対案なき批判は全然オッケー!反対するなら対案だせはただの言論弾圧。
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「よくいうよね、反対するなら対案だせってさ。今日も会社で、部長のむちゃくちゃな企画に対して至極当然って感じの正論を会議の場でいっていたのに、反対するのなら対案を出せと怒鳴られていたな、、、、。なんだかなあ、、、おかしいものはおかしいのになあ、、、。」

そうだねえ、わかるわかる、、、、。

対案が無かろうがあろうがおかしいものはおかしいよね?

オニギリス!

脱マンネリストのオニギリです!

今回の話題は「対案なき批判は全然オッケー」という話です。

そう、おかしいものはおかしいのです!

それを誰も指摘しないとなったら、組織や社会は変な方向へと向かってまっしぐらに落ちていきます。

やはり、対案のあるなしにかかわらず「批判は恐れずにするべき」でしょう。

対案を口実に口をふさごうというのは、まごう事なき言論弾圧です。

では、ゆるりとおおくりします。

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1、対案なんて批判するのにいらない

批判するのは自由です。

批判するのに対案を提出する義務なんて全くありません!

ちなみに、批判の意味を一回確認しておきましょう。

批判とは、、、、

[名](スル)
 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」
 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」
 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
批評用法

引用

https://kotobank.jp/word/%E6%89%B9%E5%88%A4-612181

そして、批判と混同しやすい「非難」に関しては以下の通り。

[名](スル)人の欠点や過失などを取り上げて責めること。「不実な態度を―する」

引用

https://kotobank.jp/word/%E9%9D%9E%E9%9B%A3-611914

批判は意見自体に対して、対して非難はどちらかというと行為者の人格に対して行われるものという違いがあると言えそうですね。

この差についてはよく覚えておいた方がいいでしょう。

で、あなたは会社の会議等で嫌というほど聞いて来たかも知れません。

「批判するなら対案を出せ」

とね。

でも、そもそもあなたが批判をするかしないかは自由なのです。

原則として権利を主張するなら義務を果たす必要がありますが、批判に関しては公共の福祉に反しない限りは(例えば、相手の人権を侵害するためとか)とかでない限り、自由にしてよいものだと思います。

原則、批判の裏に「果たすべき義務」なんて特にあると考えなくていいでしょう。

そう、批判するもしないも「あなたの腹一つ」って話です。

あなたが「周りの人間の眼なんて気にしない、自分の意見はちゃんと表明しないと気が済まない」というのであれば、批判を行うのは全然構わないんですよ。

それは「あなたの自由」ですよ。

とはいえ、周囲の目が気になるからつい同調してしまうという人はいるでしょう。

参考までにメンタル強化の方法と空気を読むことについての記事を置いときます。

2、対案なき批判をする人は嫌われがち

とは言え、社会では「対案なき批判をする人」は煙たがられます。

まあ、そりゃそうですよね。

「せっかくの案を否定するなら、代わりにもっといい案を提示しろよな?お前が否定したら物事がちっとも前に進まないだろ?おい、どうしてくれんだよ」

とか

「はあ、、、冗談じゃないよ。これ以外に手があんのかよ!そんなに反対するんならもっといい手をおしえてくれよ!でないと、またやり直しかよ、、、てかさ、もうこれ以上どんな方法を考えりゃいいってんだよ!ああ!?」

なーんて思われるかもしれませんね。

特に急いで何かのプロジェクトを進めたいときとかに、対案もなく批判されると

「貴様!邪魔ばかりしやがって!」

と腹が立ってくるもの。

これが上司の立場なら

「もうコイツ、会社から全力でいじめて追放する!ただじゃおかねえ!」

なんて思う人がいるかもしれません。

ですから、「対案なき批判」をする人を力ずくで抹殺しようとする人の気持ちもわかるのです、、、。

でもね、誰かが批判してくるという事は少なくともその誰かに明確な悪意が無い限り、その案に「何らかのよくない点がある可能性がある」のではないでしょうか?

批判されて気分が悪いなんて誰でも同じです。

わたしだって対案もなく批判されたら、感情に任せるなら手段問わず徹底的に滅ぼすとかやりたくなるかもしれません。

なんたって、邪魔ですもん。

でも、それじゃあ、進歩しないんですよね。

人は誰だって間違う可能性があるから、他者からの批判を大事にしないといけなんですよ。

自分の不完全性を認める姿勢が大事ですよね、って話。

そんな、謙遜と自分の不完全性を認めることの重要性について詳しくは以下からどうぞ。

3、そもそもがおかしいのに対案もくそもあるか!

