「今となっては優生思想なんて公に堂々と言えるような風潮じゃないし、わたしもそんな考えには賛同しかねる、、、けど、、、絶対優生思想支持者ってかなりいそうな気がするんだよな、、、。」
ふむ、この間あのメンタリストのダイゴさんがホームレスや生活保護の人達は生産性が低いから、彼彼女らの命はどうでもいいって感じの事言ってったわな。
現状の世論のせいで公言できないだけで、未だにかなり優生思想支持者がいるって気がする。
ダイゴさんは氷山の一角だろうさ。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「「沈黙の螺旋理論」社会は優生思想を語る悪魔の代弁者に備えよ」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
・世論はどう形成されるのか気になる人
・沈黙の螺旋理論について気になる人
・話のネタが欲しい人等
「沈黙の螺旋」なんて聞くと、「ん?何かのバトル漫画の必殺技??」等と思う人が結構出てきそうな感じがしますがこれは必殺技ではありません。
沈黙の螺旋理論とは「世論形成についての理論」です。
つい最近、あのメンタリストのダイゴさんが「ホームレスの命なんてどうでもいい」等と優生思想に直結しそうなことを言っていて問題になっていましたが、今の世論の動向を考えたらあのような考えを公に表明する人はまずいません。
また影響力のある人があのような公共の福祉に真っ向から挑戦する考えを表明した場合、「個人の意見だから勝手に言わせておけばいい」等という次元ではないので社会全体として改めて憲法が保障している「人権」について再考したりその重要性を国等が表明する必要があるってことになるでしょう。
でないと、いつかまた優生思想が台頭してそれが多数派になる時代が来るかもしれないって思います。
確かなことは言えませんけどね。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
1、沈黙の螺旋理論って何ぞ?
沈黙の螺旋理論とはドイツの政治学者であるノエル=ノイマンさんによって唱えられた
「マスメディアを通じて個人が多数派と認識する世論が形成され、そのような世論が同調への圧力を持つ」
という理論です。
この理論仮説では、「世論とはある政治的意見が人々の耳に聞こえるよにり多数派形成が進む」という前提から出発します。
そして対立する2派、ないし3派以上がそれぞれ自説を主張する中で、いずれが多数派として認識されるかが重要な契機になるそうです。
ちなみに直感的にもわかることですが、自派が多数らしいと認識した意見を持つ人々は自説を主張しやすい一方で、劣勢であると認識した意見を支持する人々はその意見を表明しにくいんですね。
なぜこんなことが起こるかと言えば、それは同調圧力のです。
劣勢とされる意見を支持する人々は自分たちの意見を表明することで、孤立する可能性があるのでそれを恐れて沈黙を保つようになります。
この状態が繰り返されると(螺旋過程)、もともとその支持率の差がわずかであったとしても結果的に多数派の声が螺旋が収束するようにますます増大していくのだそうです。
ただその一方で、この理論では「声ある少数派」の存在についても説明しています。
「声ある少数派」が存在するのは隔離への恐怖をあまり感じない人々が少数ながら常に存在するからだそうで、この理論ではそういった人々を「世論への挑戦者」と呼ばれている模様。
そして沈黙の螺旋理論によると、従順な多数派が安定のために必須であるのと同様、これら少数派は変革のために必須な存在であるとされており両者とも進化の産物だといいます。
ダイゴさんはこの「声ある少数派」であったという事なんでしょうな、一応。
ただしこの沈黙の螺旋理論は以下の点から批判の対象とされている模様。
- 古典的な同調行動の実験をそのまま社会全体の変動に当てはめている
- 異質な意見との間のデリバレーション過程を無視している
- コンセンサスやヒューリスティックなどといった認知過程を念頭に置いていない
※デリバレーションとは自分の議論に磨きがかかること。
※コンセンサスとは意見の一致、合意の事。
※ヒューリスティックとは、ある程度正解に近い解を見つけ出すための経験則や発見方法のこと。「発見法」とも呼ばれる。
少数派は不滅です!
