「正直、言葉なんかに意味なんてないよね。結局、言葉をどう解釈するかはその人次第だもん。人間には自由意思ってものがあるしな。どう解釈するかはその人次第よ。」
ふぬ、まあ、わからんでもない。
ただ、もしかしたら、自由意思なんてものは存在しないかもしれないぞ?
しらんけど。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「言葉なんかに意味はないし、人には自由意思なんてものはない??」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
- 言葉と言うものについて少し思考を深めてみたい人等
はい、今回は内容が面倒くさくなる予感がしております。
少なくとも飛ばし読みに適さないような記事になりそうな予感というか悪寒がしていますね。
あなたはスキナーさんという心理学者を知ってますか?
この方の理屈で言語や行動といったものを考えていくと、およそ私たちの共有する常識からはかなり外れた結論に行きつきます。
ええ、「単語や文自体には意味はない」とか「人に自由意思なんてものはない」って感じのものです。
多分、常識で考えたら「は!?」て感じですよね?
さて、何でこんな異様な結論が出てしまうんでしょうか?
少し今回はここに踏み込んでまいりたい。
この記事は熊野宏昭さん著「新世代の認知行動療法」を参考にしています。
なお、わたしの力不足により本記事の内容に間違った理解もあるかもしれません。
それが気になる方は各自上掲の参考文献等で改めて確認するようお願いしますねえ。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
言語行動ってなあに
わたし達は言葉によって自分の意思や思想、感情を表現したり、また理解することができます。
このような言葉を用いた一連の行動を「言語行動」って言いますね。
まあ、文字通り「言語を用いた行動」って感じです。
で、言語行動は「どのような機能に注目するか」によって、いろんな捉え方ができます。
その一つが、臨床行動分析学が必ず視野に入れる「ルール支配行動」というものです。
言語行動を考える際には、「話し手と聞き手の特徴」に分けて考えるとわかりやすいことがあり、この「ルール支配行動」は「言語が聞き手に対して持つ機能を強調する概念」となっています。
もう少し具体的にルール支配行動についていうと、ルール支配行動では
「強化随伴性を記述した言語刺激(ルール)により非言語行動がコントロールされる」
んです。
、、、意味わからんよね、、、。
要は凄く大雑把に言うと、
「『~すると~という結果が起こってとてもいいですよ!』といった記述を読んで、「へー、じゃあってみようか」と自発的に実際に行動する」
て感じのものです。
うん、例えば、あなたの趣味が料理だったとしましょう。
で、「今日は何を作ろうかな」と思っておもむろにクックパッドで何か未知のメニューを検索して、実際にクックパッドの記述通りに今までやったことがない工程を経て作ってみたとします。
これも立派なルール支配行動です。
要は、実際に本を読んで何か学びを得て経験したことのない事を自発的に実際にしてみるという「血肉になる学習」というものがルール支配行動にあたるといえるでしょう。
なので、人間の学習の大部分がこのルール支配行動の形式をっているといえます。
しかし、間違ったルールを持つと社会等の環境に適応できない場合も起きてきますね。
例えば、「自分は人と目を合わせて話をすると気持ちが悪くなる。だけど、下を向いて話せば平気」と思っているとしましょう。
これでは多くの場合人から不審に思われて、中々社会生活が上手くいかないかもしれませんね。
だとすると、あえて人の目を見るようにしてみるとか、それ以外にも種々のストレス緩和策等を講じたりしてこの不適応なル―ルを変更していくことも必要かもしれません。
このように言語行動を「どの立場、どの機能から」見るかによって、色んな考え方ができるんですね。
実に奥が深いといえます。
単語や分自体に意味はない?
さて、言語行動は捉え方によってさまざまに定義できるといいました。
先ほどは「言語が聞き手に対して持つ機能を強調した」ルール支配行動について見ましたが、ここでは心理学者のスキナーさんが考えた言語行動について見てみたいと思います。
※バラス・フレデリック・スキナーはアメリカの心理学者であり行動分析学の創始者。自らの立場を徹底的行動主義者と称した。
なおここは地味に大事な点ですが、スキナーさんは「言語的に行動するのは話し手だけである」と「言語行動の概念を話し手に限定」しています。
今回の記事の本丸はここからです!!
はい、余談はいいとして、スキナーさんは一体言語行動をどう定義していたんでしょうか?
