「わたしさ、なにかって言うとすぐ傷つくからさ。傷ついた分だけ優しくなれるっていう言葉が結構すくいだったりするんだ、、、。まあ、傷ついても優しくなれるんならいいんじゃないかなって思う、、、。私は傷つく度につらいおもいをしているから、辛い人がそこにいたら助けてあげられるような優しい人になりたいって思う。優しい人って沢山傷ついて人の痛みを知っている人だもんね。なれるよね、わたし、、、。」
はあ、、せやね。
しかしね、同じ物事でも「とらえ方次第」で思考はどうとでも変化するし、そもそもひとによって感受性には差があるぞい。
オニギリス!
脱マンネリストのオニギリです!
今回もよろしゅう!1
今回の話題は「傷ついた分だけ優しくなれるは気休めだ」という話です。
結構、聞きますね?
「傷ついた分だけ優しくなれる」とか、、、。
まあ、本当は「傷ついたのは無駄ではない」とでも言いたいんだろうけど、なーんか、こういう過度の一般化は気持ち悪い。
「傷ついても優しくなる」とは限りません。
そして、そもそも「優しさ」は何のためにあるのか?
「優しいだけ」でいいのか、、、、どうでしょう?
あなたは
「自分のように傷つく人を少しでも減らしたい」
とか
「自分のように傷ついている人のために優しくしてあげたい」
とか、そんな理由で優しさが必要だとおもっているのではないでしょうか?
もしそうなら、「優しいだけではだめ」です。
同時に強くないと。
その場合大事なのは、「傷つかないメンタルの育成やスル―スキルを習得する」ないし、「傷ついた経験から何を学んで今後にどう役立てていくか」という視点でしょう。
優しさだけで何かができるわけはないんです。
てか、そもそも「優しさ」ってなんでしょう?
ちょいと、一考の価値ありって感じですね。
なお、自分に優しくなる方法についてはリンクからどうぞ。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
1、傷ついても優しくなるとは限らない
はい、世の中には当たり前ですが、いろんな人がいます。
みんながみんなあなたのように「感受性が豊かで人の痛みや自分の痛みに敏感ではない」のです。
そして、物事に対する興味も性格も違っていますよね。
例えば、有名な歴史上の逸話に保元の乱の際、平清盛が源頼朝を処刑せず、伊豆に流刑にしたというのがあります。
そもそも、平治の乱は二条天皇親政派と後白河院征派との
この時、源頼朝と義経の父である義朝は二条天皇側に平清盛は後白河上皇側についていました。
結果は、後白河側の勝利。
当然、敗軍の将である源義朝は賊です。
なので、その息子である頼朝は賊群の将の息子、、、、そう、処刑相当でした。
当初、清盛は頼朝を処刑する気でいましたが、その当時頼朝は13歳。
これを見て清盛の継母である池禅尼が清盛に頼朝の助命を願い出るのです。
その結果、頼朝は伊豆へと島流し、、、、。
さて、ハッピーエンドか、、、と思いきやこれでは終わってくれません。
あなたも知っての通り、その後頼朝は平家を打倒して鎌倉幕府を作るんですよね。
さあ、あなたはこの清盛の助命という判断に対して何を思うでしょうか?
「おごり高ぶりによる慢心?」
「人情のある英断?」
「愚かな自滅行為?」
それとも、「戦なんかがあるからこんな悲劇が起こるんだ」と嘆いておしまい?
、、、おそらく、人によっていろんな考え方があるはずです。
そう、興味や性格、感受性等々、、、様々な要素によって多様な考え方があるはず。
同じ事実に対してさえ、「誰も同じ考え方はしない」って話。
だから、傷ついたって「優しくなろうとする」とは限りません。
例え、ひどいいじめをうけて仮に「同じ程度の心の傷を負った」としても、その経験から
「わたしはいじめは絶対に許さない。こんなひどいことが許されていいはずがない!いじめられている人がいたら絶対に助けるんだ!」
と考えるのか
「そうか、力こそが世界の全てなんだ。強ければどんな理不尽も許されるんだ。だったら、わたしは究極まで強くなって、世界の全員を屈服させて奴隷にしてやる!人権なんてくそくらえ!」
と考えるようになるのかは分からないのです。
同じ様な経験や心の痛みから何を学ぶかは人によって違いますね。
2、傷ついても優しくなるとは限らない
では、どんな人が傷ついても優しくならない可能性が高いのでしょうか?
