
「なんか最近、心理カウンセラー的な人たちが「逃げてもいいんだよ」て言い回しをよく使っているけど、それを見るたびにちょっと嫌な気持ちになる。なんだろうな、善意で言っているのは分かるけどさ、、、。」
まあ、せやね、「なんでおめえに許可されなかんねん」的な気持ちかね、それ。
だったら、わからんではないなあ。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「「逃げてもいいんだよ」、「泣いてもいいんだよ」的表現はなんか好きになれん」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
・「泣いてもいいんだよ」的な言い回しがどうも引っかかるという人
・話しのネタが欲しい人等
今回はちょっと個人的に最近引っかかっていることについて記事にしようと思います。
よく心理系の方々は「逃げてもいい」とか「泣いてもいい」とかいう言い回しを多用するんですな。
わたしもたまあに気を抜いているとこういった感じの言い回しを使ってしまうことはありますが、正直この言い回しって少し個人的に好きじゃないんですよね。
なんか、偉そうに感じません?
動機は善意なのかもしれないけど、、、、ねえ。
ま、言い方は大事だよねってことですよ、はい。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
逃げてもいいんだよ、、、、はい?
わたしはよく心理系の方々が多用する「逃げてもいいんだよ」とか「泣いてもいいんだよ」といった感じの言い回しがずっと前から好きじゃないです。
なんだろう、、、、こういう言い回しをされると、「いや、なんで逃げる事や泣くことをアンタに許可されなあかんねん」とか「何か偉そうやねえ、、、何様?」みたいな感じがそこはかとなくするんですよ。
同じことを感じている人がもしかしたらいる気がしますけど、どうでしょうか?
あと、これはわたしの勝手な思い込みかもしれませんが、「逃げてもいいんだよ」的な言い回しってなんだか「親が子供をあやすような言い回しじゃないか?」て思うんです。
対等な立場の一介の人間に対して、なんだか失礼な言い方してるなあって気もしてくるんですよね。
人間って誰でも生まれながらにその人なりに自立して生きていくだけの能力を備えているものなので(少なくとも自分はそう信じている)、「ほら助けてあげるよ」的な態度って人を小ばかにしてるだろって気がしてくるんです。
なんかね、「わたしが救ってあげますよ、あなた困っているんでしょ?」みたいな格上から格下へ恵んでやるよって感じの雰囲気をこう言った言い回しから感じるのですわ。
もちろん、言っている人は善意なんでしょう、、、多分。
それはわかるんだけど、どうも個人的にしっくりきません。
「なんか、もう少し対等を意識した言い方あるだろう?」て思ってしまうんです。
心理カウンセラーとかセラピストの人の多くは、もしかしたらですが「わたしが困っている人を助けてあげるのだ」みたいな感じなのかもしれません。
しかし、こういったスタンスがわたしは大嫌いなんです。
まるで、「先生がわからない生徒に教えを伝授する」みたいな主従関係を構築したがっているように見えてしまいます。
自他ともに心の問題というものは、万人が一生向き合い続けねばならない課題です。
なので、相談を受けている立場の人であっても、一生迷える子羊の一頭にすぎないわけですな。
そう、ある意味人に心理の扱いをアドバイスしていく人であっても常に自分なりの課題と日々向き合い続けているわけで、言ってみれば「すべての悩める人と同じ仲間」なんです。
抱える問題の大小はあれども、そこに上下はなくみな同一線上にいるって感じ。
悩んでいる分野や悩みの種類が違うのはあるかもしれませんが、「同じ迷える仲間」と言えます。
そこには優劣なんてものはないしそんなものをつける必要もないと思うんです。
なので、個人的にカウンセリングしていても「~先生」と呼ばれることには非常に違和感があるし、そんな仰々しい敬称をつけられるたびに「「~さん」でいいよ。だって、お互い悩みに立ち向かうって意味では仲間じゃん」と思ったりするんですよね。
わたしは上下関係を過度に嫌っているというよりも、教条的で上の者が下の者に教えてやるってスタンスが気に食わないんです。
心底ね。
みんなそれぞれの悩みの前には無力な一介の葦ですよ、人間なんて。
