「悪気がない」からこそたちが悪い「悪気がないから謝らない失礼な人達」

「なんか、うちの職場に悪気はないんだけども、凄く失礼な発言をする人がいる。注意してもある義はなかったんだの一点張りで全く誤らないし反省もしてない。悪気がないから許されるのは小学生までだよね。」

んー、まあ、場合によるけども、悪気がないから許されるってことはないわな。

脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「「悪気がない」からこそたちが悪い「悪気がないから謝らない失礼な人達」」という話です。

今回は以下のような方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ
  • 悪気がないから許されるなんてことはないと思う人たち
  • 悪気がないけど、失礼な人にはどんな人がいるのか気になる人
  • 悪気なく失礼なことをする人へどう対応したらいいかわからない人

世の中には、「悪気は何だけどもなんだか失礼な人」というのが一定数いるものです。

まあ、謝って反省してもう同じようなことをしないならいいんですけどね、、、中には何度でも同じことを「悪気がない」と言ってしでかす人がいます。

正直、アスペルガーとかであったなら、仕方ないなと思いますけども、そうではないのにこんなことしているとしたらなんかかなりヤバい気がしますねえ。

はい、今回は悪気がないけど失礼なことをする人とその対応策について少し考えてみたいと思う次第。

では、ゆるりとおおくりします。

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悪気がないとは結局どういうことだ?

まず、「悪気がない」とはどういうことを言うのでしょうか?

「悪気がない」とは端的に言うなら、「悪いことをしようとしているわけではない」、つまり「悪意はない」ってことですな。

ふむ、、、まあ、「悪いことをしようって気はなかった」というなら、「事故とか不可抗力によってそうなってしまった」ってことなんでしょうかねえ、、、。

まあ、そうなってくると確かに迷惑を受けた側としても少しだけ「じゃあ、仕方ないのかねえ、、、」みたいに思うところはありますわな。

もちろん、迷惑の程度によるだろうけども。

悪気がないなら仕方ない場合も結構ある

実際、わたし達が生活するな中で「まあ、悪気がなかったなら仕方ないよな」と感じるような事はかなりあります。

もちろん程度にはよると思うものの、例えばその具体例としては、以下のような事が挙げられるかと思いますなあ。

  • 自分の考えを正しいと思って相手に押し付けてくる
  • 人前で相手の気にしていることを指摘したり聞いてくる
  • 相手への配慮がない、または足りない

まあ、こんなもんすかね。

程度の差こそあれ、まあ人なんて生きてれば時に悪気なく相手を傷つけることを言ったり、配慮に欠けた行動をとったりしますよね。

なので、「いつ何時も何があっても配慮が足らない事や人を傷つける事はしてはいけない」なんて気負う必要は全くないです。

例え、誰かを傷つけても「まあ、こんなこともあるよな、人間だしな」みたいな感じで自分を過度に責めないのも大事でしょう。

ま、もっとも、その傷つけてしまった後に、反省して

「もう、同じことはしないようにしよう」と心するのが大事なのは言うまでもありませんけどね。

それは大前提って感じですなあ。

悪気がないからこそたちが悪い!悪気がない人にどう対応するか?

まあ、何かちょっとした迷惑行為をされてもその迷惑に関して相手が「悪気が全くなかった」というのであれば、もちろん程度によるものの基本的に「まあ、しょーがねえなあ」なんて許す人がほとんどかもしれません。

まあ、人の罪や過ちに対して寛容であることは、結果的に自分の為にもなりますから、基本的に悪気がないなら許すでいいとは思います。

罪に寛容になることの重要性について、詳しくは以下。

とはいえ、意図しない迷惑行為の中にも「悪気がないからこそたちが悪い」といえるものもあるんですねえ。

その類型には例えば以下のようなものがあるでしょう。

  • あまりに一般の善悪観念から乖離している
  • 迷惑の度が過ぎている
  • 一向に反省の気配や努力の形跡が見えない

以下順次どう対応したらいいかも合わせて見ていきましょう。

あまりに一般の善悪観念から乖離している

「何が善で何が悪か」は、その答えが一義的に決まるとは到底言えない非常に難解な問いです。

純粋に生物としての人間像から出発すれば、「生き残ることが善、死ぬことが悪」とか「快感情を感じる事が善であり不快感情を感じる事が悪」などといえるかもしれません。

そして、社会的な文脈で善悪を論じようと思ったら、その時代や文化などによってそれこそ数えきれないほどの善悪の概念が生じてくると思われます。

まあただ、わたし達がこの日本の社会で生きていこうとする以上は、「この日本の社会において一般に広く共有されているであろう善悪の基準」に自分をチューニングしていく必要がある程度はありますよね。

