天罰が当たる?落ちる?いずれしても、天罰なんて存在しないよ。

「ムッキー!!あのむかつく上司に同僚たちめ!くっそ、やり返してやりたいわ、、、、。でもまあ、自分から悪事を働くのもなあ、、、、。まあ、あんなふざけた連中にいはいつか天罰が落ちるさ。悪が栄えたためしはないっていうよね。まあ、今日はタピって忘れよう、、、、。」

マジで言ってる?

天罰なんてあるんかい?

他力本願というかなんというか、、、問題を解決するのはあなただよ、天じゃないから!

オニギリス!

脱マンネリストのオニギリです!

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「天罰なんて存在しない」という話です。

はい、いまだに「悪いことしていると天罰が、、、」とか言っている人がたまにいます。

マジで言っているとしたら、実に「他力本願だなあ、、、」て感じです。

まあ、気持ちはわからんではないですよ。

自力でどうしようもないから「この理不尽は必ずや何らかの不可思議な力によって公正に裁かれる」と思わないとやってらんないのでしょう、、、。

でもね、存在しもしない神や天なんて概念を頼ったところで、何の解決にもなりませんよ。

実質、そんなもの負け惜しみか泣き寝入りでしかないです。

やはり、大事なのは「すべてを自分のせいである」と考えて物事をよりよくする方向に向かって努力することに尽きるでしょうね。

はい、ニーチェじゃないけど「神は死んだ」ならぬ「天は死んだ」です。

もう、天の裁きなんてまたず、あなたは自分の不満を自分で処理できる強さを持ったらいいです。

では、ゆるりとおおくりします。

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そもそも天罰ってなんぞ?

はい、そもそも天罰ってなんでしょうか?

まあ、天罰とは文字通り「天が下す罰」ということですね。

そして、天はまあ、神とかのように人間を超越した超自然的な存在と思っておけばいいでしょう。

ですから、「天罰が落ちる」なんていうときは大概

「人間を超えた超自然的な力が悪人を裁いてくれる」

みたいな感じで使われてしまうといえるでしょう。

なんだか、「天罰」って考えようによっては自力で仕返しできない人の負け惜しみって感じの表現です。

そして、とても他力本願。

そんな風に考えると、個人的にはかなり「かっこ悪いしダサい表現だな」って印象ですね。

神を自然の摂理とかに置き換えて、「自然の摂理からすると間違っており、ゆえに結果として破滅する」といわれたほうが幾分ましではあります。

とはいえ、これもまたちゃんと実験して検証されたのか?とか考えだしたら、うさん臭さ満点ではありますねえ、、、。

ま、天罰の存在を期待してしまう他力本願的な心理状態になっていること自体問題ですよね、本来。

ただ、誰かからの嫌がらせみたいなものを引きずらないために「どうせ天罰が当たるから気にしない」と割り切るための理由として使えるということは確かです。

そういう意味では「天罰が当たる」という表現自体が無駄であるとは言えないですね。

ま、個人的には負け惜しみみたいだし、漠然としすぎて嫌いですけど。

真に人を裁くのは罪悪感

現代の文明国といわれる国は、みな「法治国家」です。

犯罪者の犯した罪は「国が被害者に代位して裁きをくだす」んですね。

まあ、形式上はそれで丸く収まっているんです。

なぜ、ここで「形式上は」なんて言ったかというと、そもそも犯罪を犯した者のの中には「自分が悪いことをしたとは全く思っていない」人も存在しているから。

刑法は形式上の裁きは下せても、「人の内面には裁きを下せない」のです。

人の内面に裁きを下せるのは加害者の中にある「良心」だけです。

人は内面から裁かれて初めて、「自分の罪を償う、だからこそ再び罪を犯さないよう努める」といえるのではないでしょうか。

個人的にはこの内面における「良心による裁き」を受けて初めて「罪を償った」とみなしてよいと考えています。

しかし、これが良心をもたないサイコパスであった場合、ほぼ間違いなく罪を償わせることは不可能です。

彼彼女らにとって善とか悪とかいう概念自体存在していませんからね。

人を傷つけようと殺害しようと道を歩いているときに小石を蹴ったくらいの感覚しかないでしょう。

「何で小石けったくらいでみんなそんなに敵対すんだよ?」てそんな感覚でしょう。

もし仮に、天罰があったとしてもサイコパスには全くと言って意味がないですね。

改心もしなければ悔いることすらないでしょう。

悪人が必ず報いを受けるというのはただの幻想

多くの人は「悪は必ず裁きを受ける」と思いたがりますし、思っていますね。

このような考えは「世界公平仮説」というものを前提にしています。

世界公平仮説とは、「人の行いに対して公平な結果が返ってくる」という考えであり、バイアスの一種、つまり偏見や思い込みです。

参考

しかし、そんなに世界は公平なんかじゃありません。

よく多くの人が「理不尽だ」等と口にしますが、それも上記の世界公平仮説を前提にしているからこそ出る発想でしょう。

そう、天も神も、そんな公平な裁きをするものはどこにも存在しません。

救いがあるとしたら外にはなく、自分の中にしかないって話。

例えば、嫌がらせをされてただなされるがままになるか、報復するか、それともかかわらないために距離をとるか、全部自分が判断すること。

さらにいえば、自分だけでどうにかならない場合に、力になってくれそうな友人知人や外部機関を頼るのも自分の判断です。

そして、日ごろから頼りにりそうな人との人間関係を密にすることもそう。

やはり、人生で助けになるのは神なんぞのような得体のしれないもうそうではなく、現実世界の人間関係でしょう。

戦略的そして互恵的な人間関係といってもいいかもしれません。

嫌なことに関しては程度はあれど原則「ま、そんなこともあるよねえ」くらいですぐに忘れてしまうというのが一番精神的には楽でしょうね。

とはいえ、むつかしいと思うので逆境に強い人の特徴とメンタル強化の記事を置いときます。

おわりに

この記事では「天罰なんて存在しない」と述べました。

天の裁きなんて期待するのはやめて、自分で何とかしましょう。

天の裁きという発想の根底には世界公平仮説がありますが、この世界公平仮説は思い込みの一種です。

世界は公平でなくて当たり前ですから、自分に何か嫌なことが起こっても、それはやはり単なる偶然か自分が避ける努力をしてこなかったからでしかないという話でしょう、まあ正直あんまりいい気分しませんけどね。

だから、もし天罰を持ち出すのであれば前向きに嫌な出来事と決別するための理由付けとしてその時だけ使って、あとは嫌なことと一緒に一切わすれてもう思い出さないようにしたらいいですね。

では!

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