「嫌いな人を許す方法」嫌いな人をゆるす必要なんてあるのか?

今回は以下の様な方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ

・嫌いな人がいる人
・話しのネタが欲しい人等

オニギリス!

脱マンネリストで心理カウンセラーのオニギリです!

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「「嫌いな人を許す方法」嫌いな人をゆるす必要なんてあるのか?」という話です。

誰でも「コイツは嫌いだ!」とか「コイツは許せん!!」て思う相手がいるもの。

しかし、ふとした瞬間に「こんなにも誰かを嫌っている自分は随分と狭量なのではないか?」なんて気持ちになる人もいるかと思います。

確かに、他人に寛容であることは美徳であるといわれますし、他人に寛容であるという事は人間関係を良好に保つために実際的な利益のある態度でもあるといえるでしょう。

しかし、やはり「無理なものは無理」です。

許せたらいいですけども、許せないものは仕方がないですねえ。

今回は嫌いな相手を許すにはどうしたらいいか、また別に無理に許す必要なんてないという事について少し述べたいと思う次第。

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では、ゆるりとおおくりします。

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許すのは一体誰の為か?

さて、そもそも「許す」という行為は誰のための好意ないのでしょうか?

答えは、「ほかならぬ自分のため」です。

自分のために他者を許すんですよ。

許すという行為は、「苦しみや葛藤を手放す」ととらえてもいいかと思います。

誰かに対していつまでも「あいつのせいで、、絶対にいつか報復してやる!」とか「何としても落とし前付けてもらうぞ!!」なんて強い憎悪にとりつかれていたら、四六時中その嫌な相手の事ばかりが頭の中にあることになってしまいますね。

これは見方を変えると、「自分の憎らしい相手のためにわざわざ自分の時間を使ってやっている」ともとらえられます。

こんなもったいない事はありませんよね。

自分の生きている時間も有している労力も有限なのです。

それなのにそんな大事な時間や労力を嫌いな奴のために使ってやるのですから。

そんな時間があるのなら、「家族のために何をしてあげるか」とか「いつも懇意にしている親友たちにどんな贈り物をしてあげるか」みたいなことに頭を使った方がよほど生産的というものです。

さらに言うなら、怒りや憎悪といった感情は健康に非常によくないですねえ。

もう一度言いますが、「許すとは自分のためにする行為であり苦しみや葛藤を手放す事」を意味しているんです。

そのため、許す対象は不快に思う相手に限らず「苦しんできたこれまでの自分」も含まれるといえます。

葛藤を続けてきた自分に対して、「もうお前は十分苦しんできただろう。もうあんな奴の事で苦しまなくていいんだ。わたしはこれまで苦しんできたわたしを許そう、、、」といった感じです。

もちろん、あえて憎しみを抱いてきた相手を許すのも建設的な行為と言えますが、これは生半可な事ではないし場合によっては本当に不可能な事もあるためわたしはあえて推奨はしません。

もし、時間の経過とともに心が軟化してきて寛大になれたなら、その時に許してやればいいでしょう。

それ以上はわたしは必要だと思いません。

なお、許せない人とは「関わらない」のが鉄則ですね。

お互いに傷つけあうのが目に見えていますので。

他人を許すには、「他人の立場に立ってみる」のが効果的

どんな人間の行動にもそれが行動であるからには、何がしかの動機というものがあります。

そしてその動機は主に本能に根差したものから、当人のこれまでの生育環境や現在置かれている社会環境などの文脈に主に依存したものと実に様々です。

相手の行動に対して不快を感じたときは、一度冷静になって客観的に「コイツの動機は何か?なんでこんな行動をとったのか?どうしてとる必要があったのか??」といった分析をして見る必要があるでしょう。

口で言うのは簡単で実際にやるのは相当に困難なんですけども、一度冷静になって「相手の立場に立って行動の動機等を分析」するのです

こうして分析するという視点でいろいろと当人の身の上等のプライベートな情報を少しずつ集めてみましょう。

そうすると、相手がなぜそんな行動をしていたのかについて推測が経つようになってきます。

その流れの中でもしかしたら、「こんな経験をしてきたのであれば人間不信になっても仕方ない」とか「人間性が歪んでも致し方ないともいえる」なんて腑に落ちる時がやってくるかもしれません。

