自己責任論の心理の根底にあるのは公平世界仮説。弱者ほど弱者をたたく現実。

「社会人になってからというもの、ひっきりなしに自己責任自己責任手呪文のように言われるわ。まあ、そりゃあね、努力が足らんおれば悪いんだろうよ。でも、いろいろな事情があんだろ。それを一くくりにして自己責任って、、、、あったま悪いんじゃね???」

んー、まあまあ気持ちはわからんではない。

何でもかんでも自己責任って言い放つのはどうかね。

オニギリス!

脱マンネリストのオニギリです!

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「自己責任論の根底にあるのは世界公平仮説である」という話題です。

はい、社会人の皆様お疲れ様ですぞ。

いやあ、本当アホみたいに「自己責任だ」と連呼する上司ってクソみたいにムカつくよねえ、、、。

ちっとは状況の確認くらいしろってね。

何でも自己責任で済ましていたら、お前のいる意味あんのかよって思うわね。

で、この自己責任論はかなり日本社会に強固に根付いているようです。

そして、「社会的弱者が弱者をたたく」なんてことも起こっているのですね、、、、。

そう、自己責任論は強者だけのものではなく「弱者が自分より下の存在をたたくためにも利用されている」ということなんです。

はい、なんだか不毛な香りがしてまいりますね。

では、ゆるりとおおくりします。

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自己責任論の根底にあるのは公平世界仮説

世の中に広く蔓延している自己責任論ですが、その信奉者達の多くは「公平世界信念」の信者といえます。

公平世界信念とは

「世界全体は公平な場所であって(公平世界仮説)、人間はおおよそその行いに見合ったものを得られる」

と考える認知バイアス、つまり思い込みの一種です。

この世界が公平なら「しっかりと努力をしていたものは報われる」ということになりますから、何かで痛い目にあっている人がいても「ふ、、、怠けてばかりだから失敗したんだな。自業自得だ。愚か者め」という意識になりがちになります。

それがいわゆる貧困問題においては「貧しいのは本人の責任だ!」、いじめ問題なら「いじめはいじめられる本人も悪い!」なんて話に発展していきます。

まあ、人間って世界が公平だと思ったほうが気が楽ですからね。

そう思いたいのはわかるのです。

しかし、「自分の力だけではどうしようもないことも存在している」という理不尽な事実から目を背けるのはなんか違いますよね。

確かに「世界は公平である」と考えたら「因果応報の原則が世界に適用されるから自分自身の力ではどうしようもないという無力感からは目を背けられる」といえます。

でも、そのような考えが自分が失敗したときには強い自己否定の感情を生み出したりすることもありますねえ。

ええ、公平な世界は公平だからこそある意味で残酷なんです。

失敗したときには救いがないってことですわ。

日本では弱者が弱者をたたく風潮がある?

実はある調査で「日本は世界一社会的弱者に対して容赦がない国である可能性がある」ということが示唆されています。

その調査というのが2007年に世界各国で行われた貧困に関する意識調査であるThe Pew Global Attitudes Projectです。

参考

「自力で生きていけないようなとても貧しい人たちの面倒をみるのは、国や政府の責任である。この考えについてどう思うか?」という問いに対して「そうは思わない」と回答した人の割合は以下の通りだったといいます。

  • アメリカ 28%
  • イギリス 8%
  • フランス 8%
  • ドイツ 7%
  • 中国 9%
  • インド 8%
  • 日本 38%

何と日本が圧倒的に弱者に厳しいという結果になっているんですな。

さて、この結果をもって「日本人は弱者に冷たいんだ」とか「これだから自己責任論が流行ってもおかしくないわけだ」といろいろいいたくなるのもあるでしょうが、そもそも押さえておいてほしいこととして「人は基本的にみすぼらしい人を嫌悪する」ということです。

これは実験でも確かめられていることでして、みすぼらしい格好をしている人を人は基本的に「自分と同じ人間ではないと『非人間化』する傾向がある」のです

いくら口では「わたしは貧困にあえぐ人たちを差別しない!」といっても脳の反応は正直だったのですよ。

綺麗事なんていりません、それが実際に確認されたことです。

生物としてそんな機能があるのですよ。

ですから、理不尽であろうがなんであろうかそもそも基本的に人には「貧乏人を嫌悪する気持ちがありそれが普通である」ということはまず認めるべきといえます。

詳しくは「お金に支配されない13の真実」のチャプター9「貧困がもたらすもの」を参照してくださいな。

正直に申し上げれば、わたしも汚らしい格好をしている人を見て「嫌悪」を感じることもあります。

ただ、感じるものは仕方ないです。

しかし、感じた嫌悪を「実際に石を投げつける」とか「罵声を浴びせる」とかといった行動に表さなければいいだけですし、その感情が人間として当然のものだと思えば自己否定もしません。

