感動しないからといって冷たい人とは限らない。感度のツボは人によりけり。

「わたしいつも周りの人から冷たい人だって言われるんだよね。オリンピックとかどうでもいいとか言ったらドン引きされた。それから、普通の人が感動するとか言っている映画を見ていても、泣いたり表情かわったりしないから冷たい人って思われてもしかたないのかもな、、、、。でもさ、映画に関しては別に感動していない訳じゃないんだよ。外に出してないだけだから!」

うむうむ、そうよね。

外に表していないからって、感動してないとは限らないよね。

オニギリス!

脱マンネリストのオニギリです!

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「感動しないからといって冷たい人とは限らないよ」て話です。

はい、世の中にはいろんな人がいますね。

スポーツ観戦に熱狂し感動する人。

映画やテレビドラマを見て感動する人。

、、、、いろんな人がいると思います。

ちなみに私の場合、これまでめったなことで「感動した記憶がない」です。

しかし、それは「自分は自分、他人は他人」という意識が徹底されているからそうなるってだけのことです。

感情が動くより先に思考の方が先に動くというそれだけの話なのです。

いつも原則として「冷静に共感している」ので、あんまり感情的にはならないって話。

一番最近で感動したことといえば、映画『グレイテストショウマン』で主人公であるバーナムがサーカスの仲間たちと、火事ですべてを失ったところから再起を決意するシーンを見た時ですかね。

あの時の劇中歌『From Now On』はかなり印象に残りましたね。

正直、今まで映画というものに対してあまり興味がなかったのに、初めてといっていいくらいに「心底感動」しましたね。

あのシーンには背筋をただされるような気分というか、

「自分を信じろ、立ち止まるな。お前の人生はこれからだ。今、幕が上がるんだ、、、!」

なんて励まされている感じがしましたねえ。

そして、そもそも人によって「感動のツボ」というものが違います。

スポーツに感動する人いればそうじゃない人もいるし、大食い選手権を見て興奮する人もいればそれを資源の無駄となじる人もいる、、、、そんなもんです。

世の中いろんな興味をもっている人がいるんですな。

なので、

「周りが感動している人ばかりなのに、自分は感動できないなんておかしいんじゃないか?」

なんておもわなくていいんですね。

それは他人についても同じこと。

「自分は感動しているのにあの人は全く感動していない、、、??」

なんて普通にあり得ますからね。

何でも、自分の感性を基準にしちゃあかんって話です。

では、ゆるりとおおくりします。

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1感動ってなんだろう?

さて、そもそも感動感動っていうけど感動って何でしょう?

まずはここをしっかり確認しないことには先に進めませんよね。

感動とは戸梶(1998)によると、「情動的に心動かされる状態」と定義されていますね。

んで、ここでいう「情動的」の「情動」というのがどんな意味かというと、遠藤(2013)によると「ある重要な事象に接した際に私たちが経験する,比較的強い一過性の(短時間で終結する)反応」だといいます。

参考

「情の理」論 : 情動の合理性をめぐる心理学的考究

そして、戸梶(2001)によると感動は「複数の感情との間に密接な関係を持ち,従来の枠組みである単一感情では捉えることが出来ない」のだそうです。

参考

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcss/8/4/8_4_360/_article/-char/ja/

何度もめんどくさい専門用語が連発していますねえ(笑)。

ここで使われている「単一感情」というのは、「楽しい」とか「悲しい」、「嬉しい」等のようなほかの感情と関係性を持たない感情のこと。

さらに、戸梶(1999)の調査で、感動には「喜び・嬉しさ,悲しみ・哀れみ,共感・同情,驚き,尊敬,達成感,素晴らしさの単一感情が含まれている」ということが示唆されていますね。

まあ、ものすごくめんどくさい流れになってしまいましたが、ようは感動っていうのは

「他種多様な単一感情が絡み合いながら心動かされている状態」

て感じでしょうか?

んー、一言でまとめると逆にわかりにくいかな(笑)??

ちなみに、欧米では「いわゆる日本的な感覚での感動」に関する研究はほとんど行われていないそうです。

この理由について戸梶(2001)では「日本語で言うところの感動という名詞表現が英語圏に存在していないからではないか」なんて述べられています。

2、感動にはどんな効果がある?

はい、感動は一般にいいものとして扱われますが、心理学的には一体どんな効果がある感情なのでしょうか?

