「どうにも我慢が美徳って価値観が日本には根強いみたいだなあ。自分も例にもれずその被害者だわ。我慢することがいいことだって親にも教師にも教えられてきたせいか、どうにも最近の『自分に優しくしたほうがいい』って論調にはついていけない、、、。いや、その方がいいだろうなっていうのはわかるんだけどさ。」
うぬ、三つ子の魂百までとはよく言ったものよ、、、。
幼少期からの刷り込みって怖いよなあ。
オニギリス!
脱マンネリストのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「我慢や忍耐、辛抱は意味ない?ストレスの元凶?「何事も受け入れて受け流す」」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
- 我慢が美徳だって意見が気に入らない人
- 何かと我慢してしまう人
- 対人関係でストレスを感じることが多いと思う人等
「我慢」っていいことでしょうか?
、、、まあ、社会性という点では必要になるものですよね。
でも、行き過ぎた我慢ってそれは「我慢している本人にとっては害悪以外の何物でもない」といえるかと思います。
もちろん、忍耐や辛抱なんていうのもその類です。
ただ、ことさらに我慢や忍耐、辛抱なんてものを持ち出さなくても、上手く状況に適応することはできますよ。
そのキモは「受け入れる事」です。
受け入れたうえで、そこから発想を転換してストレスを軽減してやればいいんですわ。
まあ、簡単ではないですけどね。
不屈の精神を身に着けたい人はリンクからどうぞ。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
我慢、忍耐、辛抱って何が違ってどんな意味?
まずは例に倣って言葉の意味の確認からしてみたいと思いマウス。
最初は我慢!
我慢とは「こらえる事」の意であり、その語源は仏教にあるといいます。
仏語において、我慢とは
「我に執着し、我をよりどころとする心から、自分を偉いと思っておごり、他を侮ること。高慢。」
だそうです。
引用
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%88%91%E6%85%A2/
我慢の本来的な意味は意外なことに、「自分に対して執着する」みたいな感じなのね。
で、次は忍耐。
忍耐とは
「苦難などをこらえる事」
の意。
ふむ、、、我慢と忍耐は同じみたいね。
最後は、辛抱。
辛抱とは「つらいことや苦しいことをがまんすること」の意です。
なお、辛抱の語源は仏語の心法みたいですな。
※心法とは一切のものを心 (しん) と色 (しき) とに分けたときの心。また、心の働きの総称のこと。
参考
、、、うん、定義の中に我慢が出てきたのでもうこれは「我慢」と同じ意味と考えていいね。
以上から、凄く回りくどい無駄なことした感があるけども、我慢と忍耐、辛抱は「基本的に同じ意味だ」と考えてよさそうです。
ただ、我慢よりも忍耐と辛抱の方が「辛い事や苦難をこらえる」という意味合いが強い感じがしますね。
「心の抗い」に抗うのは得策ではない
さて、上述のように我慢も忍耐も辛抱もほぼ同じ意味といえるので、ここからは「我慢」に限定して論を展開してまいります。
人が「我慢する」時は、その背景に何がしかの欲求が存在していますね。
例えば、プリンを食べたいと思った次の瞬間に「痩せたいから我慢する」という意識になるとか、そんなカンジ。
我慢とは言ってみれば、自制心による行動なわけです。
我慢は、自身の欲求とそれを止めようとする心理のせめぎあいって感じでしょう。
自発的に何かを達成するために自制心を発揮して欲求を制御するのは、大事な事であり「意味のある我慢」といえます。
ただ、ツライことや理不尽を我慢するなんて言う場合は、少しだけ事情が違ってきます。
