今回は以下の様な方に向けておおくりします。
・「無敵の人って本当に無敵なの?」と思っている人
・「強さって何だろう?」と思っている人
「最近、たまに耳にする無敵の人ってなんなん??なんか一般には失ものが全くなくなった人のことみたいだけど、よくわからん。無敵の人って文字通り本当に無敵なの?なんか個人的には守るものがある方が強い気もするだけど。」
んー、どうなんだろうね。
オニギリス!
脱マンネリストのオニギリです!
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「無敵の人は本当に強いのか?」という話です。
はい、無敵の人って言う言葉を耳にして人は一定数いるんじゃないでしょうか?
で、「無敵の人」って言葉だけ見ると「一体どんな強そうなやつなんだろう、、、」って思うかもしれません。
でもね、実際にはこの「無敵の人」っていうのは一般には「社会的に失うものがないから、犯罪を犯して罪に問われることすらいとわない人間のこと」なんですね。
これって見ようによってはただの自暴自棄です。
果たしてこれを強いって言っていいものか、、、?
そんな気分になりますね。
個人的には無敵の人って全然無敵じゃないと思っています。
んで、わたしは個人的に、単体としての強さなら一番強いのはサイコパスなんじゃないかって思いますわ。
ここで一瞬だけ宣伝?ですが、「悩みがあんよなー」て人も「ただ誰かに愚痴を言いたいねん!」て人も悩みが重症化する前に頭をクリアにしてみませんか?
おにぎりのカウンセリングについて詳しくは以下。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
無敵の人って何?
無敵の人とはものすごくざっくりいうと、「何も失うもののない人」のことです。
何も失う物がないため、財産や職、社会的な信用を失うこともいといません。
無敵の人は犯罪を犯したり、その犯罪に一般人を巻き込むことに全くちゅうちょがないのです。
そもそも、無敵の人とは2008年ごろに2チャンネル創設者のひろゆきさんの自身のブログでの以下の記述に起源をもつとか。
逮捕されると、職を失ったり、社会的信用が下がったりします。
元々、無職で社会的信用が皆無の人にとっては逮捕というのは、なんのリスクにもならないのですね。
花輪 和一さんの刑務所の中とか読んじゃったりすると、「刑務所もそんなに悪いとこじゃないのかもねー」とか思っちゃったりもするかもしれません。
そんなわけで、刑罰がリスクだと思わない人たちというのが存在しているのが現代の社会。
日本が法治国家であり、人権を尊重する限り、彼らが逮捕を恐れる可能性は少ないわけです。
一昔前までは、社会的信用の無い人の発言力は居酒屋で騒いだり、雑誌に投稿したりするぐらいしかなかったので、社会的影響力が少なかったのですね。
でも、現在はインターネットを使った犯行予告をすることで、警察官を特定の場所に動員したり、飛行機を遅らせたり、警備員を走らせたりするぐらいの発言力が手に入ってしまっているわけです。
彼らは、それなりの社会的影響力を行使できる状態にあるのですね。
でも、欲望のままに野蛮な行動をする彼らを制限する手段を社会は持っていなかったりするわけです。
ちなみに個人的に、こういう人を「無敵の人」と呼んでいたりします。引用
そしてこの記述の後、「無敵の人」という言葉は2013年の「黒子のバスケ脅迫事件」により注目されるようになるんですね。
んー、なんつーかかなり闇が深い感じするよねえ。
無敵の人の心理って?
無敵の人の心理については各方面でいろいろ言われているようですが、圧倒的多数はいわゆる「自暴自棄」のようなものでしょう。
そして、その犯行の原動力には以下の様なものがあるといわれているようです。
- 成功者への妬み
- 被害者意識
- 強い自己愛
- 特権意識
、、、などなど
まあ、なんとなく納得はいく感じしますね。
で、無敵の人といわれる犯人達の素性を少し調べてみると、親から虐待されていたり周囲とのコミュニケーション能力の欠如等による茶会からの孤立といったいろんな問題を抱えているケースが多い気がします。
世の中は得てしてこのような無敵の人を「自己責任」という言葉で一刀両断しがちですが、そういった自己責任の風潮自体が彼ら彼女らの凶行をますます後押ししている感が否めません。
別に無敵の人は何も特別な人間ではないのです。
「誰でもなりうる」んですな。
普通の人が職を失い社会から孤立し誰からも必要とされない気分にさいなまれ、失意のどん底におちることで誰でも「無敵の人」となりえます。
「弱いのは自己責任だ」という社会の風潮が「次の無敵の人」を再生産し、世の中に悲劇を次々に巻き起こすってことになりますね。
わたしは無敵の人の肩を持つ気は一切ないですが、ある意味で無敵の人は社会の犠牲者ともいえるんじゃないですかねえ。
今、無敵の人となっていない人もたまたま運がいいだけかもしれません。
他人事ではないってことです。
そして、そもそも綺麗事かもしれないけど社会全体として自己責任論を弱めていくことが、個々人の生きやすさにつながる気がします。
人は多かれ少なかれ何かに依存、つまり何かを心の支えとして(人や社会とのつながりもそう)生きているものです。
依存はわるいものではなく、問題はその程度といえます。
社会では自立が非常に強く叫ばれるものの、心の支えが必要なことにも留意すべきです。
まあ、自己責任論が行き過ぎると修羅の国になるよねえ。
ま、知らんけど。
参考記事等
人は守るものがあるから強いのかないから強いのか?