はい、もし先に相手が提出してきた案が

「もう絶対に失敗するのが目に見えている」

とか

「明らかに違法だったり公共の福祉に反するもの」

だったりした場合には、そもそもその案はもとから「妥当なはずがない」ので、批判されて当り前と言えます

そう、「対案もくそもあるか!」と言う話なんです。

例えば、原価400円で仕入れた商品を単価360円で、「なんの戦略もなく」売るとの決定を社長がしたとしたら、どうでしょう?

普通に考えて商品一個当たり40円の損失なので、絶対止めますよね?

これがもし「最初に安く提供してその商品の品質の良さを社会に広く知らしめる」とか何らかのしっかりした戦略に基づいていれば、まだ一考の価値はあるかもですが、なんとなく「仕入れ過ぎて邪魔な気がする」程度の理由でこんな価格で売るとしたらばかげてます(まあ、倉庫での管理費とかが絡むとまた違うかもね)。

あとは、

あなたの会社の社長が

「ライバル会社の業績が良くなったのは、やり手の新社長が就任したからだ、、、。よし、ライバル会社の社長を暗殺してしまうぞ!邪魔なやつは生かしておいたら面倒だからな、、、」

なんて本気でいっていたら、さすがに

「おいおい、なんてこといってんだよ。マジかよ!?」

て気分になりますよね。

これは明らかに違法行為であるため、「そもそも論外」ですよね。

批判があって当たり前なので、「対案がどうこう」とかそんな事言っている場合ではありません。

論外な案に関しては「対案があるのか」以前に、「批判を受けて当たり前」なんですよ。

こんな場合に、「対案ないくせに批判するな」なんていうのは単なる暴論でしかありませんよね。

4、批判自体に価値がある

対案なんてなくても、実は批判をすること自体に「価値がある」のです。

組織や有力な個人が暴走するの抑止し、民主主義が健全に機能するのに寄与するというのが、批判自体の価値と言えます。

民主主義、資本主義の社会では多数の支持者を抱え、なおかつ財力のあるものの意見が通りやすいです。

そんな強者が無理難題をいっても案外通ったりすることもあります。

それは批判が無ければなおのことです。

例えば、2019年10月下旬ごろにメンタリストのダイゴさんが、台風19号での自治体側の避難所でのペット受け入れ拒否という対応について以下のような一連のツイートをしました。

この文面は一見なるほどとおもいそうになるものの、冷静に読めば「人命とペットの命を等価と扱う」という前提での発言ともとれそうな気がします。

確かに、ペットは自分の家族同然なのでそりゃ飼い主本人からしたら、赤の他人の命よりペットの命の方が重要になるのは納得です。

それに対して、実業家でありユーチューバーであるえらいてんちょうさんがダイゴさんのツイートの

「何度もいうが、人間の命の方が思いなんて綺麗事だ」

の部分をとらえて手厳しく「人間の命と動物の命は違う」と批判しました。

そして、その後も数回に渡ってダイゴさんに対して批判的な動画をアップしていましたね。

このように、ダイゴさんに対する批判の姿勢を緩めない理由として、えらいてんちょうさんは以下のような主旨のことをいっていました。

「おかしなものはちゃんと否定しないといけない。影響力のある人の言っているおかしなことが、社会に受け入れられてはまずい」。

そうです、批判する人が誰もいないと社会にはおかしな考え方がまん延してしまうのです。

批判の声は存在するだけで「意味がある」といえるでしょう

おわりに

この記事では「対案なき批判は全然オッケー」ことについて述べました。

はい、「批判するだけであいつは無能だし、生産性が無い」がなんていう人は沢山いますが、それは違います。

「批判をする人」の「存在それ自体に価値がある」のです。

批判が無いと、強者の主張する間違った考え方がまん延する土壌が出来上がります。

明らかに間違っていることには「毅然とした態度で批判をすべき」といえますね。

最後にもう一度繰り返すと、対案なき批判は決して無意味ではなく「それ自体に大きな意味がある」のです。

では!

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