ツライことや理不尽みたいなものは基本的に本人の意思にそぐわない不快なものです。
生物として見れば、不快をさけ快を求めるのが普通でしょうから、ツライことを回避しようとして当然でしょう。
また、人には「自分の行動は自分自身で決めたい」という心理があるため、外圧により強制されると「反発を感じる」もの。
まさしく、「うっせぇわ」て気分になるので理不尽な要求などには従うものかって気分になります。
ただ、このような苦境を回避するすべがないか、長期的に見て回避することが益にならないと判断できる場合は問題です。
その場合はあえてその不快に甘んじることになります。
ただ、その際に自分の心が「不快だから回避する!」と抗っているのに対し、自制心で「いや、待て!ここで回避するともっと損失を被るぞ!」と対抗するとどんどん心が疲弊してしまいますな。
向かってくる反発を力で押し返したら、収集がつかないってことですわ。
こんな時にまずすべきことは、「『抗う自分がいる』ということに気付く」ということです。
自分自身の「心の有り様に気付くこと」なんですね。
自分事は「他人ごと」にしてしまえ
自分の心の状態に気が付けたなら、次にその気持ちを第三者的な視点から眺めることで自分の心の「不快感を押しのけようとする心理的反発」に対して対抗するのをやめることができます。
押してきた力に対して押し返すのをやめるってことです。
理不尽や苦境に陥ると自分の無力感を痛感したり、相手に対して強い怒りがわくかと思います。
そんな時に脱フュージョンを使うと冷静になれたりしますね。
脱フュージョンにはいろんなバリエーションがありますが、すぐにでもできる方法としては『わたしは~である」という考えを持っている事に気付いている』と表現するものがあります。
その具体的な手順は以下。
1:自分のネガティブな自己評価等を「わたしは~である」という形に表現しなおす
2:その思考が正しいと10秒間だけ自分に言い聞かせる
3,次に1の文章を「『わたしは~である』という考えを持っている」という形に表現しなおす
4,さらに今度は、「『わたしは~である』という考えを持っている、ということに気付いている」といいなおす
この一連の過程を経ることで、自分の感情等を冷静に捉えることができるようになったりします。
言ってみれば、「自分事を他人事としてとらえる作業」とも言えましょう。
この作業によって、自分へのネガティブな評価や自分の感じる負の感情といったものから自分を分離することができるんです。
例えば、あなたがいつも理不尽なことをする上司から急きょ明後日締め切りの急を要する仕事をやるよう指示されたとしましょう。
正直言って、ぶん殴って頭を地面に全力でたたきつけてやろうかってくらい腹が立つかもしれません。
でも、そのような怒りを感じたら、その怒りと自分を分離することで冷静になれます。
まず、自分の心境を表現。
「わたしは今上司に殺意を持つほどキレている」と心の中で唱えましょう。
次に、その考えが正しいと10秒間だけ言い聞かせます。
そして、次は「『わたしは今上司に殺意を持つほどキレている』という思考を持っている」といいなおしましょう。
で、最後に、「『わたしは今上司に殺意を持つほどキレている』という思考を持っている、という事に気付いている」といいなおします。
この一連の過程をへたら大分気分的に楽になっているのではないかなって思いますねえ。
まあ、それに怒りのピークは6秒間だとも言われてますしね。
さらに客観性を高めたければ、「わたしは~」の部分の「わたし」に自分の名前を入れてしまってもいいでしょう。
より一層他人事感がましますね。
もし、金太郎が「『金太郎はヒグマに相撲で負けて悔しくて憤死しそうだ、ということに気付いている」ってつぶやいていたら、
「おい、金太郎って、、、お前やん!」
て話になりますわね。
金太郎が自分のことを金太郎って表現しているのはなんか違和感を感じますよな?
