の柔軟さに生き方を学んだほうがいい」という老子の言葉です。

これはわたしの一番好きな言葉といっても、過言ではないかもしれません。

水は四角い器にはいれば四角くなり丸い器にはいれば丸くなる様は非常に柔軟。

また、水が川を上から下に流れるさまは謙虚でもありますし、それでいて津波ともなればものすごい破壊力を発揮しますな。

水には「柔軟さ」や「謙虚さ、「秘めたる莫大なエネルギー」があるわけです。

これって人間でいうなら「思考の柔軟性」や「謙虚さ」といえるかもしれません。

以前の記事で取り上げたように、「謙虚」は「卑屈」とは違って自尊心が高い状態です。

謙虚であるということは、相手に気圧されて服従しているのとはわけが違うのです。

謙虚な人は実力を備えつつも、それを誇示する必要がないから表に出さないに過ぎないということ。

凄いエネルギーを秘めているわけですな。

人生で幸福感を感じるためには、自尊心が非常に重要ですし、思考が柔軟であれば窮地にあっても気を病むことはあまりありません。

また、思考の衆南西は創造性の高さにもつながるので、変化の多い動乱の時代にも適応して生き抜いていけるでしょう。

そして謙虚な姿勢は、自分の客観視や人間関係の円滑化にも資するところ大です。

水のような生き方は、「幸福に生きる」ことを考えた場合、現代でも十分に通用するものだと思いますねえ。

・大弁は訥(とつ)なるが如し(老子)

大弁とは「話しすぎる事」、訥とは「話さないこと」です。

なので、「話しすぎることは話さないのと同じだ」という意味になりましょう。

これはあのトーマス=カーライルがいった「雄弁は銀、沈黙は金」と同様のものといえるかと思います。

まあ、雑に言うと「話しすぎると有害よ!」てことですな。

会話が上手な人というのは、沢山話す人ではなく「人に話させるのが上手い人」です。

そして話題にもよるものの、原則として早口でまくし立てるようでは、聞かされる方としてはいい気分はしません。

このことわざは正しい気がしますねえ。

・利をもって合(がっ)するものは、窮禍患害(きゅうかかんがい)に迫られて相棄つ(荘子)

「利害関係によって結ばれた者は、苦境や困難に直面したら簡単に仲間を裏切る」という意味ですな。

まあ、これは直感的に正しい気がしますねえ。

ただ、心理学では「人は誰でも裏切る」ので、「裏切らない人はいない」といえます。

では、何が人を裏切らせるかと言ったら「その人が置かれている環境」です。

「裏切りが起こりやすい環境」に置かれているのが問題なんですね。

ここで言うと苦境とか困難ってことですかな。

また、今裏切らない人が「将来も裏切らないとは言えない」です。

人の道徳心は状況で変化するんでね。

そこで、裏切るかどうかを見る時は「人柄を見るのではなく、その『動機』をみろ」ということになります。

もし、このことわざで言うように動機が「損か得か」、それも「金銭や権益」といった現実的なものなら、初めから裏切らないのを期待しても無駄だってことになるでしょう。

※人は金が視界に入ると嘘をつきやすくなるという。それから推測するに、金や利権には不正を誘発する作用がある可能性はある。

まして、困難に直面したら、まあすぐ裏切っても仕方ない気がしますねえ。

ただ、動機の種類によってどれくらい裏切りやすさが変わるかについては、かなり議論が必要かもしれません。

もし、協力関係を結ぶなら「裏切ったら貴様もただでは済まないぞ」という牽制が相互間に必要になるかもしれませんね。

んー、世知辛い!

ということで、このことわざは「割と当たっている」感じです。

・我を馬と呼ばば、これを馬と謂(イ)わん(荘子)

このことわざを文字通りに読むなら、「わたしの事を君が馬っていうんなら、わたしは馬でええよ」みたいな意味になるかと思います。

このことわざは簡単に言うと、「批判があることは承知しつつも、それにとらわれない」って感じの意味になるかと思います。

いわゆる、スルースキルの重要性みたいにも聞こえますねえ。

まあ、ネットでよく見かける「お前が思うんならそうなんだろうな。お前の中ではな」に少し近い感じがしないでもないですねえ(ま、この表現は皮肉の意味が入りすぎだが)。

で、この格言はあるエピソードが元になっているようです。

ある男が老子の評判を聞いて彼の元を訪ねてきたそうな。

ところが、老子の家はマジゴミ屋敷。

そこで、その男めっちゃ毒づくわけです。

「うっわ!めっちゃだらしないし汚ねえ!あたおかやん!」みたいに。

でも次の日になって、その男は老子に悪口を言ったことを謝りに来たんだとか。

そしたら、老子

「んー、君はわたしが偉い奴だと勝手に思っているみたいだけんど、別に偉いとか偉くないとかそんなこと、わたしとっくに卒業してるかんね。まあ、ええねん。別に君がわたしを『てめえは馬だ!』ていえば、「そうだね、馬だね」て認めただろさ。ま、そういうからには、なんかそう思う根拠があるんだべ?」