上述のように沈黙の螺旋理論によれば、多数派の意見は次第に増大していきますがそれでも少数派が消えてなくなり多数派一色にはならないものです。
この理由には上述した「隔離を気にしない人」の存在もあるのでしょうが、それ以外にも理由はあるでしょう。
例えば複数のエージェントを使った仮想実験であるマルチエージェントシミュレーションという手法を用いた政治学者のアクセルロッドさんによる研究では以下の様な事が示唆された模様。
- 大きなネットワーク内の広い範囲で同質的な意見が支配的になる「等質化」が起きる
- 多くの条件下で、「少数派が残存する」
※エージェントとは、自分の周囲の状況を認識してそれに基づき、一定のルールのもとで自律的に行動する主体のこと。例えば人や生物などはエージェントの一種と言える。
参考
The Dissemination of Culture: A Model with Local Convergence and Global Polarization
また社会心理学者の安野智子さんが現実社会において行った調査によると、「少数派の人を支えているのは少数派の人同士である」といいます。
彼ら彼女らは相互に自分たちの立場を強化しあって外部からの影響を比較的受けようとはしにくく、自身たちが少数派だとは思っていないのだとか。
参考
これを最近話題になったダイゴさんの優生思想に直結しそうな考え方に適用した場合、断言はできないもののダイゴさんのユーチューブのチャットや切り抜き動画のコメント欄、彼の構築したコミュニティーがこのような考え方を増幅し相互に強化しあうある種の装置として機能していた可能性があるかもしれません。
少数派が多数派を押し返すこともある
今となってはナチスの先例等もあり「優生思想は許されない」という風潮ですが、正直油断しているといつまた優生思想が勢いを盛り返すかはわからないものです。
歴史上、少数派が多数派を覆してきた事例があるのは事実ですしね。
例えば、プロテスタントの始祖であるマルティン=ルターさんも最初は少数派の指導者に過ぎませんでした。
しかし今となってはプロテスタントはローマカトリックに対抗できるくらいの勢力にまで成長しています。
なお沈黙の螺旋を克服する方法の一つとして、議論の中において「多数派にあえて反対する悪魔の代弁者」を用意すること」があるといいます。
悪魔の代弁者がいることで、グループ内の他のメンバーも多数派に気兼ねすることなく自由に発想し意見が言えるようになるとのことです。
これを今回のダイゴさんの騒動で問題となった「優生思想」について、適応していくと結構現状の日本で恐ろしいことが起こっているのではないかってことが推察されます。
今回の騒動でダイゴさんは一応は自身の考えを改める旨を述べ謝罪をするに至ったわけですが、彼が一貫して「こんなの個人の感想だろ。とやかく言われる覚えはない!」みたいな姿勢を貫徹したら、社会における優生思想の勢いがかなり強まったのではないかと思われます。
今や彼の持つ世論に与える影響力は相当なものですからね。
彼程の影響力を持つ人が、悪魔の代弁者となったら相当な危険がありますよな。
正直、謝罪が行われてもそうそうその思想の根幹が変わらないと解釈するのが通常の感覚でしょうから、今後彼の発言によって自分を正当化できるとの確信を持った優生思想信奉者が何らかの形でいわゆる社会的弱者に対して攻撃を加える危険性は残存しているといえると思います。
人によっては今回の一連の騒動で「表現の自由があるのだからダイゴが何言ってもいいだろ」という人がいるかもしれませんが、憲法の中に「公共の福祉」という概念があることを忘れてはいけません。
公共の福祉を明確に害するであろう発言に対しては一定の制限が加えられても、個人的には仕方ない場合もあろうとは思いますね。
まあ制限の内容や程度に関しては個人の自由の制限と守られるべき法益等を比較衡量する必要がありますから、一筋縄ではいかないでしょうけども。
そして優生思想と言えば、あのやまゆり園の惨劇の首謀者である植松被告がいますが、彼は自分の考え方を現状全く曲げていませんしむしろ「自分は正義の執行者気取り」でいます。
