今回は以下の様な方に向けておおくりします。
- ・職業に貴賎なしという言葉がうさん臭いと思っている人
- ・自分が底辺職についていると思って嫌気がさしている人
- ・話しのネタが欲しい人等
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです!
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「「職業に貴賎なし」職業の上下は気にする必要ない。自分と職業は切り離せ」という話です。
世の中にはある特定の職業を底辺職等と呼び蔑視する人がいます。
事実、最近ある就活情報サイトが「底辺の仕事ランキング」なるものを公表して物議をかもしていましたね。
ああいいったランキングに自分の従事する職業が掲載されたりしていると、まあいい気分はしないでしょう。
なんだか、「自分自身の存在価値が否定されている気分になる人」もいるかと思います。
その気持ちはわからんではないですね。
ただここで重要な事があります。
それは結論から言うと、「あなたは職業人である以前に一人の人間である」ということです。
これを忘れちゃいけないのです。
あなたが何の仕事についているかとかはそもそも「あなたの存在価値とは関係がない」のですよ。
もっとも、職業を通して社会とつながっているので「ただ存在しているだけでいい」と自分に寛大になるのはむつかしいでしょう。
しかし、それでも「あなた自身の存在価値」は職業なんかとは関係ないです。
なので、職を馬鹿にされてもあなた自身は何も気にすることはありません。
職業なんてどうだっていいんです。
貴賤がないどころかそもそも「単なる役割分担」にすぎません。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
職業に貴賤はないのは嘘?
「職業に貴賤はない」。
よく聞きますね、この言葉。
さて、職業に貴賤はないのでしょうか?
はい、本来は職業には貴賤どころか「何の上下もありません」。
実際、職業なんてただの役割分担にすぎません。
しかし現実的な視点からすれば、「職業の貴賤は作られる」という話。
国の都合からしても、「職業に貴賤がないと困る」のです。
特に、安定性や秩序を重んじる国家にとっては、職業に貴賤がないと統制がとりにくいという実情があります。
まあ、簡単に言うと「権威性」がないと国のような組織はまとまらないということですね。
例えばではありますが、いわゆる水商売と高級官僚が同じ評価であっては国家統制に問題が起こるのです。
そう、「職業の貴賤は作られる」側面もあるんですよね。
なので、現実的な視点から言えば、「職業自体には貴賤はあります」。
ただ、ここで重要な論点が一つあるんですね。
ここ日本では法の下に人は平等ですから、職業自体に貴賤はあったとしても「その職業についている人同士の間には貴賤はない」という事。
要するに、「その人の人格と職業は別」という事ができるんじゃないかって話ですね。
なので、何の職業についていてその人が「下等な人間」というそしりを受けるいわれはありません。
ただ、ついている職業自体に対する評価はいろいろあるだろうってことは言えますかね。
ちなみに、「職業に貴賤はない」という言葉の起源は、江戸時代の思想家・倫理学者の石田梅岩さんという方に求められるようです。
江戸時代と言えば、士農工商の職業に基づく身分制度ができていたわけですが、その中にあって彼は人の価値は職業で決まらないと主張したわけです。
なお、彼は商人の立場を擁護していたそうな。
いわゆる底辺職ってどんな職業なのか?
