今回は以下の様な方に向けておおくりします。
・自分の人生に失望している人
・どうもこのまま生きていっても楽しい事がある気がしない人
・話しのネタが欲しい人等
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのオニギリです!
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「「ゴミみたいな人生」自分の考え方が自分や人生をゴミにしている」という話です。
色々とうまくいかないことが重なると、天空の城ラピュタのムスカ大佐ではないですが「自分の人生はまるでゴミのようだ、、、」等と思ってしまう事もありますね。
何を隠そうわたし自身、イキって医学部受験してぶっ潰されたときにそう感じたものです。
正直、その当時は「人はもってうまれた才能が全て」とか「天才的才能のない人間には生きているだけの価値はない」なんて極端な思考をしていましたからね。
正直、受験の挫折で精神的にかなりの痛手を受けました。
しかし今となっては、割と努力で人生どうにかなるという考えになったため、昔ほど人生をゴミだとは思わなくなりましたね。
まあ、完全に脱却できたかというとそうでもないですが大分ましになった気はします。
自分の人生がゴミかそうでないかは結局自分の考え方次第なんですよ。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
人生ゴミっていうけど、そもそも誰にも何にも価値も意味もないぞ?
まず言っておきますが、「ゴミの様な人生を送っている人など誰もいない」です。
これはいわゆる綺麗事ととかではなく本当の事。
わたしが言いたいのは、「そもそも何にも価値や意味なんてものはないのだから、そもそも人生に価値なんてあるわけない」という事です。
結局、普遍的な人生や人の価値や意味等というものは人には知りえないので、「ないもの」とするのが一番理にかなっているという事ですね。
宗教家等はそこに無理やり意味を求めようとしますが、個人的にはそんな意味など「とんだ茶番」くらいにしか思いません。
よって、そもそも人生に価値はないので、人生はゴミとも宝とも何とも言えないわけですね。
自分の人生に意味や価値を与えるのは、「ほかならぬ自分自身」です。
なので、「自分の人生はゴミだ」と思えば人生はゴミになりますし、「自分の人生は非常に意義深い」という事になります。
すべては「自分次第」という事です。
他人を自己卑下を正当化するための道具にするな
たまに「自分は誰の役にも立っていない、むしろ人に迷惑をかけている。なんてクズな人生を送っているんだか」等と嘆く人がいます。
ここ日本には、人に迷惑をかける事に強い罪悪感を覚える人が多いのでこの心理は無理もないでしょう。
しかし、そもそも人に迷惑をかけないで生きることなど無理です。
人が生きている限りは、他者に迷惑をかけながら生きていく事になります。
そして、人と人が関わりあうとかならずお互いに傷つけあうことになりますね。
人を傷つける事に罪悪感を持ちすぎるのはバランスが悪く不健全な思考と言えるでしょう。
ですので、他人に迷惑をかける事等に関して問題なのは、「相手にどの程度の迷惑ならかけても問題ないのか」という視点です。
「迷惑をかける事なんて全く気にすることない」とまでは言いませんが、他人に迷惑をかけている事を理由に自分の価値を決めないでください。
他人の評価なんて自分自身の価値とは関係ありません。
極端かもしれませんが、「自分の価値なんて自分があると思えればそれでいい」です。
他人が「お前は誰の役にも立っていないクズだ」などと言っても、「そんなの知らねえ。お前こそこっちからしたら何の価値なんかねえよ、馬鹿」くらい図々しくて結構かと思います。
まあ、自分が納得出来りゃそれでいいと思うんですよね。
他人からの評価なんてどれもこれも個人の感想でしかないでしょう。
自分の人生の価値についての評価は、あきれるくらいにとことんポジティブでいいのです。
自分の最強の味方は自分ですからね。
どうせ最後は死んで無に帰すんだから今くらい好きにやれよ
これまでの人生でロクな事がなかったなどと感じる人は、「もうこの先もロクな事がないのではないか?」、「もう自分の人生なんて終わらせてしまいたい」等と思ってしまうかもしれません。
まあね、、、その気持ちわからんでもないですよ。
もしこの先も何もいい事がないと仮定したら生きている事で得られるものは苦痛ばかりなので、どこかで損きりしてしまった方が感じる苦痛の総量が減るのである意味でお得な感じがします。
でも、いい事や悪い事というのは個人の価値観や精神状態にかなり左右されるものです。
確かに、現状は苦しいのかもしれません。
それはあるとしても、まずは睡眠をシッカリとるとか各種ストレス対策を講じてみるなどしたうえで冷静に今後どうしていきたいのかをじっくりと考えてみるのはどうでしょうか?
