「わたし思うんよ。人間なんて所詮は動物って。だから、人間って自分の意思で行動しているように見えて全て外からの刺激に実はただ反応しているだけなんじゃないかって思うんだよなあ。よくいうじゃん、言葉は信用できないけど行動は信用できるって。その人がどう思ったかなんて意味ないよね、嘘なんていくらでもつけるしさ。行動がすべてよ。」
はあ、それって行動主義みたいな言い分やな。
極論ちゃあ極論なんだよなあ、まあそういいたくなるのはわかるけど。
オニギリス!
脱マンネリストのオニギリです!
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「「人も所詮動物?」行動主義って何?新行動主義って一体何が違うん?」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
行動主義について知りたい人
- 行動主義について知りたい人
- 心理学発展の歴史を少し探ってみたい人
- 何か話のネタになるトリビアを探している人
心理学が「人の心を扱う学問」であるというのは多くの人が理解できるし賛同できることであると思います。
そして、心理学も学問である以上これまでに多くの立場が存在していました。
今回紹介する行動主義やその行動主義から発展した新行動主義というのもその数多くある立場の一つです。
ただ、この立場は現在の心理学の根幹ともいえる重要な立場なんですね。
行動主義や新行動主義について理解が深まると心理学がもっと面白くなるかもしれません。
この記事は東京大学出版会から出ている「心理学『第5版』」を参考にしています。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
心理学はもともと哲学だった
これは意外に知られていないことかもしれませんが、心理学はもともとは哲学の一分野でした。
心理学を哲学や他の自然科学と分かつ研究分野として確立したのは、「実験心理学の父」といわれるヴントさんです。
彼の実験心理学ではその研究対象を意識内容としており、それを内観法によって分析するという意識主義、内観主義という立場をとります。
※内観法とは心理学の研究方法の一つ。意識の過程を自分の意識によって観察する方法のこと。
これを見て「ん?」と思う人もいるでしょうね。
「内観法って要は『自分でどう感じたか』に基いて分析をすすめるってことでしょ?それってあてになんの??」
と懐疑的になる気持ちもあるでしょう。
はい、その意見はもっともでして、時代の変遷とともにヴントさんの実験心理学はさまざまな立場から批判をされることになります。
主観的意見は科学にならない
上述のような内観法に基づいたヴントさんの実験心理学に対して一石を投じたのがワトソンさんによる「行動主義」です。
ワトソンさんは心理学を「純粋に客観的かつ実験的な自然科学の一部門」と考え、その目標を行動の予測と統制、つまり知識の体系化であるとしました。
また、彼がいうには行動主義者が取り扱うのは「刺激と反応」であり、心理学の研究目標とは具体的に言うと以下の2点が明確になるような資料や法則を発見することである模様。
- 刺激が与えられたらどんな反応が起こるのか予想できる
- ある反応(行動)が起こったら有効な刺激が何だったかわかる
まあ、つまり「彼女が突然元気がなくなった」という現象があったとしたら、その反応を引き起こす原因として「有効な刺激は~だ」のような確固たる予測や法則性を見つけ出すということです。
また、彼のような刺激と反応を中心として考えていく心理学を「S(刺激)ーR(反応)心理学」といったりします。
言ってみれば、「人を心ある存在」というよりも「心のない動物やモノ」としてみる発想といえるかもしれませんな。
まあ、実際カウンセリングなんかではこの視点は非常に重要だったりするんですけども、この発想だけ聞くと人によっては感情的に反発してもおかしくはないでしょうね。
事実、このようなワトソンさんの行動主義に対して「非人間的だ」なんて批判もありました。
ちなみに、ヴントさんと同時期にあの条件反射実験で有名なパブロフさんがいまして、ヴントさんも影響を受けていたりします。
新行動主義って何?行動主義と何が違うの?
さて、上述の通りワトソンさんの創始した行動主義が徹底して心理学の客観化を目指してひた走る中、特にアメリカでは
「感覚や知覚、思考、感情などを主観的なものだから考慮する必要なし!」
みたいに排除、回避する傾向が強まります。
その中にあって、ゲシュタルト心理学が出現してまた心理学の世界は一つ新しい知見を得るんですね。
ゲシュタルト心理学について詳しくは以下をどうぞ。
ワトソンさんの唱えた行動主義は反応を筋収縮とか線分泌みたいな末梢的、つまりいささか細かいことにこだわり過ぎて本質からずれている立場だと批判をされたりしたんですね。
少しややこしい話ですけども、全体から一つの構成要素をとりだして観察しただけでは全体としての動きはわからないってことです。
つまり、構成する要素を一つだけ抜き出して「こいつはこうやって作用しているのだからこいつらを寄せ集めたらきっと全体としても同じような動きをするだろう」っておもったら「それはちゃうよ!」てことですな。
つまり、全体を構成する一部だけ観察しても全体そのものの動きはわかんないってことです。
例えばですけど、アリをあるアリの巣から一匹だけ取り出して行動を観察して「ありってこんな行動するのか」と納得しても、そのアリをアリの巣に投入したら全然予想外の動きをとるって話(例えがへたくそですまん)。
それは要素同士の相互作用を軽視しているからこそ起こるともいえるでしょう。
さてこのように様々な批判や新たな考え方の登場をうけて、行動研究に携わっていた人達が行動主義に修正を加えようとする動きが起こってきます。
そうして、登場したのが「新行動主義(後期行動主義)」なんですね。
新行動主義が従来の行動主義と違う点は例えば以下のとおり。
- 認知のような主観的過程の役割を考慮する(ある意味で先祖返り)
- 生活体(人を含む動物のこと)の環境への適応行動を適応的、全体的過程をしてとらえる
これ以外にも新行動主義の立場は実に多彩です。
ただ、これだけは言えるでしょう。
「もっと、巨視的観点から全体をみる思考が加わった。要素同士の相互作用を気にするようになった。主観的な要素をかえりみるようになった」と。
要するに、「人の社会(他者)との関係における役割やそれらから受ける影響を加味するようになった。感情や認知みたいな主観的な要素も加味するようになった」て感じですかね。
まあ、わたしの認識不足で間違っていたことを言ってたらすいません。
先に謝っておきます。
おわりに
この記事は「「人も所詮動物?」行動主義って何?新行動主義って一体何が違うん?」と題しておおくりしました。
今回は心理学の発展の歴史に関する記事になりましたねえ。
でも、こうやって理論の変遷を見てみるといつの時代を完璧な考えってないんだなって思いますね。
心理学者をはじめとした科学者の方々の尽力で現代文明は発展しいまこうして我々はその恩恵にありがたいことに浴することができているわけですが、その時代に「真理」とされていたことにも必ずといっていいほど後々反論がおこって覆っていきます。
これを考えると、「~こそは絶対だ!」みたいに強く思いすぎることの危険性をとても感じますねえ。
何事に対しても「それって本当なのか?根拠はあるのか?その根拠は妥当なのか?」なんていう目線は堅持し続けたいものですね。
では!