「わたしの知り合いにすんごい正義感が強い人がいるんだけど、なんだか異常性を感じるね。何というか、少しでも自分の中の正義に照らして曲がっていることは許せないって感じでちょっとあれはどうなんだろうな。ちょっとあたおかって感じがしちゃうよなあ。なんでもっと冷静になれないのか。」
ふむ、まあいるんよなあ。
正義感が強いせいでかえって迷惑な人って。
ふう。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「悪に対し過剰反応する心は健全どころかむしろ不健全な気がするよね」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
・あまりに正義感が強いのはかえって不健全なのではないかと思う人
・正義感が強すぎる人が周りにいてうっとおしい人
「正義感」と言うと一般にはいいイメージがあるように思われますが、「正義感の強い人」というとどんなイメージでしょうか?
どうも、最近は正義感が強い人というとあんまりいいイメージではないかもしれません。
というのも、コロナが流行してから自粛警察とかマスク警察なんて変な人たちが出現しましたからね。
それにツイッターなんかを見ていても「自分が悪だと感じるものに対してはどんなひどいことをやってもいいんだ」みたいなちょっとこの法治国家の住人にあるまじき事をやっている人たちも散見されます。
ああいった人たちを見ていると、「正義って一体なんだろうか?」みたいなもやもやした気持ちになりますね。
あんな風に「自分の中の正義」を押し通したりしようとするのは、いささか歪んだ心による行為に見えてしまいますよなあ。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
正義感って一体何なんだろう?
まずは、正義感という言葉の意味を少しだけ確認してみたいと思います。
辞書によると正義感とは以下の様な意味である模様。
不正を憎み、正義を尊ぶ気持ち。「―に燃える」
引用
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E6%84%9F/
んー、何も目新しい発見はないですなあ。
ただまあ、「不正を憎む」とか「正義というものを重んじ大切にする」というのは基本的にはいいことですね。
それは間違いない。
ただ、、、「何を持って正不正とするのか?」はかなり問題ではありますな。
少なくとも、この世界に絶対的正義はないでしょうから、あるとすれば「相対的正義」だけでしょう。
で、一応、ここ日本において一番正不正の判断基準になりそうなものとしては、憲法にある「公共の福祉」という概念がある気がします。
正直、わたしは憲法の専門家ではないので、とてもじゃないけど詳細かつ正確には述べられませんが、公共の福祉とは大雑把に言うと「国民個々人の利益が調和された結果として成立する全体としての利益」と言った感じですかね。
例えば国民それぞれには幸福を追求する権利があるわけですが、その権利の行使によって他人の生命や財産と言った権利を侵害するとあってはお互いの利益の調和が取れません。
こういったものは完全に権利の乱用です。
つまり、程度の問題はあるとしても、基本的に「自分の権利の行使は相手の権利を侵害しない程度でしか許容されない」って話になります。
人間関係の与え与えられのバランスみたいな感じですなあ。
正直、正義にはいろんなものがあるでしょうが、ここ日本における正義というと公共の福祉が相当しそうな気はしますなあ。
悪に対する過剰な潔癖は不健全な心の表れ?
悪を憎む心を誰も持っていないなら、「自分が得をするためなら何でもすればいい」という風潮になるのでもう安心して暮らしていけませんねえ。
なので、住みよい社会であるためには正義感というものは必要だとは言えます。
ま、過去の記事で「何が正義かなんかにいちいちとらわれなくていい!」みたいなこと言いましたけども、あれはあまりに正しさみたいなものにとらわれて息苦しくなっている人に向けてのメッセージという感じです。
なので、現実社会にも広く適用すべき話って事じゃあないですな。
言い訳がましいけども、実際そうなので一応この際言っておきます。
で、話を戻しますが、誰しも心の中で「良からぬ感情を持つ事」はあるものですし場合によってはそれが多少表面化することもあるでしょう。
法に明らかに触れるようなレベルのものはもう論外として、モラルの範囲内で「ちょっとこれはねえ、、、」みたいなことは誰もが気をつけていても「絶対にしない」とは言えないものです。
なので、あまりに微に入り細にわたり「ほんの少しの悪であっても見つけたら激しく糾弾する」というのはどうなんだろうなって印象ではあります。
それこそやんわりと相手の言い分も聞いて自分の意見も言うとかならまだしも、「~するなんて許されないぞ!」みたいに食って掛かるのはちょっといくら何でも攻撃的すぎやしないかって気がしますね。
こういった人は、「自分は絶対に悪を犯さない」という自信でもあるのでしょうか?
