「んー、最近めっちゃ悩んでるんだよね、、、。優しいってなんだろうか?この間、友達と話してて思ったわ。友達によるとあれこれ世話を焼きすぎたらお節介だし、よく尽くしてくれるような男は都合がいいヤツだっていうんだよねえ。なんだろな、もう何が優しさだかわかんなくなってきたよ。」
そうね、、、優しいって、、、、何だろう??
オニギリス!
脱マンネリストのオニギリです!
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「優しいとは何だろうか?」という話題であります。
はい、世の中で美徳とされる「優しさ」。
でも、なんか曖昧模糊としていて実態がよくわかんない言葉ですよね。
なんか、この「優しさ」は「見返りを求めずに相手のために行動する」みたいな過度に美化された文脈で語られることがあります。
ただ、行動分析学的な観点から言うと「見返りのない行動は存在しない」ので、この定義では論理破綻しているということになりますね。
そう、全ての行動は目的的。
そんなややこしい「優しさ」を今回は少し考察してみようかなって思います。
もし世間的な「優しさ」を強いられて「他人に優しくなければダメだ」なんて、考えにとりつかれているのなら、その「優しさ」を「あなたにとって楽な優しさ」と取り換えませんか?
その方が人生が楽で楽しくなるんじゃないかなって思います。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
優しいってどういう意味だっけ?
さて、「優しい」という言葉の意味から確認していきましょう。
優しいとは、、、
( 形 ) [文] シク やさ・し
①穏やかで好ましい。おとなしくて好感がもてる。 「気立ての-・い女の子」
②思いやりがあって親切だ。心が温かい。 「 - ・い心づかい」
①身もやせるような思いでつらい。他人や世間に対してひけ目を感ずる。恥ずかしい。 「世の中を憂しと-・しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば/万葉集 893」
②心づかいをして控えめである。つつましやかである。 「されば重木は百八十に及びてこそさぶらふらめど、-・しく申すなり/大鏡 序」
③(節度をもって振る舞うさまが)殊勝である。けなげである。 「己が振舞-・しければ、一筋取らするぞ/保元 中」 〔動詞「やす(痩)」の形容詞形で、身もやせ細る思いだというのが原義。平安時代には
② の意でも用いられ、つつましくしとやかなさまを優美と感ずることから
③ の意が生じた。
引用元
はい、やはり辞書に頼ってもなかなか判然とはしませんね。
今度は語源をみてみましょう。
語源は、動詞「やす(痩す)」が形容詞化した語で、もとは、身もやせ細るほどに恥ずかしいという意味。万葉の時代から、人や世間に対して気恥ずかしい、肩身が狭いの意味で用いられていた。
平安時代になって、恥ずかしく思う気持ちから周囲の人に対して控えめにふるまうさまを優雅、優美であるとして評価するようになり、やがて、心づかいが細やかで思いやりがあるという意味へと変化していった。引用元
なるほど、この語源を見るに以下の図のように意味が変遷していったようですね。
「優しい」 | 意味の変遷 | 評価の方向 | 意味の+- |
万葉時代 | 肩身が狭い | 自分から自分 | ネガティブ |
平安時代 | 優美、優雅 | 他者から自分 | ポジティブ |
平安時代以後 | 心使いが細やかで思いやりがある | 他者から自分 | ポジティブ |
上記表を見るに、万葉時代から「優しい」の意味のネガティブ、ポジティブや評価の方向が逆転しています
。
んー、なんか不思議な変遷をたどっている言葉です。
2、そもそも他人にだけ優しいのは無理がある
はい、世の中では「他人には優しくしなさい」というのに「自分には厳しくあれ」なんて往々にして言いやがります。
おい?ふざけんなよ(圧)?
こんなことをしたら自己否定のオンパレードですよ。
あるがままの自分なんて認められるわけがない!
挙句心をやんでウツになってしまうかも。
それでも、世の中のよくわかんない「克己心」を標榜する人たちは言うわけです。
「ウツは甘え」なーんてね。
ま、いい気なもんだ。
むしろ、真面目な人ほどウツになりやすいとおもんだけどね?
まあ、他人に優しいのはいいことですが、同時に自分にも優しくないとバランスが取れないんです。
自分は飢えて他人にはせっせと自分のご飯をあげるくらいにとんでもない自己犠牲ですよ。
そんなことずっとしてたら、心が死んじゃうよ?
だから、人に優しくあるなら自分にも優しくありましょう。
自分の不完全性を受け入れて、自分の可能性を信じてあげましょうよ。
ミスが何だっていうんですか?
失敗がどうしたってよ?