スキナーさんによると、言語行動とは、、
「同じ言語共同体に属するオペラント行動を介した強化によって形成・維持されているオペラント行動。そして、他の成員による強化をもたらすオペラント行動は、その言語共同体特有の行動随伴性のもとでオペラント条件付けされたものである。」
熊野宏昭著「新世代の認知行動療法」p159より引用
、、、だそうです。
んー、、、
「いくら(怒)『ばーぶー!!』」て感じですね。
もう意味が分かりません(笑)。
説明する気あんのかよってくらいわからんですな。
まあ、すんごくざっくり概略を言うと、
「言語行動ってのは、言語を発した人がとった行為の直接的な結果じゃのうて、他者の振る舞い方によって間接的に促進される行動でやんす」
て感じでしょうかね。
すんませんね、雑で。
要は、スキナーさんは言語行動を「言語発話者が他者から何らかの外部刺激を受けることで生じる行動だ」って言いたいみたいなきがしますなあ。
そしてスキナーさんは言語行動を、行動の「形態と特質」、「先行する事象とその結果との関係」によって以下のように分類しています。
- マンド(要求言語行動)
- タクト(報告言語行動)
- エコーイック(音声模倣行動)
- イントラバーバル
- オートクリティック
以下簡単にそれぞれについて補足しますねえ。
マンド(要求言語行動)
語源は demand(要求)。
話者が聞き手に対し何かを要求(依頼、命令)する機能のこと。
例:水が欲しい、花が欲しい、ドラえもんが欲しい等。
・タクト(報告言語行動)
contact が語源。
タクトは他者に対する報告として機能する言語行動のこと。
例;これは犬!、これはぬこ!、これはオタク!等。
・エコーイック(音声模倣行動)
エコーイックは英語の「echoic(こだまのような, 反響性の)」のカタカナ読み。
誰かの発声を真似てできるだけ同じように発音する行動のこと。
いわゆるオウム返しのことである。
イントラバーバル
ある言葉が発せられた後に(もしくは文字として表示された後に)何らかの関係のある別の言葉を発する行動のこと。
連想や知識といったものがこれに相当する。
例、「一、二、、、」といったのに対して「三」と答える、相手の質問に答える等。
・オートクリティック
杉山他(1998、284 頁~)によると、オートクリティックの語源はAuto(自分で)+ clitic(寄りかかる)にあり、「自分の言語行動に寄りかかった言語行動」と定義される。
オートクリティックは言語行動の一部であり、話し手自身の別の言語行動に支配されておりその別の言語行動を変容するものである。
例えば、「~かもしれない」、「~だそうだ」、「全ての~」等がオートクリティックに相当する。
仮に、「これはタヌキ『かもしれない』」という文があったら、「かもしれない」によって「これはタヌキ」という言語行動が変化させられている。
「かもしれない」によって「これ」が「タヌキ」ではなくて「ドラえもん」である可能性も生まれているのである。
以上のように言語を機能によって分類すると、思いもかけないことが起こります。
例えば、花が欲しい人が「花がほしい!」という事ができても、咲いている何がしかの花をみて「これは花だね!」みたいに言えるとは限らいないってことが起こるのです。
上記の専門用語を用いるなら、「マンドとして「花!」といえる人がタクトとして「花!」といえるとは限らない」訳ね。
で、このような考えを推し進めていくと最終的には、「単語や文それ自体には意味はない」なんていう結論に落ち着くんですね。
要は、「単語や文だけでなくそれが発せられた状況や言語行動が特定されねば、意味なんてわかりゃしねえ」てことになるのですわ。
ま、雑に言うと「単語や文それ自体より文脈が大事だよね!」て感じかな?
んー、頭いてえ!
人にあるという自由意思は幻想だって?
よく自己啓発系の人達は、「人間には自由意思がある!!」みたいに人は自分自身の意思によって人生をいかようにでも切り開けるような主張をします。
ただ、スキナーさんのように言語行動をとらえた場合、「人に自由意思なんてもんはねえよ、タコ」みたいな話になりますな。
まあ、一聴すると「は!?」て感じの主張ですよね。
で、実は、言語行動をスキナーさんの言うように解釈すると、「私的出来事としての認知や意識も行動である」といえます。
なので、学者の方の中には「意識といわれるものは私的出来事に関する言語行動(内言)である」なんていう人もいるんです。
で、例えばなんですが、あなたが「手を上げよう」と思い何らかの意図によって手をあげたとしますね。
この行動の原因は何でどういう過程をへて手をあげたのでしょうか?
これは以下のように説明できます。
内言した言語行動として「手をあげよう」と言う事=自分自身に「手をあげろ」とマンドする事
↓
「手をあげろ」とマンドして手があがるのは、言語刺激による刺激性制御
↓
「手をあげよう」という内言としての言語行動の原因となった制御変数は公的環境内に求められる
↓
「手があがった真の原因」は私的出来事ではない
↓
手があがったのは自由意思のせいではない
まあ、すんごく雑に言うと、「人は刺激に対して反応しているだけだぜ」みたいにも言えそうですね。
よくいいますよね、「自分の考え方が本当に自分によってなされているものなのか?誰かの影響を受けた結果ではないのか?」なんて。
まあ、あれと同じとまでは言いませんが、やはり人間は環境から絶えず刺激を受けてそれに対して反応し変化をしているという事は間違いないでしょう。
「これは俺の意思だ!!」と断言しても、実は「無意識だったが他人からの受け売りだった」なんてこともあるかもしれません。
常識的にはこうした行動分析学視点での人間のとらえ方には、抵抗を覚える人が多いでしょうけども、「自分の行動を適応的に変えていく」という視点からは非常に重要なものです。
わたしが当ブログでなしている「人を一つのシステムとしてとらえる」とか「無償の愛は論理破綻しているので存在しえない」といった発言も主にこの見地からの発言になります。
こうした分析的な視点は、人間関係や個人の行動を客観的に考える上では非常に有用なんです。
取り入れてみて損はないですぞ。
おわりに
この記事は「言葉なんかに意味はないし、人には自由意思なんてものはない??」と題しておおくりしました。
今回は結構わかりにくいしタフな内容になってしまった気がしますねえ。
ふう、、、久々に疲れ申した。
まあ、今回取り上げたスキナーさんのように言語行動というものをとらえることで、自分の意識や感情というものを冷静かつモノとして客観的に扱う思考が身につくと思います。
そのような思考は一見、無味乾燥で非人間的、非情緒的ですが、自分の感情をしずめたり行動を成している適応的に変える際には非常に役に立つんです。
感情的になりやすい人は参考にしてみてもいいと思うんですよねえ。
とりあえず、わたしは知恵熱が出たのでもう寝ますね。
では!
参考
熊野宏昭著「新世代の認知行動療法」
http://www.hasep.sakura.ne.jp/behavior_analysis_hasegawa/Chap06.pdf
参考記事等