わたしも受験が上手くいかなかった時期はかなり迷走していましたが、その後自分なりに徹底的に内省した結果それなりに自分の生きていく方向性の様なものが発見できました。
そのおかげで、まあ別に今もそんないい状況だとは思いませんが、人生を本気で終わらせようなんて事は思っていません。
とはいえ、まあまだ今後やってくる老いというラスボスがいるんですけどね。
そいつに対してもきっと考えを柔軟にすることでそれなりに対処できるのかも、、、いや、「対処できる」でしょう。
誰でも自分の人生を呪ったりいっそこんな人生終わってしまえと投げやりになる事はあると思うんです。
ただ、そんな思いは永遠に続くものではないのですな。
やはり、重要なのは「いつも思考を柔軟にして一つのものの見方に固執しない事」です。
何だかこじつけじみていますが、「考え方次第でこの世は天国にも地獄にもなる」と思います。
例えば、コップの半分ほどまでそそがれた水を見て「半分しかない」と思うのか「半分しかない」と思うのかではかなりの違いがありますよね。
とにかく、今の自分の置かれている状況自分の抱える問題を打開する手段をあらゆる角度から眺め、必要ならどうにかして力になりそうな人に相談をするようにしましょう。
自分だけで解決できないことは、他人の力を借りたらいいんです。
自分の手に負えないなら人を頼る様にしたいものです。
どうせ、人は最終的にはみな死んでしまうもの。
生きている間くらい自分の好きにやったらいいではありませんか。
何を手にしようと何をなそうとどうせ死んで無に帰したら手放すことになるし、死んだらあとは何も認識できないでしょうし、自分の満足できるように生きればそれだけで十分だと思います。
ある意味、わたし達の人生など「ただの独りよがりの自己満でしかない」のでしょう。
ならば、好きにやりましょう。
誰にも遠慮することないですから。
ただし、他人の権利をいたずらに侵害するような真似はお勧めしません。
おそらく、多くの人にとって「他者の権利の積極的侵害は孤立を生みだす幸福から程遠いおこない」ですし、あとで社会全体からの制裁を受けて不本意な結果となるでしょう。
ただ、他者を積極的に害しようとする人に「人に迷惑をかけるな」といっても無駄な事くらいはわかりますので、「やるのなら覚悟してやるんだね」としか言えません。
これは例えば、死刑になる事を覚悟したうえで自爆テロを行うものを止める事は誰にもできないという様な非常にシンプルな話です。
法は、覚悟を決めた者をとめる事は出来ません。
ただ良好な人間関係の構築が人生の幸福における重要な要素であるとのハーバードの研究があるので、わたしは他者の権利を積極的に侵害する事は全くおすすめしないとだけは言っておきます。
自分から不幸になりたい人以外は他者への積極的侵害はやめた方がいいでしょう。
おわりに
この記事は「「ゴミみたいな人生」自分の考え方が自や人生をゴミにしている」と題しておおくりしました。
人生にそもそもの意味や価値などありません。
自分の人生に価値や意味を与えるのはほかならぬ自分自身です。
なので、自分が「人生はゴミだ」と思えば人生はゴミだし「人生は素晴らしい」と思えば素晴らしい人生ですね。
少々詭弁めいていますが、すべては自分のとらえ方ひとつです。
まずは、メンタルの状態を可能な限り整えて冷静になってから、今後の人生を生きる方向性を模索したいもの。
では!
参考記事等