もし、「そんなことは知らん!わたしはわたしだ!」等と我を張り続けるなら、孤立したり犯罪者になるのでまあいいことないです。

例えばですが、「俺は人を殺す事がたまらなく好きだから人を殺した。俺にとって人殺しは善だ」なんて主張してもこういった主張は通りませんよな。

あまりに社会で一般に通用している善悪から乖離すると、そこには制裁が待っています。

しかし、その制裁こみで「おうよ!制裁があるのは知ってるぜ!制裁上等だ!」といった意気込みで、堂々と自分の我を通すヤカラにはもはや制裁はその凶行の抑止とはなりえません。

そう、始めから「死刑上等」という気概を持って大量殺人をしようとする人物からしたら、「死刑」という刑罰には何の抑止効果も認めらないんです。

「人を殺してはいけない」理由なんて結局は、「そうこの国の法律に定められているから」に過ぎません。

なので、社会の善悪を遥かに超越した別の次元にある「自分なりの善悪基準」による主張を押し通そうとする人物とは、基本的に共存はできませんね。

そして、こういった人間にはそもそも「悪意がない」ので、「更生することも期待できない」のです。

罪悪感は一般に嫌われる感情ですし、最近ではその弊害について色々言われることもありますけど、物事を悔い改める、つまり軌道修正するためには有用な感情といえます。

「俺は善行をなしている!」と思っているものに、更生の余地はないのです。

例えば、相手のニーズを全く考慮せずに「自分なりの優しさ」を人に押し付ける人なんかはその一例です。

大概、「あなたのためを思って」なんていう人はうさん臭いのですが、この手の人は本気で思っているのに「自分の思う優しさ」が「相手にとっても優しさとして機能するのか?」という視点を持っていません。

これをお節介とか有難迷惑といいますね。

はい、うっとおしいだけです。

こういった人たちは自分がいいことをしていると思っているため、自分の非を認めたり反省することはありません。

悪いことをしている認識があったり罪悪感を感じているのなら、まだ更生の余地は残されているんですけどねえ、、、。

もうこの手の人達とは、距離を置いて関わらないのが最善でしょうね。

そして、こういったわたし達の一般に共有する善悪という価値を、普通に踏み越えてくる存在で最も危険なものに反社会性のサイコパスの存在なんかがあります。

もし、反社会的なサイコパスと遭遇したら、「何が何でも逃げる事」が大事です。

戦うことはお勧めできません。

なるべく、敵意はないという意思表示をしながらフェードアウトをするのが基本戦術。

ただ、急を要するなら、突然消息を絶つのも全然ありだと思います。

・迷惑の度が過ぎている

いくら悪気がないからと言って、その迷惑の度が過ぎているとなったら、まあ看過できませんよね。

しかも、そんな度が過ぎたことを「悪気なくやっている」なんていうのが、またさらに怒りを増幅させるかもしれません。

なんせ、相手に悪意があるのなら「相手が悪い!」と自分の中で納得がいきますが、相手に悪意がなかったら「じゃあ、何か?アイツは悪くないのか?じゃあ、この怒りはどこへ向ければいいんだ??」みたいな気持ちになります。

こんな風な状況では、ある意味「怒りを感じることを禁じられている」ともとらえられるので、怒りが抑圧されることでさらに加熱する可能性もあると思うんですねえ。

まあ、心理的リアクタンスって感じですかね。

抑圧されると反発したくなるっていうことよな。

相手の悪気のなさがその行為を許すための根拠どころか、怒りを加熱させるように働く場合は、まず冷静になるためにアンガーマネジメントや脱フュージョンを実践して怒りを覚ましましょう。

で、その後、その迷惑をしてきた相手が一体どういう人なのかをよく考えます。

例えば、その迷惑が発達障害等からくるのであれば、迷惑行為をした本人に責任を負わせるのは、中々難しいため非難等して当人の反省を促すのはある程度諦める必要があるかもしれません。