て感じで返したそうな。

老子は自分に対しての批判を「あ、ふーん、まあ、あるよね。しゃーない」て受け流したってことでしょうね。

言い合っていると周囲からは「同レベルの人間同士」に見えてしまうといわれているので、華麗にスルーできるならスルーしたいところです。

犯罪的なことに発展しないなら、相手にしないのが一番かもしれませんな。

現代に通ずる考えです。

・窮もまた楽しみ、通もまた楽しむ(荘子)

どうやら「窮」は「貧乏」、「通」は「資産家」等と解釈していいそうです。

なので、文字通りに読むと「貧乏でも金持っても楽しむ!」みたいになりますな。

要するに、「まあ、人生色々あるけど、その時々の状況に応じて人生楽しもうぜ!」という荘子からの熱い?メッセージのような感じがします。

人生を前向きに楽しんだほうが幸福感は多いので、この格言には「そりゃあそうだ」としか言えない気がしますね。

人生を楽しむには、その状況状況をユーモアをもってとらえる能力であるプレイフルネスが重要になってきそうです。

堅物だと人生を修行のようにとらえてしまってつまらなくなりそうな気はします。

遊び心をもって、人生楽しんでいきたいもんですねえ。

・彼を知り己を知れば、百戦して殆(あや)うからず(孫氏)

これはもう有名すぎる格言ですな。

文字通り、「相手がどんな奴で自分がどんな奴かをしったら、何回戦っても問題ねえよ!全勝ちすっから!」みたいな感じの格言です。

やはり、人は誰かと相対する時に「こいつはどんな奴か?」と意識をとがらせはしますが、「自分はどんな奴か」については結構無頓着な気がします。

まずは、「自分がどういった性格でどういったことに価値を感じる人間なのか」みたいなことをしっかりと把握しないと、人生という航海でどこを目指していったらいいかわかりません。

もし、人生の方向性が分かるなら、それをもとに人や物事との関わり合いを決めていけます。

逆に自分について無知な状態で相手ばかり分析しても、その相手とかかわっていく自分の事を知らなかったら、なにも効果的なアプローチなんてできませんな。

自分を知るって大事なのです。

自分の性格や何を大事にしたいかについて知りたい人は、以下の記事からどうぞ。

・囲師(いし)には必ず闕(か)き、窮寇(きゅうこう)には迫ることなかれ

敵を取り囲んだら必ず逃げ道を開けてやんな。窮地に追い込んだ敵に攻撃を仕掛けちゃだめよ~ダメダメ!」て感じの意味ですね。

まあ、「徹底的に追い込むと死に物狂いで襲ってきてこっちが大けがするぞ!だから、逃げ道は残してやれ」てことですな。

うん、非常に正論。

人は追い込まれて過大なストレスがかかってくると、そのストレスにより正常な判断力を失い自暴自棄な行動をとったりします。

追い込みすぎて自暴自棄になられたら、捨て身でかかってくるので追い込んだほうもただではすみませんな。

「窮鼠猫を噛む」ともいいますし、人を追い込むのは考え物です。

自分がえらい目に遭います。

この格言は非常に妥当。

・鉤(こう)を盗むものは誅(ちゅう)せられ、国を窃(ぬす)む者は候たり(史記)

