今回は以下の様な方に向けておおくりします。
・「生きるために働く」と「働くために生きる」のどちらの考え方が正解なのか気になる人
・話しのネタが欲しい人等
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのオニギリです!
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「「生きるために働く」のか「働くために生きる」のかを左右するもの」という話です
ちまたには、「生きるために働くのと働くために生きるのはどっちが正解なのか?」といった議論があります。
正直、この手の疑問に関しては個人的に「そんなものは個人の勝手でしょ。自分で答えを出しておけばいええよ」と思うところはありますねえ。
ただ、それで終わってはしょうもなさすぎるので、今回は「生きるために働くか働くために生きるかを左右する要素は何か」について少し考察してまいりたいと思う次第。
「生きるために働く人生なんてクソじゃん!」て人も「働くためになんて生きたくない!」て人も、今一度仕事と自分の人生との関わり合いについて見直してみるのもいいかもしれません。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
生きるために働いても働くために生きても正解
「生きるために働く」のも「働くために生きる」のも正解です。
生きるために働く人にとっては、「仕事なんて所詮は人生の他の何かを達するための手段に過ぎない」だけですし、働くために生きる人にとっては「仕事は人生をかけるに値するものだ」というだけの事。
自分の人生における仕事の位置づけがどうなっているかによって、「生きるため働く」か「働くために生きる」かが決まってくるというだけです。
なので、どちらのスタンスにも優劣などありません。
「本人がどう思ったか」が全てといえます。
世の中には「生きるために働くなんて考え方している自分はおかしいのでは?」等と感じている人が一定数いるようですが、そんなことは気にするまでもありません。
わたしとしては、「あなたがそう思うんならそれで正しいのですよ」と言いたいですね。
他の大多数の他人がどう思っているかなんて知ったことではありません。
問題は「あなたがどう思うか」。
それだけです。
生きるために働くとか働くために生きるとか以前にそもそも生きること自体に意味がない
さて、もう一点抑えておきたいことがあります。
「生きるために働く」とか「働くために生きる」と言いますが、そもそも人生にも仕事にも普遍的な意味などというものはありません。
この世界に存在する全てのものには、もとより意味などどいうものはないんです。
結局は、世界を認識する視点である自分の意識が「~には意味がある」と感じられるかどうかでしかないと思います。
多くの人は「周りの人が~といっているから~には意味があるんだ」とか「世間がもてはやしているから~には価値があるんだ」といった視点でばかり物の価値を判断しがちです。
しかし、そんな大衆の総意としての価値に対してあなたが迎合してやる道理などないといえます。
まかり間違うと、かなり危ない事は確かですが、「他の奴が価値があるといってもわたしには一切何の価値もあるとは思わない。だから不要だ」と切って捨てても何ら構わんという事。
もちろん、表面上は尊重するふりをするのが社交性というものですが、自分にとって価値がないと思うのなら別にそんなものを自分の中に取り入れる事はありません。
※とはいえ、視点を柔軟にしていろんな視点を取り入れる努力自体はしたほうがいい。そのような努力をしなければいずれ成長が止まってしまう。
自分が信じられるなら他の意見に振り回されず、自分の意思を貫いたらいいのです。
まずは、「自分の人生の主人は自分以外にはいない。本当の意味で自分に命令を下せるのは他ならぬ自分自身だ」という事を今一度確認する必要があります。
そして、これは逆を言えば「生きるも死ぬも結局は自分次第である、誰にも言い訳できない」という事でもありますね。
人生の最終決定権者は、「常に自分だ」という事です。
そんな自分が自分の意思によって、この無意味で混沌とした世界に「自分なりの意味」をいろんなものに与えていくのが人生でしょう。
生きために働くか働くために生きるのかを決めるかは、価値とのつながり
生きるために働くのか働くために生きるのかを左右する要素は、「自分の人生における価値」です。
自分の人生における価値は、「自分の人生に対する願い」と言い換えてもいいでしょう。
生きること自体にも仕事自体にも本来的には何の意味もないのは先ほど言った通りですが、「意味を感じられない人生など生きたいとは思えない」のが人間というものです。
「人生や仕事に意味がなくともそこに意味を見出さない事には絶望しか待っていない」のは紛れもない事実といえます。
そこで「自分が何のために生き、そして働くのか?」と迷う気持ちがある人は、まず自分の意味がない人生に「自分なりの意味を与える作業からスタート」しましょう。
例えば、あなたは自分の葬式の際にどんな人に参列してもらいどんな風に見送られたいでしょうか?
次に、葬式でそのような見送られ方をされるためには、一体どのように生きればいいのでしょう?
、、、このように自分の最期を想像してそこから逆算して今の在り方を考えると、一体自分が人生に何を期待しているのかがおぼろげながらも分かってくるはずです。
例えば、「大勢の親族や友人知人達に惜しまれながら見送られたい」というのであれば、あなたは良質な人間関係を沢山構築していかないといけません。
そして、その大前提には、「自分が出会った人と一人一人真摯に向き合い進んで親切をしてお互いに助け合える関係を作る努力」が欠かせないでしょう。
そうやって自分が人生に対して何を願っているかがある程度わかってきたら、今度はその願いと自分の仕事をつなげてみる作業をするといいです。
どんなに自分が「こんなしょうもない」と思うような仕事の中にも、「何かしら自分が人生に対して願うものとリンクする部分」があるはずなんですよね。
そのリンクする部分に注目していけば、案外仕事に対して積極的になれるかもしれません。
仕事に対して「こんなクソどうでもいい仕事、、、」等とは思わず、「この仕事は自分にとって意味のあるものだ!」なんて気持ちになれると思うのです。
そうなってくると、「働くために生きている」なんて言える日がくるかもしれません。
とはいえ、給与が低すぎるのはやってられんって話になりますけどねえ(笑)。
いずにせよ、仕事へのモチベーションは自分の人生への願いとどれだけ関係づける事ができるかで決まるといえます。
なお神や人間よりも上位の存在を肯定する人は、「自分の人生の価値に気づくというアプローチ」ではなく、「与えられた人生の意味に気づくというアプローチ」でも対処可能です。
自分に合ったやり方で、自分の人生に意味を与え、その意味と自分の仕事を上手に結び付けてみるといいでしょう。
自分の人生における価値を見つける方法についてはリンクからどうぞ。
おわりに
この記事は「「生きるために働く」のか「働くために生きる」のかを左右するもの」と題しておおくりしました。
そもそも人生にもどんな仕事にも本来的な意味などというものはありません。
すべて「ただそのように存在している」というだけです。
しかし、意味がないという事実を受け入れただけでは生きる気力など失ってしまうのが人間というもの。
人生や仕事には自分で意味を与えましょう!
それでこそ積極的に取り組む気持ちになるというものです。
自分なりの意味を持つって大事ですなあ。
では!
参考記事等
自分を愛せない人は他人も愛せないという言葉は果たして真実なのか?
よく聞く「メメントモリ」の本当の意味ってなあに?「人名ではない」