一般に、底辺職と言われるものは以下の様な要素を備えている傾向があるようです。
- 給与水準が最低賃金に近いレベルである
- 肉体労働
- スキルが身につかない
まあ昔でいう所の汚い、きつい、危険の3kと言ったところでしょうか。
そしてつい最近、「底辺の職業ランキング」という記事を公表したことで物議をかもした某新卒向け情報サイトでは、具体的に以下の様な職業を底辺職だと言っていたらしいですね。
- 土木・建設作業員
- 警備スタッフ
- 工場作業員
- 倉庫作業員
- コンビニ店員
- 清掃スタッフ
- トラック運転手
- ゴミ収集スタッフ
- 飲食店スタッフ
- 介護士
- 保育士
- コールセンタースタッフ
正直、どれもこれも我々の社会を運営する上でなくてはならない重要な仕事であることが分かります。
いわゆるエッセンシャルワーカーというものです。
なので、これらの職業が下等だと底辺だなんて言うのはお門違いなわけですね。
しかし、平均年収をはじめとした待遇自体は総じてよくない傾向にあるとか社会全体の職業に対するイメージ等というものも相まってつきたくはない人は多いと思われます。
本当は、こうした職業にこそ十分な待遇を用意するべきだと思うのですが、現在の社会構造はそうはなっていません。
お金のあつまる場所ではないといった感じでしょうかね。
ただ建設系は結構羽振りのいい人も見かけるので、仕事自体はきつくとも収入という面では決して悪くないのかもしれないと思います。
なので、結局つきたくないのならば自分で何とかスキルをつけるなどして何とかこうした職種を避けるのが割に合った選択肢となっている気もします。
あえて特別な意味を見出したりするのでなければ、自分から進んで待遇の悪い職種につきたい人など誰もいないでしょうからね。
いいかわるかはともかく、実際にその傾向はあるでしょう。
職業なんて本当はどうでもいい
まあ、どうでもいいは言い過ぎかもしれませんが、「職業なんて個人の幸福に関してはどうでもいい」と考えるのもアリではないかと思っています。
もちろん、快適な生活をするために十分な給料がどうとかという問題はあるかもですが、わたしはそもそも職業を通して自己実現を図ろうとする姿勢自体に問題があると思っています。
さらにいうなら、マズローの欲求段階説でいうところの自己実現を目指す上でも問題があるのではないかと思うのです。
自己実現をひたすら目指すには多量の精神的エネルギーが必要です。
そして、そのエネルギーとして世の中でよく活用されているのが「闘志とか飢えや渇き」というもののように思えます。
しかし、心理学的に考えたとき、飢えや渇きがある状態というのは「幸福とは真逆の状態」であるといえるんです。
こんなものを原動力にしなくては自己実現ができないというなら、自己実現では幸福にはなれないということになってしまいます。
なので、個人的には「好奇心や他者からの感謝」のようなポジティブ感情を基調とした自己実現を目指すのが望ましいとの見解でいます。
そして、自己実現以前に社会の評価などとは無関係に「あるがままの自分をうけいれる」ことができてさえいるならことさら自己実現を目指さずとも心は平静で特に困ったことも起こらないということ。
そこで、個人的には心理学でいうところのPNSE、いわゆる悟りのような状態になってしまうのがいいといえます。
こうなってしまえば、自分自身に対する雑念は消えるので社会からの評価なんてものにも気をそらされにくくなるんじゃないかと思います。
結局、自尊心を高めてしまえばこっちのものです。
職業に対する評価なんてどうであってもかまうことはないんです。
あなたは生まれてから死ぬまであなたでしかないんですから、、、。
何の職業?給料はいくら?、、、、だから、どうしたというのでしょう?
そんな評価に何の意味があるんでしょう?、、、、
どうせ、いつかみんな死ぬのに、どうせ手に入れてもいつか失うのに、そんなくだらない評判のために生きるのですか?