普通は「死刑にされるかも、、、」等と思ったら、恐怖心から命乞いというか少し悔い改める姿勢を見せるものですが彼の場合は全くそれがなさそうなのがさらに質が悪いんですね。
もはやいうなれば、宗教でいうところの殉教に近い状態と言っても過言ではないかもしれません。
宗教というと神を想定したユダヤ教やキリスト教といったものを想像する人が多いでしょうが、個人の信念も広義には宗教の一種と言っていいかもしれません。
植松被告を見ていると、どうも「自分の死によって自分の信念の正当性を証明してやる」くらいの気持ちがありそうなきがします。
強力な信念を奉じそれに殉じて死んでいったものに強力なカリスマ性を感じる人も一定数いるものです。
宗教において「教祖の死」は非常に重大な意味を持つと思います。
かつてキリストがゴルゴダの丘で処刑され葬られたその3日後に復活を遂げたなんて話もありますが、あれで彼はある意味「神格を得た」と言ってもいいと思うんです。
「強い信念を奉じ死の恐怖に怯むことなくその信念に殉じた」という事実は良くも悪くも人に強烈なインパクトを残しますし、そこに何らかの正当性をも見出してしまうことがあるでしょう。
なので、不謹慎かつ不適当な考え方かもしれませんが、植松被告はある意味自分の信念に準じることで「神になろうとしている」のかもしれません。
なので個人的には「植松被告に司法は何としても自分の非を認めさせないといけない」とは思ったりします。
もしそれが無理なら学術的に彼の考えを分析し彼の考えがどれほど科学的に逸脱したものかを証明したり、徹底的にぐーのねもでない程に論破してそれを世間に公表する必要があるかもしれません。
でないと、彼の優生思想に共鳴する後続が後に大量に発生するなんてことがありそうです。
「植松被告の死をもって彼を教祖とするある種の宗教が出現する」可能性もゼロではないという事ですな。
ちなみに同様の主張を元アウトロー系ユーチューバーの懲役太郎さんが発信していましたね。
悪魔の代弁者が多数派を覆す危険性は常にあります。
今の「人の命は等しく尊い」がいつ「生産性のないものは殺していい」に変わるかはわからんという事です。
なので社会にこういった「悪魔の代弁者」が現れたら、権力を持つ政府や影響力を持つ個人や団体等はその都度しっかりと「それは認めないし許されない!」という姿勢を強力に打ち出し繰り返し繰り返しその旨を表明し現状の人権尊重の必要性を説き多数派を維持し続けないといけないってことなんでしょう。
そういった意味ではダイゴさんの騒動の直後に、厚生労働省がツイッターにて「生活保護は国民の権利である」旨を投稿したのは実に素晴らしい対応だといえるでしょうな。
ただ明らかに更生の余地がなく、かつ失われる法益(例えば人命)が大きすぎるような場合を除いて、基本的には失態を犯しても立ち直る機会が与えられる社会だったほうがいいとも思うので、ダイゴさんに対して「二度と社会の表舞台に立つべきではない」みたいな論調には首をかしげてしまいますな。
おわりに
この記事は「「沈黙の螺旋」多数派がどんなに幅を利かせても少数派は不滅である」と題しておおくりしました。
今回は世論形成に関する理論である沈黙の螺旋理論について紹介しつつ、最近発生したダイゴさんの「ホームレスの命はどうでもいい」といった趣旨の発言の影響力等について考えてみた次第。
いつ少数派が多数派を打ち破って多数派になるかはわからないものです。
今のこの人権尊重の機運や世論は、私たちの先祖が血を流した戦いの歴史の上にあるものと言えます。
この世論が多数派であり続けられるようにするには、普段の努力と警戒がこれからも必要ってことでしょう。
ちゃんと守っていきたいものです。
では!
参考
https://www.weblio.jp/content/%E6%B2%88%E9%BB%99%E3%81%AE%E8%9E%BA%E6%97%8B%E7%90%86%E8%AB%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%BB%99%E3%81%AE%E8%9E%BA%E6%97%8B
参考記事等