別にどんな事情が相手にあろうと「明確に自分にとって害悪」なのであれば、「何ら同情も共感もしてやる必要は一切ない」のですが、ひとまずきちんと事実に基づいた相手の立場の確認が必要です。

こうした事実確認等を通して、相手への理解が深まって「仕方ない」と思えるなら許してやればいいし、「それでも、、、こいつは!」と思うなら許さなくていいのです。

とりあえず、許すか許さないかを決める以前に、「相手の立場に徹底して立ってみる」というのは努力してみましょう。

まずはそれからです。

どうしても許せない憎しみは放っておいて自分の人生を生きるようにしたい

いくら憎い相手の立場に徹底的に立ったとしても、「コイツは許せない」と思うときはあります。

そんな時は、繰り返しになりますが「許す必要はない」のです。

時間が思考をほぐしてくれて許せるようになることもあるでしょうが、その時が来るかは誰にも分かりません。

おそらく、ここから言う事の方が世の中で道徳的に正しいとされるような「憎い相手にも慈しみをもって許す」といったきれいごとよりよほど現実的でしょう。

わたしが提唱したいのは、「許せない憎しみがあることは自覚しつつもそれと上手に距離をとって生きよう」という事です。

きっと、あなたにも人生で「これを大事にしたい」といったものがあるはず。

憎しみばかりが自分の意識の表側に出てきては、自分の中で「こういったものを大事にしたいな」といった方向へ意識が向かわなくなってしまいます。

言ってみれば、憎しみにとらわれている状態とは「物事の優先順位がおかしくなっている状態」と言えるでしょう。

先ほども言ったように、人生の時間は有限なのです。

「くだらないクソ野郎のために使ってやる時間は一秒たりもねえ!」のですよ。

時間の無駄使いはやめにしましょう。

、、、とはいえ、とらわれている時には自分を見失いがちです。

そこで誰かを許せなくなった時の秘策を一つ提案します。

それは以下の様なもの。

  • まず「わたしは~を憎んでいる(もっと感情的で具体的な表現でもオッケー)」と5回ほど復唱してみる。その際に体に感じる「体温が上がる」のような感覚もきちんと把握しておく。

  • 次に「わたしは~を憎んでいる」と頭の中で繰り返しつつ、後ろに「~と思った」を付け加えて「「わたしは~と憎んでいる」と思った」と言ってみる。

  • 最後に「わたしは~を憎んでいる」と繰り返しつつ、そのフレーズの最後に「~と思った事に気づいている」という言葉を加えて、「「わたしは~を憎んでいる」と思った事に気が付いている」という。

そして、これと併せて日ごろから呼吸に意識を集中する瞑想をする習慣を作ってみて下さい。

徐々に注意力の制御が上手くなって憎しみに巻き込まれにくくなると思います。

あとは、アンガーマネメントも効果的かもしれません。

おわりに

この記事は「「嫌いな人を許す方法」嫌いな人をゆるす必要なんてあるのか?」と題しておおくりしました。

許すとは、「自分のためにする行動」であり、もっと言えば「自分の人生を積極的に生きるためにする決断」であり「人生の再スタートを切る勇気の表明でもある」と言えるでしょう。

まずは、「嫌いな相手であってもその相手の立場に徹底的に立つことが大事」です。

別に同情も共感もしてやらなくて結構ですよ。

ただ、相手の立場に徹底的に立つ中で「ああ、これは無理もない、、、」となった時に少しくらいは同情の余地があるなんて気分になるかもしれませんし、時間と共に自然と許せるようになるかもしれません。

そうなったら、それはそれでよしです。

とりあえず、自分の人生を生きる上で「誰かへの憎悪」は邪魔になることが多いでしょう。

あまり憎悪にとらわれない様に生きたいものです。

では、最後にあなたにアメリカのコラムニストのアン・ランダースさんのこの言葉を送りましょう。

「誰かの怒りにこだわることは、その嫌いな相手があなたの頭に住み着く権利を無料で与えたのと同じだ」

憎しみにとらわれたときは、何度も復唱してみて下さい。

では!

参考記事等

「ミラータッチ共感覚」人の痛みが本当に自分の痛みになる人もいる

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