もう、うえも乾きもいりませんよ、そんなものいりませんって。
いずれ死ぬことがわかっているなら、なるべく生きている間は苦なんてないほうがいいに決まってます。
もう、社会の評価と自分の価値を切り離してしまいましょう。
「自分はあるがままでいい。社会からの評価なんて知らない」、、、なんてね。
多少独りよがりかもですが、そのくらい図々しい方が結果的に幸せにはなれるんじゃないかなって気がします。
参考記事等
職業それ自体より必要とされることに意味がある
とはいえ、人間は良くも悪くも社会的動物。
誰かに必要とされないとやる気はなくなり、次第に自暴自棄になっていくものです。
ですから、あなたがどんな職に就いていたとしても
「社会や他人にいったい自分の持つスキルでどんな価値を提供できるのか」
という視点を持つといいと思うのです。
視野を広く持つことが大事です。
実は、わたしこの記事でさも聖人君子よろしく「職業に貴賤はない」なんて言っていますが、前は職業には貴賤があって当然だという立場でした。
具体的に言うなら、科学文明を進歩させるべく邁進する「理系の科学者」こそが至高の職業であるとの考えでした。
そして、もっと具体的に言うなら「時代を変える発明をする天才的科学者」にしか存在価値はないって思ってました。
三人寄れば文殊の知恵といいますが、当時の私にとっては「愚物が三人集まって破綻する」のほうがよっぽどしっくりくる感じでした。
当時の私にとって極一部の「理系の天才以外の人間は人権なんて与えられる必要がない存在」でした。
なので、自分がそうでないなら自殺するしかないだろうとかなり真剣に考えていましたよ。
今思えば、この考えこそ「バカそのもの」ですね(笑)。
当時の私にとって、人間の価値とは「知性」でした。
なので、理系の優秀な科学者こそがたくさん給料をもらうべきだとも思っていましたね。
額でいうと年に数億なんて普通にもらう権利があると思ってました。
それなのに、世の中ではスポ―ツ選手やタレントのような職業のほうが高額をもらっている、、、そんな現状を不快に思い
「連中が何か科学文明の発展に寄与したか?生活を便利に効率的にしたか?くだらない存在がもてはやされすぎだ!他人がスポーツをプレーするのを見て何が面白い?スポーツなんて自分がやるものだろうが!プロのスポ―ツ選手だと?そんなもの発達した文明の上澄みじゃないか。そんな何も生み出さないクソみたいなものにこの額だと、、、世の中馬鹿か屑ばっかだな!」
なんて内心かなりキレていました。
そうそう、昔はですね、めっちゃこだわり強かったですから。
もう、あのころには二度と戻りたくないですね、、、いろいろ不幸な時代でした、今思うとね。
ああ、頭痛がしてきたわ。
参考記事等
社会のためにあなたがいるわけではない
よくこんなことを言われますね。
「社会に貢献しなさい」なんてね。
はい、でもですね。
貢献は別に「自分を犠牲にしてまでするもんじゃない」です。
それに「貢献する気のないこと」であっても、見方によっては「社会に十分すぎるほど貢献している」なんてこといくらでもあるんです。
まず、あなたが「満たされる」ことを重視すべきです。
満たされたうえで「余りを社会に返したらそれで充分」でしょう。
あなたが生きているから「この世界を認識できている」んですから、あなたが死んだら世界はあなたにとっては存在しないのと同じことになります。
なので、ある意味で自分中心であるのは理にかなっています。
とはいえ、社会に自分が存在し続けるためには社会とのかかわりもおろそかにはできません。
そこで提案したいのが「究極の利己主義」です。
いわゆる「自己中」は中途半端な利己主義です。
自分にとっての「利益」のとらえ方が狭いのです。
詳しくはこちら。
職業に愛着なんていらない
上述の通り「職業の価値とあなたの価値は別」です。
なので、職業にべつにプライドなんていりませんし、愛着もいりません。
あなたはその時ついていた職業とその時有していたスキルによって「誰かの役に立った」、それで十分なんです。
なお、自分のこれまで行ってきたことや身に着けているスキルに対する誇りを持つ事で仕事に対するモチベーションが上がるといいます。
ついている職種などで他者にマウントをとったりマウントをとられて嫌な気分になったり、、、そんなしょうもない事に参加することはもうやめて「自分が誰の役に立ったか、どういったスキルを身に着けてきたか」という視点を大事にしたいですね。
とにかく、「世界を認識する起点である自分」をまず大事にするのが当たり前ともいえるのでいい方は悪いんですが、社会は二の次でいいでしょう。
あまり世間の声に影響されないようにしたいものです。
おわりに
この記事は「「職業に貴賎なし」職業の上下は気にする必要ない。自分と職業は切り離せ」と題しておおくりしました。
職業に対する評価は職業に対するものでしかありません。
あなたの価値を決めるのはいつでもあなたです。
誰にも価値を決めることなんてできません。
なので、もし自分の職業をバカにされることがあっても
「まあ、こいつにとってはわたしの職業の評価はこういうものなのね、ふーん」
とか思っておけばいいです。
他人の考えに腹を立てるのも時間の無駄なのでね。
とはいえ、むかつくときはむかつくと思うので、以下の記事も参考にどうぞ。
まあ、気楽にいきましょう。
では!
参考
参考記事等