感情は感じるがままにさせておくしかないですからね。

それに感じることと行動することは全く別物です。

そして、貧乏人を嫌う心理が普遍的なものであることを前提としても、上記の結果によるとあまりに日本人が突出して弱者に厳しい態度をとっている気がします。

これに関して、わたしは日本人が弱者に厳しい姿勢を取るのは「日本人が遺伝的に不安を感じやすい民族であるからではないか」と考えています。

上述した通り、公平世界信念の信者でいると「自分の行いが報われる」と思えるので、無力感から解放されますね。

日本人は遺伝的な観点から言えば諸外国に比して不安を感じやすいので、なおさら「世界は公平である」という考えにすがりやすいといえると思うんですね。

そうして、強く公平世界信念を持てば持つほどに

「自己責任だ!貧乏なのは、弱いのはお前の努力が足りないからだ!悔しかったら一生懸命がんばれ。この助ける価値のないなまけものが!」

なんて激情を生んでしまうんだと思います。

さらに公平世界信念は事件の被害者にも落ち度があったとしてバッシングを浴びせる被害者叩きの原動力ともなりえますね。

具体的には、

強姦された女性に「お前が露出の多い格好をしていたから自業自得だ!」

いじめ被害者に対して「お前が日ごろからコミュニケーションをしっかりとって仲良くなる努力をしていないから自己責任だ!」

なんて暴論がなされたりすることもあるでしょう。

このような発言をしている人たちは何も強い立場にいる為政者とかではなく、ただの一市民なんです。

言ってみれば弱い立場にいる人ですらこんなことをいったりするんですね。

このような連鎖の果てに「弱者が弱者をたたく」なんてことになってしまったりして、、、。

ただ個人的な印象に過ぎませんが、上記のように殺伐とした調査結果が出ている一方できちんと人に対して礼をつくしたり親切だったり、また明るかったりという人には別に貧富に関わらず大半の日本人は気前のいい反応をしてくれると感じていますね。

まあ、まだまだ捨てたもんじゃないと思うし悲観することもないとおもうんですけどねえ、、、。

どうでしょう?

ま、貧乏であることの弊害は無視できませんが、、、それについて詳しくは以下の書籍をご確認のほどを。

いじめはいじめられる方にも問題はある。が、、、、

はい、よくいいますね。

「いじめはいじめられる方にも問題がある」と。

これは半分正しく半分間違っているといえます。

確かに、いじめられる人間にも「いじめられるだけの原因」はあるんです。

火のないところに煙は立たぬとはよく言ったものですから。

しかし、一方で「いじめる原因となるものがあったからと言って実際にいじめるのは正当化されない」ということがあります。

上述したように、「人間にはみすぼらしい格好をしている人を嫌う本能がある」からといって「みすぼらしい格好をしている貧しい人」に「気に食わねえから燃やしてやる」とか集団リンチをして殺害してしまうなんて行動は正当化されないという話。

そう、少なくとも法治国家には刑法があり、個人の生命は法律により厳重に保護されている利益である法益なのですから。

生命を奪うところまでいかずとも実際に危害を加えることももちろん許されません。

上述した通り、「感じることと行動は別」なんです。

「嫌いだから殺していい」とか「嫌いだから殴っていい」なんて話にはならんということ。

いじめられる原因は当然ありますが、「実際にいじめを働いた側の方がはるかに悪い」のです。

なので、いじめに関して「自己責任論を持ち出すのは著しく不当」なんですね。

それにいじめられる原因が今話題の発達障害に起因するものであったりしたなら、これは本人の責任なんかではないので、一切罪に問えません。

これを無理やり罪に問うとすれば、「お前が生まれてきたことが罪なのだ!」とかその子の両親に向かって「あんたがこんな奴を生んでくれたせいで迷惑してんだがどうしてくれんだよ?あ、責任とれよ!」みたいな暴論としか言いようのない発言をすることにもなるでしょう。

最後にもう一度言いますが、「いじめへの自己責任論の適用は不当です」。

世界は理不尽なのだ。きれいごとはいらない

実際の世界は公平どころか理不尽そのものとしか言えない有様です。

直視したくないような将来への不安や恐怖がそこかしこに渦巻いています。

ですが、それらから目を背けても実際には問題は解決しないしかえって泥沼化するんです。

目を背けるのは単に先延ばししているに過ぎないし、自分自身が何かを追い求めるときに必ずその目を背けてきたものと向き合う必要が出てきます。

なので、「世界は公平である」と信じる気持ちがあってもいいですが、一方で「不安や理不尽もあることは承知する」という心境は持っておきたいかなって思いますね。

そうすると、心理的に柔軟になれるのでメンタルは自然と安定してきます。

よりくわしくは以下の記事からどうぞ。

弱者を皆殺しにしても社会はうまくいかない

いわゆる自己責任論のいきつくところは「弱肉強食」の能力至上主義でしょう。

いわゆる能力至上主義の人達からすると「組織に生産性の低いお荷物はいらない!」なんて意見が多いと思います。

ちなみに、わたしも昔は割とそんな感じの性格でした。

当時のわたしは「役に立たないものは全部追放すれば強い組織ができる」とか「遺伝子や実績等を加味して人員を選抜すれば強いチームができるだろう」なんてことを結構まじめに考えていましたね。