いいよ、そんなもん。
また、やればいいんだ。
自分を許そう。
参考記事等
3、「優しい」、「優しさ」はあくまで評価でしかない
さて、上記のように語源を見る限り、やっぱり「優しい」なんて他人からの評価にすぎなかったんですね。
現実では、人に優しくするってとっても難しいです。
例えば極端な例ですが、「安定してちゃんと食事が食べれるようになりたい」という空腹のホームレスの人に食事をあげるだけでは何も解決しないですね?
そう、その場しのぎにすぎないのです。
彼彼女らに本当に必要なのは「継続的な仕事」なんですよ。
まあ、もちろん食事もでしょうけどね。
その場しのぎの対処療法なんかしても、彼彼女らはずっとホームレスを続けていかないといけないんです。
優しさってとても複雑です。
わたし達が優しさと思ってした行為も、「厳しい」とか「非道」なんて評価を受けたりすることあります。
一方で、厳しく接しても「優しい」といわれることもあります。
ですから、「優しいこと」にこだわり始めると「相手が優しいと思ってくれるように行動しよう」という意識にどんどん変わっていってしまいます。
そうやって強く意識すればするほどに、自分が期待通りの評価を得られない時に「自分はなんてダメなのか」なんて自己否定を始めるなんて顛末になるかもしれません。
「優しくあること」、「優しくすること」にこだわるのは自分に厳しいことでもありますね。
こだわりも理想もいらないんじゃないかなって思います。
参考記事等
4、見返りを求めない優しさは存在しない
また、「優しさ」というものを過度に美化する理想主義的な人にありがちなこととして、「見返りを期待することに対する強い罪悪感」があると思われます。
少しでも相手に期待していると意識したら、「なんて非道徳的なんだ!なんて汚い心の持ち主なんだ!私は!!」などと強く自分を叱責するでしょう。
しかし、安心してください。
『見返りのない行動は存在しません』。
全ての行動には目的があります。
あなたが意識するしないにかかわらずね。
あなたはたまたま自分の心を客観視して自分の行動の目的に気が付いた、、、ただそれだけのことです。
そして、その「気が付く」ということはとてもいいことですよ。
自分は行動をしているときになんて思ったのか?
この振り返りは自分の気持ちを穏やかにしてくれるのに役立つ思考です。
むしろ、自分への優しさといってもいい!
なので、そのような気づきに罪の意識を感じなくていいのです。
もっと、「よくやった自分!えらいぞ!」とほめてあげてくださいな。
5、優しくなくていい、相手の立場さえ考えればいい
はい、結論ですが、「優しくなんてなくていい」です。
優しいかは他人の評価なのでもうこだわりも理想もいらないんじゃないかな?
あなたが「優しさ」だと思ったものが、相手からしたら「悪意」だったなんてこともないとは言えないんです。
上述したように、すべての行動は目的的です。
あなたは意識していなくても「人に優しく接しよう」と思うとき、相手に「多分感謝してくれるはず」と心のどこかで期待、ないし予想しているもの。
誰かを笑顔にしたいからっていうのも同じです。
笑顔にしたい行動の見返りは「相手の笑顔、ないしそれに類する好意的な反応」ですからね。
相手の反応を人間は無意識に予測しているんですから、見返りがない行動なんて存在しえないんです。
大事なのは「期待通りでなくても相手を非難しない」という心構えですね。
期待を裏切られたときは、
「まあ、いろんな価値観、感じ方の人がいるから仕方ないね。でも、わたしは自分の気持ちに素直に従っただけだからそれで十分さ。まあ、今度はもっと相手の立場を考えて行動するさ」
みたいに考えるといいかなって思います。
そう、失敗を次に生かすという視点が大事ですね。
言ってみれば、投資ってことです。
より大きな見返りを得るために今は経験値をためている状態だってことですよ。
なので相手の立場を自分なりに考えたうえで、「感情を素直に表現すればそれでいい」といえます
その行動が「優しいか」なんてどうでもいいです。
それは相手が決めることであり、あなたにはどうしようもないんですから。
あなたは「これは相手のためになる」と相手の立場に立って考えて行動するだけです。
「人に優しくする」という制約やこだわりを手放してしまいましょう。
人が決めることを自分で決めようとしても無理ですよ。
他人はあなたではないのですから。
参考記事等
おわりに
この記事では「優しいとは何だろうか?」と題しておおくりしました。
優しいかどうかは「優しいという言葉の語源」からみても、人からの評価に過ぎません。
人から「優しいと思われるために優しくあろうとする」のでは、とてもじゃないけど気が休まりませんよ。
相手の立場をしっかり理解しようと努めたうえで、自分の気持ちに素直に「やりたいからやった」のであれば、ひとまず結果はどうでもいいのではないでしょうか?
結果が返ってきたら、その結果を見てまた行動を改めるなりなんなりしていけばいいだけのことです。
自分に「人に優しくいないといけない」なんて制約は課さなくていいんですよ。
では!