だから、わたしは少し心理のみつめ方や捉え方についてちょっと先を言っている人が「子rことってよくわからんな」って人に「これつかえるかもしれんよ?気になったらつかってみん?」てちょっときっかけを与える感じでいいと思っているんですわ。
別に、少し知識があるとかそんなのどうでもいいんです。
そんなのその気になって勉強すれば、個人差はあれどある程度わかることですしね。
正直、全ての選択は自分次第
当たり前ですが、全ての選択は自分次第です。
誰かが「~しろ!」といったところで、それに従うかどうかを決めるのは結局自分。
自分以外のものに意思決定なんてできやしませんし、「させてはいけない」です。
それに考えを押し付ければ押し付けるほど、相手の反発する心は強くなるもの。
だからこそ、相手の心と向き合う姿勢が大事という事です。
「無知なお前に良くモノを知っているわたしが教えてやろう」なんて感じでは、教えられる側としては最初はいいかもしれませんが段々嫌気がさしてくるでしょう。
あくまでも、「その本人が決めるのだ」という事を前提にして、話をしないといけないと思うんですな。
そうでないと後々、お互いの関係がいびつなものになると思います。
形式上従わせても、心がこちらを向かないならそのアプローチは失敗です。
形式上の尊敬にあまり意味があるとは思えないんですよねえ。
あと、マインドコントロールして依存状態を作るのも違いますよな。
やはり、原則として相手の自由意思を尊重する立場を大事にしないとアカンと思ったりするところです。
動機はともかく言い方には気をつけたいよねって話
わたしはエスパーでないので「逃げてもいいんだよ」等といった言い回しをする人の真意は分かりません。
しかし、おそらくは大体の場合において「善意」だと思います(そういうことにしておく)。
ただ上述した通り、この言い方には「困っているあなたをわたしが救ってあげよう」的な尊大な態度を感じますし、何より相手を半人前としてみているように取れてあまりいい気がしません。
まだ、「逃げるのは大事な事です」とでもいった方が幾分ましな気がします。
確かに、心の弱っている人は何かに頼りたい気持ちになっているのが普通なので、「~してもいいんだよ」みたいな感じのいい方をした方がもしかしたら集客等の面で安心感があって効果的なのかもしれません。
でも、個人的には「こいつ、人をなめてんな」みたいな気分になるので、やはり「お互いに悩める仲間」といった事を印象付ける表現の方がいいと思ってしまいます。
「~していいんだよ」といった言い方に限らず、何事においても言い方ひとつで関係が険悪になったりしますよね。
例えば、夫婦間で夫が妻に「おい、胡椒」とか「出かけてくる。夕飯いらないから」等とぶっきらぼうに要件や用事しか伝えないなんて感じだと「何こいつ?もっと言い方あるだろ!」となると思います。
例え、秘めたる愛情がそこにあったとしてもそれをある程度形にしていかないと相手に伝わることはありません。
「私口下手だから分かってくれ」ですんだら苦労はないんですよね。
その時は「まあ、そうなんだな。仕方ない」と相手は納得しても、やっぱり同じ対応をされるたびに「なんかモヤモヤする」訳で、それが積もり積もって「もうこんな奴とかかわりたくない!」と縁を切られたりします。
日々の不満はあるとき一気に爆発するもんです。
可視化されたときにはもう手遅れってことはよくあります。
なので、言い方には日頃から気をつけたいものです。
言い方について考えるにあたっては以下の書籍が参考になるでしょう。
参考
おわりに
この記事は「「逃げてもいいんだよ」、「泣いてもいいんだよ」的表現はなんか好きになれん」と題しておおくりしました。
正直、今回の内容は「は?そんな細かいこと誰も気にしねえよ」て感じだったかもしれません。
また人によっては、「人が善意で言ってくれているのになんでそんな重箱の隅つつくようないちゃもんつけるかな。ひねくれてんなあ~」と思うかもしれないなって思います。
はい、そういった気持の人もいるだろうなって思いますが、やっぱり気になってしまうもんは気になるんですわ。
ま、誰でも一つや二つくらいあると思うんですよ、「そんなこまけえ事気にしねえよ」て感じの事柄が。
なくて七癖とか言ったりもしますし、人はそれぞれなんかひねくれた側面は持っていると思います。
それでいいんじゃん、人間だもの。
では!
参考記事等