いろいろな解釈があると思いますが、悪に対して潔癖すぎるのは以下のようなものが原因なのかもしれませんねえ。
- 自分の中にある悪を許すことができず、自分の中にある悪と同様の悪を見ると攻撃したくなる(投影)
- 自分への思いやりが不足し自分の不完全性を許容できていない
- メタ認知が不足しており感情的になりやすい
ちょっとした悪であっても許せないという人は、もっと感情をコントロールできるようになった方がいいのではないかって気がします。
もちろんこれは他人事ではないので、わたしも自戒したいものです。
ということで、先ほどあげた3つを解消するために役立ちそうな記事を置いときます。
一緒に感情的になるのを予防しておきましょう。
悪に対しては何をしてもいいのか?
悪を憎む心の根源は、共感性や協調性かもしれません。
以前取り上げたシャーデンフロイデは主に嫉妬による感情でしたが、集団利益を侵害する悪に対する処罰感情ともいえるでしょう。
このシャーデンフロイデの原動力の一つに協調性があるとみていいのではないかと思いますな。
シャーデンフロイデについて詳しくは以下。
で、ここからはほぼ余談ですが、そもそも悪を憎むのはいいとして「悪を働いたものに対しては何をしてもいい」と言った暴論は成立しませんし、それを許容するとなるともう無茶苦茶です。
感情的になった人々は「悪とされる標的」に一目散に凄惨な一撃を見舞うでしょう。
そしてそれが至る所で勃発すると収拾がつかなくなるでしょうなあ、、、。
そういった混乱を防ぐために、実力行使で問題を解決するとか私刑と言ったものが禁じられており法を犯した者に対しては個人に代わって国が罰するという仕組みができているんですな。
こういった仕組みには個人的に多少モヤモヤする所もありますが、これがもし「私的に制裁していいぞ」って話になるとそれこそ当事者同士は感情的になっているため何が起こるかわかりません。
例えばですが、パン屋のおじさんが「パンを盗んだ窃盗犯が憎いから殺す」みたいな話も起こりうるわけです(極論過ぎてすまぬ)。
「窃盗したら命を奪われる」っていうのは、果たして適当なんでしょうか?
実際、この手の量刑と犯した罪の均衡というのは刑法の歴史の中で長い事議論されてきた一大テーマです。
このまま刑法の歴史っぽいものを一介の元法学徒が延々と語っても仕方ないのでここらでやめにします。
これまでの刑法の歴史において、「悪をいかにさばきどう予防するか」といった事はかなり検討され社会実験も行われてきているってことですな。
私刑なんて認めたらそれこそ悪い意味での先祖返りですわね。
悪を憎めども、その感情の扱い方には注意が必要だって思いますなあ。
、、、、まあすごくこれって難しい事なんですけどねえ。
おわりに
この記事は「悪に対し過剰反応する心は健全どころかむしろ不健全な気がするよね」と題しておおくりしました。
悪を憎む心を持つ事は基本的にはいいことだとは思いますが、その心はきちんと冷静に制御していかないとけません。
正義感が暴走してもいい結果を生むことはないでしょうからね。
感情はいつも制御していきたいものですなあ。
わたしも頑張らないとねえ。
では!
参考記事等
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