もちろん、発達障害等に対する理解は必要ですが、その理由をもってしても我慢がならないなんて時はあるでしょう。

助け合いは大事ですけど、片方が無理な我慢を強いられるのは健全とはいいがたいです。

たとえ、当人にとってどうしようもない理由であっても、自分の負担が大きすぎるのならあまり関係を持たないのが正しい選択だと思います。

その場合、あたりさわりない最低限度の対応だけにとどめて、深いりしないことが大事でしょう。

助け合いは、自分を犠牲にしない程度でやらないとダメっすね。

アンガ―マネジメントや脱フュージョンについて詳しくは以下。

一向に反省の気配や努力の形跡が見えない

発達障害等のような理由によるものは除外するとして、何回も何回も「それは迷惑である」との旨を歌えてもその行動を改める気配も形跡すらも見えない人がいます。

こういった人は、「悪気がない」のではなく「明確な悪意があって迷惑行為を行っている」とみて間違いないでしょう。

そして、このようなタイプの迷惑は往々にして、「冗談や軽いノリ」としての形態をとると思われます。

具体的に言うなら、迷惑なことをしておいてから、「いやあ~、冗談だって!本気にすんなよ!」みたいに言ってくるという事ですね。

およそこういった冗談の場で、それを真に受けて怒るという事は一般にタブー視される傾向があり、「なんて空気が読めないやつ」とか「堅物のイケ好かないヤツ」みたいにとられかねません。

「冗談の形態をまとった迷惑」を行ってくる人は、こういった事情を逆手にとって相手の反論の機会をつぶそうとしているといえるでしょう。

もうこれも、基本的には「可能な限り関係しない」のが一番いいでしょうなあ。

こんな明確な悪意を向けてきている時点で、公正もクソもないので指摘するだけ無駄ってものです。

まあ、場合によっては個人的には怒鳴っていあっくしてもいい気はしますが、、、おすすめはできませんなあ。

ま、結局、三十六計逃げるにしかずってことさね。

逃げることの大切さについて、詳しくは以下。

あまりにも色々気にするのも問題ではある

まあ、「法の不知はこれを許さず」ではないけど、悪気がないから悪くないって論法は基本的に通じません。

まあ、悪いもんは悪いんですよ。

だって、実際に迷惑を感じる人はいるんですもん。

ただ、何を悪いと思うかは大筋で社会通念として通用している悪概念があるとはいっても、細分化していくと個人差が生まれてきます。

例えば、唐揚げにレモンをかけて食べるのが好きな人が勝手に飲み会の席でみんなで食べる唐揚げにレモンをかけだしたら、非レモン派は「なんてことしてくれんねん!」と思うので迷惑です。

ちなみに、わたしは日によってレモン派と非レモン派を行き来するので、あえてここではその帰属について断言いたしませぬ。

まあ、正直、わたしたちはこういった「小さな迷惑をかけてかけられながら生きている」ですよなあ。

なので、あんまりこういった些細な迷惑に目くじらを立てて「おい!謝れよ!」みたいに糾弾する姿勢だと、当たり前ながら人は寄り付かなくなって孤立します。

まあ、人によってその迷惑が些細かどうかはかなり変わってきますけどもね、まあそこの詳しい判断は堪忍ね。

で、「人が寄り付かなくたって構わんわ!」て人はそれでいいのですが、個人的には「あんまり得策じゃないなあ」て感じます。

なにより、色んな人と仲良くなる機会を得られるだろうしさ。

四面楚歌とか相当つらいよ?

あとね、相手の迷惑に寛大であるのは、相手への思いやりがどうとか人間的に素晴らしいからなんて小学生の道徳の授業じゃないんで、そんな手あかのついた綺麗ごと言いませんよ。

こういった寛大さは「人の生存戦略として非常に理にかなっているぜ」て言いたいんです。

以前の記事でもいったんですけど、「人の迷惑に寛大な人が増えると自分の迷惑も許してもらえるようになる」ってことなんですな。

まあ、自分がその風潮つくりの先陣きってもいいと思うのよねえ。

皆でやらないと風潮は出来んから。

それにいちいち小さなことでイライライライラしていると、自分の貴重な時間をそんなことで浪費していることになってもったいないというもありますね。

そういう意味で、寛大さは大事なんでやんす。

おわりに

この記事は「「悪気がない」からこそたちが悪い「悪気がないから謝らない失礼な人達」」と題しておおくりしました。

悪気がない人はある意味悪気がない人たちよりもたちが悪いです。

それは「自分が正しいと思っているため更生の余地がない」からですな。

自分が正しいと思っているなら、何も直さなくていいってなりますからね。

そうねえ、今度からわたし、こういった悪気なく迷惑な主張する人達せを「自分正義マン」とでも呼ぼうかしら?

、、、、とまあ、それはおいといて、基本的に程度によるものの、悪気なく迷惑行動をとり続ける人への最適対応は、「極力関わらない」という非常に当たり前の結論になると思います。

なんか、飛び道具的な方法を期待していた人には大変申し訳ないです。

でも、本当これが最善だと思います。

あの「孫子の兵法」で有名な孫武さんも「三十六計 

逃げるにしかず」っていっているしね、逃げるってある意味最強よ。

では!

参考記事等

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