これは普通の人達が、「金太郎の感情は金太郎だけが持っているものだ」という大前提を持っているからこそ生じる違和感といえるでしょう。
その場面では、「ヒグマに負けて悔しいと思っている金太郎」はどう考えてもその思いを吐露している金太郎ただ一人なので、常識的に考えれば金太郎は自身のことを「わたし」等と称するのが当然でしょう。
対象に名前を付けるというのは「その対象を他のものから区別しよう」とする行為です。
この事例の中で、金太郎があえて自分の事をわたしと称さず「金太郎」と称するのは、金太郎本人が自分の存在を何か別の金太郎と区別しようとしているように見えるはずですね。
常識的に考えたら、ヒグマに敗北を喫して悔しがっている金太郎は一人しかいないのに一体自分を何の金太郎と区別する必要があるのかなって違和感を感じてしまうでしょう。
金太郎という存在は常に一つだという認識があたりまえなんです。
しかし、人の意識の中にはデカルトさんの「われ思うゆえにわれあり」で表現されるような「思うわれ、つまり「自分自身を客観的に見ている自分」というものが存在しているのです。
なので、この事例において金太郎の中には「客観的に自分を観察する金太郎」と「悔しがる金太郎」がともに存在していることになります。
この「われ」は「自分の感じている感情」や「自分自身に対する評価(無能や有能等)」といったものに全く影響されないものなのね。
水と油といってもいいくらい全く交じり合わないものです。
ただ、負の感情等が激しくなってきたりすると、感情の方にばかり目が行きそのまじりあっていない事実に目がいかなくなります。
その時に、「『おもうわれ』と負の感情やネガティブな評価を=で結んでしまう」という事態が起こるのです。
これがフュージョン、つまり「融合」しているって状態です。
脱フュージョンではその「われ」と「感情や自分への評価」等との融合をといて明確に別のものであるととらえなおすのですよ。
なので、もし金太郎が改めて自分の名前を主語にした場合は、文中で述べられた「悔しいと感じた金太郎とその文を述べている金太郎は別の存在だと区別している」ということになります。
この時、金太郎は「金太郎は~」という文を唱えることで、「自分と自分の感情」を切り離しているわけです。
これは「金太郎の中の意識」が「金太郎の感情」を遠くから眺めて「あー、きんちゃん悔しがってんねえ~」て認識している状況なんですわ。
眺めている金太郎からしたら、悔しがって地団太踏んでいる金太郎の事なんて他人事だし自分には何も影響はないのです。
あえて「おもうわれ」としての立場から自分のことを名前で呼ぶことで、「自分の中にある感情や自己評価」の存在を強く意識してより効果的に融合状態をとくことができると思いますね。
落ち込んで「なんて自分は無能なんだ、、」と落ち込んでいる時にも、脱フュージョンは試してほしい方法です。
上述のように我慢という言葉が仏教的な文脈では、「我に執着して他を侮る」という意味だったなんて話がありましたが、ここでいう「我」というのは「感情や自己評価」ってことになりそうですね。
その「我」から離れることで、冷静になれるってことなんじゃないっすかねえ。
脱フュージョンって脱我慢なんだと思うねん。
なんか、凄く話が分かりにくいね、、、語彙力や論理力低くてサーセン。
また、書き直せたら書きなおしますわあ。
意味感も大事ではある
ここまで我慢なんて力で力を抑え込もうとするようなことだからせんほうがいいみたいな感じで話してきました。
しかし、そうはいっても中々脱フュージョンを上手に使いこなせるようにはなれないでしょう。
そこでもう一つだけ提案。
我慢の苦痛を軽減するものとして「意味感をもつ」というものがありましてん。
意味感を持つと逆境に強くなれるでしょう。
結構べたな方法かもしれませんが、自分の置かれている状況を悲観してしまうのではなくその状況に「何らかの意味を見出す」のです。
逆境に強い人はこういった意味感を見出すのが上手いんですね。
ただの理不尽みたいなものも解釈の仕方によっては、自分にとって有益な物事となるかもしれません。
少なくとも、「何で自分がこんな目に、、、」とか「なんてこんなことやらされなきゃならんのだ、、」みたいな感じにならないようにしたいもんです。
一応他にも逆境に強い人の特徴についてまとめてあるんで参考までにどうぞ。
あと、自分のやっていることに意味感を見出すにあたっては自分が人生で何を大事にしたいかに気付くことも大事でしょう。
自分が人生に何を求めているかを探求してみたいって人は、以下の記事が参考になると思うんでよかったらどうぞ。
おわりに
この記事は「我慢や忍耐、辛抱は意味ない?ストレスの元凶?「何事も受け入れて受け流す」」と題しておおくりしました。
我慢とは、自分の心からの反発を自制心の働きによって封じようとするものといえます。
これでは「力を力で抑え込む」様な図式になるので、
色々な葛藤が生じる元凶になると思うんですね。
そんな時は脱フュージョンを試してみてくださいな。
我慢するのではなく「我への執着から離れてみる」のがおすすめです。
我慢するのではなくさらっと何事も受け流せたらいいよねえ。
では!
参考記事等
「自分に優しくする方法」セルフコンパッション活用で脱完璧主義!
不屈の精神を持つ人になる習慣7選。レジリエンスを高め敵襲に備えよ!
「不屈の精神をもつ人の特徴」絶望にも逆境にも決して負けない!
参考
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%88%91%E6%85%A2/
参考記事等