文字通りの意味は、「帯金を盗んだやつは処刑されるけど、国を盗んだやつは支配者になる」て感じです。

うーん、なんとも言えない理不尽さを感じますねえ。

この言葉は、史記の著者である司馬遷(しばせん)の嘆きのように感じられます。

彼は史記でこの格言の前後で、「支配者になっちまえばよぉ、かってに仁も金もついてくるんだよぉ、、、誰がこれを否定できるってんだい!」みたいに言っていますねえ。

ま、こういった国を盗む輩こそ今でいうサイコパスなんでしょうな(厳密には一次サイコパスね)。

「勝てば官軍」という言葉通り、一旦支配者層になって力を持てば勝手に人格者だと思わせることができるから問題ない、、みたいなね。

ただ、今はネット社会なんで悪事は基本的には筒抜けなので、どうなんでしょうか。

でも、国の乗っ取りとかってなったら情報統制もできるから、、、結局同じか。

んー、巨悪ほど表に出てこないからねえ。

怖いけど、これあたってる気がする。

・三人言いて虎を成す

この言葉の意味は、「三人が口をそろえれば、虎のウソも真実になる」といったもの。

つまり、「嘘も重なると本当になってしまう」てことですね。

心理学で言うところの、第三者からの情報は信頼されやすいというウィンザー効果と、出所の怪しい情報も時間がたつと説得力が増してしまうというスリーパー効果に根拠がありそうな格言です。

んー、ちょっと根拠が無理やりな感じがするけどまあいいか。

まあ、正しい気がします。

・花は半開を看(み)、酒は微酔(びすい)に飲む(菜根譚)

この言葉は「花を鑑賞するのなら五分咲きの頃がよく、酒を飲むならばほろ酔い気分くらいがいい」という意味です。

表面的には花見の仕方と酒の飲み方をといているのですが、その本質は処世術だといいます。

その本意は

「何でも思う通りになる人生を歩んでいると次第に傲慢になるので、そういった人は初心に帰ってみるといい」

ということである模様。

これを心理学的な文脈で解釈するなら、「自分を常に客観視することの重要性」や自分の大事にしたい価値と今の行動等をその価値に結びつける努力の必要性」、そして「自分への思いやりを持ち続け完璧主義に陥らないようにすることの重要性」って感じでしょうか、、、。

うーん、中々いろんな解釈のできそうな言葉です。

・縦欲(しょうよく)の病は医(いや)すべし、而(しか)して執理(しゅうり)の病は医し難し(菜根譚)

この言葉は

「私欲に凝り固まった病はなおせるけど、理屈で凝り固まった病は治しにくい」

という意味です。

出世欲やとにかくモテたいみたいな欲求のままに人を蹴落として出世したり、ゲーム感覚で異性を落としまくっていっても次第に何とも虚しい気分になって次第に落ち着いていくことって割とあると思います。

そこに何らかの理屈でその行動が正当化された場合は、そうそう収まらないということなのでしょうかねえ、、、。

例えばですが、単に性欲や承認欲求が動機となって「モテるために邁進する」のは次第に落ち着くとしても、

「今まで非モテの俺にひどい対応をしてきた女どもに復讐してやるんだ!」

みたいに手前勝手な屁理屈に基づいて、女性を落とすことに邁進していたら、まあなかなか落ち着かないってことなのかもしれません。

では、この例の場合において、この言葉が心理学的に正しいのか考えてみましょう。

私見ですが正直言って、この場合に格言通りになるかは「本人のメタ認知能力次第」って気がします。

※メタ認知とは自分を客観的に見る能力の事。

本人がもし「思い込みやすい性格」であるなら、執着が長いこと続く可能性があるでしょうね。

また、一般的に「女性をゲーム感覚で落とすこと」には罪悪感を持つ人が多いはず。

しかし、「自分が不当な扱いを受けたのだから仕返しをして当然」等と自己正当化することで、自責の念が減り行動することにちゅうちょがなくなるかもしれません。

それらを合わせて考えると、

「思い込みが強い性格であって、自分を正当化する理由がある場合は、執着が長続きしそうである」

と結論できるかと思います。

なので、この格言に関しては「場合による」というのがわたしの見解でしょうかねえ、、、。

おわりに

この記事は「中国のかっこいい?ことわざを心理学的視点から分析してみた「格言は結構正しい」」と題しておおくりしました。

昔の格言で言われている内容は、やはり結構現代にも通用する感じがしますね。

まあ、人間は長いこと動物としては進化してないので、当たり前っちゃあ当たり前かもですけどねえ。

実はわたし、今回かなり不真面目に厳つい格言たちを紹介してしまったので、なんか罰が当たりそうな気がして少しひやひやしてます。

もし、もっとしっかりと格言について知りたい人は今回の記事の参考文献である守屋洋さん著「中国古典 一日一話」を読んでみてくださいな。

こういった格言は年長の人と話すときは格好のネタとなるので、覚えておいて損はないっす!

では!

参考

参考記事等

沈黙は金雄弁は銀はイギリスの話。日本の場合むしろ「雄弁は金」だよね。

スポンサーリンク

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事