だから、例のやまゆり園の事件での植松被告の優生学的思想にも共鳴はしないまでも「一理ある」と感じていた記憶があります。

ただ、自己弁明をするつもりはないのですが、多かれ少なかれ我々は心の中に「小さな植松被告」を持っているんです。

「役に立たない奴なんてお荷物だしいっそ死んでくれた方が社会のためだよなあ」とか「障碍者なんて国の税金を食いつぶすだけのごくつぶしだから死んだほうがよくね?」みたいな一般には「悪」とされる考えも全体の思考の1%にも満たない程度であればおおよそ誰でも持っているといえるでしょう。

そう、何度も言いますが「感じることに罪はない」のです。

その感情を「どう行動に表すか」が問題なんですね。

もし、優生主義的思想を全思考の1%でも持ったら許されないというのであれば、それは心に柔軟性がなく病みやすいメンタルの弱い人といえそうです。

絶対とか完全なんていうことはありえないですから。

得てしてメンタルを病んでいる人は完全とか絶対という言葉を多用します。

綺麗事はどうでもいいんです。

実際に可能かということですね。

そしてこれは大事なことですが、組織は生産性の低い人を追放していっても決して組織は強くはならないんです。

実は、パレートの法則によると、働きアリのうち実際に働いているのは全体のうちの2割程度であるといいます。

この比率は働いていない8割を除去しても変わりません。

つまり、弱者を抹殺していく思想のいきつく先は社会の衰退であるということです。

適者生存とか弱肉強食は自然の摂理としてよく持ち出されるものですが、一方で共存も摂理の一つですね。

実際の社会は「いわゆる自力で生きていけない存在を生かすことで発展してく側面がある」ということなんです。

事実デヴィッド=スタックスラーさん、サンジェイ=バスさんらの共著にして名著「経済政策で人は死ぬか?: 公衆衛生学から見た不況対策」では、

困っている人を助ける為にお金を使うことを渋ったら、結果的にかえってより大きな代償を支払うことになるゾ』

といった感じの主張がなされています。

そう、これを今の2020年4月時点での新コロナウイルスの感染拡大にともなう行政による自粛要請と結びつけて考えると、政府はもっと経営が大変になる中小事業者や失業者、はてはネットカフェ難民やホームレス等への支援を手厚くしないといけないという話になるでしょう。

2020年4月現在ツイッターを見ているとネットカフェ難民に対しては「税金もろくに払っていないんだから、ほっておけ」とか「自業自得だ」なんて意見も散見されます。

また、経営に困窮している中小事業者や失業者に対して「今まで収入源の多角化を図ってこなかったのが悪い。困っても自己責任だ」なんて意見を投げつける人達もいますね。

でも、共存こそが社会の発展につながるのだとしたら、彼らを「お前たちは今まで努力が足りないからその状況なんだぞ、自己責任だ。死んでもしらん。むしろ、邪魔だから死ね」みたいに言いはなつのは違うってことになりますね。

てか、そんな殺伐とした社会なんかいやだなあ(笑)。

だから、ジョンロールズの正義論の中の主張ではないですが、「社会で最も苦境にある人により手厚い支援をおこなうことが社会の発展には重要である」なんていえそうです。

もうね、「自己責任論なんてくそくらえ!」なんですよ!

うん。

参考記事等

6、公平な世界を信じることは悪いことばかりではない

ここまで結構公平世界仮説について批判的な姿勢をとってきましたが、闇があれば光があるもので公平世界仮説を信じることにもメリットはあります。

そのメリットは以下のようなものです。

・生活満足度と幸福度を高めて抑うつ的感情を低減させる

参考

https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/0146167296227002)

・人生の否定的な出来事を受け入れて不満を減少させることにつながる

参考

https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-1-4757-6418-5_5)

※自分に身近な領域での公正世界仮説にのみ当てはまる点に注意

はい、上記の2つを見ると結構メリットがあると思われます。

なので、公平世界信念が基本的な信条であるとしてもそれにとらわれず、世界は理不尽な側面を存在しているのだという事実への気づきとそれを受け入れる姿勢を大事にして生きていくといいと思うんですね。

「この世界の基本は公平だけど時に理不尽である、それはそれで受け入れる」という姿勢でしょう。

こんな柔軟な姿勢であれば、努力が報われないとかで大騒ぎととしなくても済むメンタルになるかなって気がします。

そうそう、自己否定なんていなんのです。

もっと、自分に優しくそして他人にも優しくいきたいもの。

参考記事等

おわりに

この記事では「自己責任論の根底にあるのは世界公平仮説である」と題しておおくりしました。

はい、自己責任論の根底には「この世界は公平である」という公平世界仮説がありましたね。

でも、実際の世界は全く公平ではなく理不尽としか言いようがない有様です。

なので、不安を感じやすい人は「世界が公平である」という考えに救いを求めて固執します。

その結果、「事件にあったのはお前にも非があるから自己責任」というような極端な自己責任論による被害者叩きが始まると思われますね。

だから、もっと思考を柔軟にし現実を見て「自己責任では済まない現実を受け入れる」のが大事ではないかなって気がします。

人間なんて一匹じゃクソ雑魚よ。

だから、社会があるんだよね。

では!

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参考記事等

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">「結果が全て」の結果至上主義者は得てして幸せにはなれない。

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