よくある議論に「人は守るものがあるから強いのか、守るものがないから強いのか?」なんてものがありますね。
つまり、この議論の論点は「人は何のために捨て身になれるか」ということだと思います。
具体的に言うと、「守るもの(家族や恋人)のために捨て身になる」のか、「自分自身のため(自分の欲や目標)」のために捨て身になれる」のかという違いでしょう。
ちなみに、わたしは「どっちも同等くらいに強い」と感じていますね。
ただ、「人によってどちらの戦い方が向いているかは異なるしどちらにしても計算高さがあってこそ強い」というのがわたしの立場です。
やみくもに捨て身になってもあまり効果はないでしょう。
これを生きる意味に関して言うなら、「人生に意味を求める」のか「人生からの期待に応える」のかという違いになるでしょうか。
人によって「誰かから頼られてやる気になる人」がいる一方で、「自分が欲するものを取りに行こうとやる気を出す人」がいるのです。
おそらく、「何のために捨て身になれるか」は個人によって違うと思うんですよね。
ただ無敵の人に関しては、わたしは単なる弱者だと思っています。
その個人的な理由は、「無敵の人は向かうべき方向を分かっていない」ないし「自殺等の自己破壊を目的としているから」です。
わたしは強さの基準を「自分の生存や自発的に設定した目的を達すること(自己破壊は除く)」であると考えています。
なので無敵の人の場合は完全なる弱者です。
無敵の人は自分の生存もなかなか達せられないだろうし、そもそも凶行に及ぶ際の目的が衝動に駆られているだけの可能性も高く、およそ自己破壊的で自発的な設定とは言えなかったりすると思うからです。。
無敵の人は弱いとおもいます。
結局、単体で最強なのはサイコパスじゃね?
「失うものがない」といえば、ある存在が頭をよぎりますね。
そう、良心も持たない怪物である「サイコパス」です。
サイコパスは無敵の人同様に「失うものがない」気がしますね。
自分の命も大事とはさして思っていないので、他人の命はなおさらですし、罪の意識を持っていないため犯罪もばれなければ容易に犯します。
ただサイコパスは無敵の人のように原則として「自己破壊を目的とした行動はしません」。
サイコパスは「生き残るためならどんなこともする」のです。
個人的に個としてのサイコパスは最強だと思っています。
※ただし、知能がそれなりに高い一次サイコパスに限る。一次サイコパスについてはこちらを参照。
サイコパスこそ個人的には無敵であると感じていますね。
なんせ、連中はダークトライアド、つまり悪の三要素という性格要素をもっていますから。
それが以下。
- サイコパシー(共感性の欠如)
- ナルシシズム(自分が好き)
- マキャベリズム(目的のためなら手段を選ばない)
このような性格要素を持つことを考えると、サイコパスは目的遂行や自己保存という点ではかなり有利かと思われます。
同じ知能を持っている人間同士なら圧倒的にサイコパスの方が生き残る可能性が高いでしょう。
サイコパスは、強さを上述の様に考えた場合は最強なのです。
ただこれを社会全体で考えた場合、サイコパスが大手を振って生きられるような社会になったら、まちがいなく「社会が破滅する、ないし戦乱状態になる」でしょう。
イギリスの哲学者であるトマス=ホッブズさんのいうような「万人の万人に対する闘争」が起こっている状態です。
わたしは過度の自己責任論が蔓延した先にはこのような「万人の万人に対する闘争状態」が待っている気がしてなりませんね。
自己責任論が強く主張されるようになっても、生きやすいのはサイコパスくらいのものです。
多くの人にとってはいい意味での依存先、つまり心の支えを失った殺伐とした世界でしかありません。
自己責任論なんてくそくらえなんです!
参考記事等
おわりに
この記事は「無敵の人は本当に強いのか?」と題しておおくりしました。
強さの定義によるものの、個人的には無敵の人は単なる弱者であると思います。
それは個人的に強さを「自分の生存や自発的に設定した目的を達すること(自己破壊は除く)」と考えているからです。
このような意味ではサイコパスがおそらく最強でしょう。
なので、今の自己責任論が蔓延している世の中はサイコパスにとっては大変適した環境であるといえるかと思います。
つまり、今の風潮がより強まるとサイコパスの独壇場となってしまうということ。
綺麗事かもしれませんが、自己責任論が声高に主張される風潮が変わっていかないと、次から次へと無敵の人が生み出され悲劇の連鎖が続いていくでしょう。
人間なんて弱いもの。
相互に依存しあって生きている存在です。
綺麗事かもしれないけどさ、助け合うって大事よ。
切り捨てゴメン!ではいつか弱くなった時、自分が切り捨てられるからね。
自己責任論が強い社会は、サイコパスしか生存に有利じゃないと思うぞい。
では!
参考記事等