心理学ではどんな感情にも存在理由があるといわれますから、感動にも何らかの存在理由があるはずです。

柴田(1997)によると感動には過去へのこだわりを断ち切って未来へと目を向けさせる思考転換効果があることが示唆されているようですね。

また、感動して泣くことで気分がさっぱりするというカタルシス効果も確認されている模様。

まあ、感動にポジティブな作用があることには疑いの余地はないのではないでしょうか。

3、感動のツボは人によって違う

感動が生じるメカニズムについては、戸梶(2001)でかなり詳細に類型化して議論しています。

まあ、あえてここでそれを示すことはしませんが、感動を語るうえで感情移入は欠かせないでしょう。

映画の中の主人公やオリンピックに出場しているアスリートと自分は完全に他人なのに、その他人の行動や心境というものに対して共感したりして感極まるって話ですからね。

これは個人的な考察にほかなりませんが、感情移入するにはその対象と何らかの類似性がある必要がると思います。

これがいわゆる「感動のツボ」につながるんじゃないかなって思うんですね。

例えば、甲子園の実況中継を見て感動する人は「過去に野球部だった」とか「昔野球選手になるという夢があった」とかそんな背景があるかもしれません。

ちなみに、わたしに関して言うと小さいころ凄絶な交通事故のせいで過保護に育てられたせいか、スポーツ観戦全般に全く興味がなくボルトが世界新記録を出したなんて話で世間が湧いているときも

「ふーん、てかいくら早くてもフェラーリの方が速いべ?別に人間が速くても知れてるだろ。どうでもよくね?」

位にさめていました。

あと、わたし自身が将棋をろくにしないからか将棋でもそれは同じでしたね。

「藤井聡太が強い?だからなんだ?どうせ、今後進化したaiには勝てないだろ?将棋が強かったら何なのよ?」

て調子、、、、、。

で、大食い選手権とかについてもわたしは正直言って

「おい、これ資源の無駄だろ!こんなしょうもないことするならこの食糧を紛争地帯に持って行った方がよほど有意義だろ、、、、。あほくさくて草も生えん、、、」

とおもってみています。

これに対して「人がすることに意味がある!」とか「必死に頑張る姿が美しい!」なんていう熱血漢?がいると思うのです。

、、、そう、思うのですが、わたしは「いや、別に、、、、まあ、一生懸命に頑張るのが尊いのはわかるけど、、、、そんな熱くなるかいな??」て感じですね。

正直、スポーツにしても将棋にしても大食いにしても自分がやるから意味があるのであって(大食いはそもそも意味があると思っていない、すんません)、人のやっているのを見てもつまらないので寝てしまいます。

見るとすれば自分がそのプレーを真似したり研究して自分がうまくなるための教材とする場合だけです。

んで、不謹慎かもですがあえて言ってしまうと

「人体を機械化したりして改造してしまえばいくらでも移動速度は速く、頭もよくなれるじゃんか。だったら、スポーツなんかに金をかけるより科学技術を向上させる方に金使った方が絶対面白い未来が来るz!」

て思っていますね。

あとですね、正直オリンピックとかも一つのショ―として考えるなら、生身でタイムを競うよりジェットエンジンとかを身に着けたり各国の科学技術をふんだんに使っていろいろやったほうが楽しいなんて思っていたりします。

格闘技もロボット同士の熾烈な戦いのほうがまさに爆風あり、爆音ありのかなり見ごたえのある試合になったりするんじゃないかなって思っていますね、、、。

はい、きっとこれを見て「おい、こいつ頭おかしくね?」て思った人もいるでしょうし、「まあ、そうだよな、わかるわ」ていう人もいるでしょう。

後者は圧倒的少数でしょう、きっと。

でもいいんです、こんな奴だって自分で知っていますしそれで困っていなので(笑)。

、、でも、野球選手としてのイチローは興味はないけど、人間としてのイチローはカッコいいし好きですね、ちなみに。

ま、感動のツボは人それぞれってことで。

4、泣いてなくても感動はするんだぜ

まあ、当たり前ですが「感動=泣く」ではありません。

泣くまでいかなくても感極まっているなんて場合もありますよ。

それに、そもそも泣くことだけが感動の表現ではないですしね。

事実、戸梶(2001)でも感動の種類を類型化してますからね。

「感動」といってもいろんな感動の仕方があるわけです。

なので、こんどから「あー、泣いてないってことは感動してないんだー!」みたいに鬼の首取ったかのような反応はやめにして「まあ、感動の仕方も程度も人によるよね」くらい冷静に判断したいものです。

思い込みが強いとメンタルにもよろしくないしね。

決めつけないようにしましょうぜ?

参考記事等

5、感情はちゃんと表現しよう

いわゆる「冷たい人」なんて、所詮は主観的なものであって「こんな人が冷たい人だ」なんて言いきったりするのは、正直ばかばかしいし不毛だと思っています。

よくちまたでいう「わたしが泣いていたのにあの子は泣いていなかった。あの子はきっと心が冷たい人だ」みたいなのは完全なる暴論ですね。

はい、「短絡思考にもほどがある」って感じ。

上記のように、感動のツボなんて人によって違うし、同じ事柄に対してどれくらい感情が動かされるかなんて人によって様々です。

なのに、「自分と同じような反応でないからおかしい」なんて、その感覚のほうが「よっぽどおかしい」といえますね。

他人も自分と同じように感じるもんだと思う思い込みを「フォールスコンセンサスバイアス」なんて言います。

正直、自分と他人は別の感性を持った別の人間です。

大事なのは「自分とは違って当たり前」という感覚ですねえ。

ま、一緒に同じものを楽しめないのがつまらないってのは同意しますがね。

で、冷たい人だと思われたくない場合は、別に無理して周りに合わせる必要はないですが、少なくとも積極的に自分の感情を表現していった方がいいでしょう。

感情の機微がわからない人は正直誤解されますからね。

おそらくかなりの人達が「暖かい人だと思われたい」と考えて、他人に思い遣りがあるということを積極的に示すとか感動している風を装うとかをしがちですけど、正直感動してないのに自分を偽ってもつらいので感情表現に関してはマイペースでいいでしょう。

あとは感動できるポイントを頑張って探してみるのもアリですねえ。

ま、感情を偽ってもいいことないです。

冷たいかどうかは他人からの評価なので、もうほっときましょう。

もし、それで仲良くできないなら、まあその程度の仲だったということでしょう。

6、本当に冷たい人の特徴

正直、個人的には「冷たい人」というくくりで人をカテゴライズすること自体が「著しくばかばかしい」と思っています。

とはいえ、世の中広いもので「おい!こいつは絶対あかんやろ!」て人が一定数いるもんです。

まあ、人によっては予測がついているとは思いますが、「本当に冷たい人」といったら、「サイコパス」で間違いないでしょう。

彼彼女らには共感性自体がないって言われていますからね。

冷たい人と言ったら、「もう連中を引っ張て来ずに誰を引っ張ってくるよ?」てくらいにサイコパスにこそ「冷たい人」の称号はふさわしいかと。

現実で出くわしたら絶対かかわっちゃダメっすよ。

「かかわるな、危険!!」ですからね、サイコパスは。

ここにサイコパスについての記事置いておきますねー。

参考記事等

7、正直、自分が困ってないなら変わんなくていい

はっきり言いますが、「困っていないなら冷たい人だと思われても気にしなくていい」です。

というか、もし「わたし冷たい人なのかな?」て気にしているとしたら、「その時点でまず間違いなく冷たい人ではない」ですよ。

なので、自分のことを責めるなんてしなくていいです。

おそらく、自分を責めがちな人は自尊心が低めだったり、メンタルが弱いのかもしれません。

ここにメンタル強化や自分に優しくする方法、自尊心を高める方法を置いときます。

参考記事等

おわりに

この記事では「感動しないからといって冷たい人とは限らないよ」と述べました。

まあ、いろいろ長々と話してきましたが、結局言いたいことは

「感性も感動のツボも人それぞれだから自分と同じように感動していなくても、それをもって冷たい人認定するのはおかしい!」

てことです。

自分と他人は別の人格を持った別の人ですよ。

感じ方が同じはずがないんですね。

なので、短絡的に「自分と同じように感動していないから冷たい人」みたいにあほなレッテル張るのはよしましょう。

むしろ、見る人が見るとこれは逆に「あ、あいつバカだなあ、自分の感じ方が人類すべての感じ方だとおもっているやつだW」と嘲笑されるような「おバカレッテル」を自分に張っていることになりますからね。

いつも、「相手と自分は違う」という前提でものを見ていきたいものです。

では!

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