これは、、、正直な話一概に「こういったひとがなりやすい!」とは言えません。
また、無責任にレッテルを貼りたいとも思わない、、、。
とはいえ、やはり決定的と言えそうなことに心当たりはありますね。
それはさっきから言っている「感受性」、つまりは「強い共感性」です。
ちなみに共感性には2種類あり、一般に言われるタイプの共感は脳における「熱い認知」のよるもの、もう一つは「冷たい認知」によるものなんですね。
優しくなりやすい人の持つ共感性は「熱い認知」に由来するものです。
ただし、熱い認知が優位すぎると「人の痛みを自分の痛みとして感じる」という話になります。
でも、実際に感じているのは「自分で勝手に想像した相手の痛み」であって、「相手の痛みそのものではない」のです。
なので、「わたしは人の痛みを感じる」というのは厳密には勘違い。
しかし、勘違いとはいえ「人の苦しみ」に関心が向きやすいため、「他人を苦しめないようにしよう」という動機が生まれやすいと言えます。
一方で、冷たい認知優位の人は「相手の立場や状況から心情を分析推測する」ので、情に流されず相手の意図を正しく読み取れ正しく相手の要望にこたえられますが、その反面割り切るのも早いですね。
場合によっては「傷つくときは傷つく、そんなもんだ。それはそれで仕方がない」みたいにクールに考えたりするでしょう。
この冷たい認知に関してはカウンセラーになるとかであれば、絶対に有意であるべきだと個人的には思っています。
熱い認知優位だと「依頼者と一緒に泣く」とか言う無様なカウンセラーになりそうです、、、、。
事実、ロジャースの3原則という傾聴の原則にもそれが示唆されていますね。
傾聴についてはこちらからどうぞ。
3、まやかしのハッピーエンドより現実をみよう
あなたは「傷ついた分だけ優しくなれる」という言葉から、どんなメッセージをもらってきたでしょうか?
もしかして、
「傷ついた分、後でいい事がある」
という方向で解釈してましたか?
もしそうなら、なぜ「優しくなれる」のが「後でやってくるよいこと」になるのでしょう?
優しいと幸せになるのですか?
、、、多分実際は違いますよね。
優しいだけで搾取され言いように騙されている人はいくらでもいる。
優しいだけだと自己犠牲を嬉々として行い、疲弊しきったならば、ごみのように投げ捨てられる、、、。
まやかしのハッピーエンドとワルツを踊っている間に、背後から現実という刺客に刺されて落命するんです。
「優しさ」はもちろん大事ですが、「優しさだけ」ではあまり役に立ちません。
さらに言うなら、「優しさ」は「人を笑顔にするため」とか「人を苦しみから救いだすため」の強い動機とはなりますが、「それ単独ではほとんど役に立たない」でしょう。
優しさは人に「いわゆる善」を行う動機とはなれど、「善を実現する力としては役不足」です。
「優しさ」は強さではないです。
勇気を備えた優しさが「強さ」です。
人の痛みを感じるなら、「その次」が大事です。
「優しさを実行するため」には、自分自身が「痛みを感じる心に屈さないだけの強いメンタル」や「優しさを実行するだけの強い意志」が無ければ、、、そう、動機だけでは足らないって話ですよ。
てことで、参考までにメンタル強化の方法と逆境に強い人の特徴を置いときますね。
4、「優しいだけ」では何もできない
結局、「傷ついた分だけ優しくなれる」は気休めです。
優しいだけではろくに機能しない。
言い方が悪いようですが、わたしは「傷ついた分だけ優しくなれる」という言葉から
「せめて傷つけられた分だけ何らかの形で報われてほしい。この傷になんらかの意味があってほしい」
という悲痛な叫び以外のなんらも感じません。
優しくなったら何なのか?
「なっただけ」で「意思が弱い」、「痛みを感じる心に押しつぶされる」のなら何にもならんのです。
やはり、わたしはその傷から「優しさをどう実行するか」も含めて考えていく方がより建設的かなって気がしておるのですねえ。
まあ、個人的な話なんでどうでもいいですがね。
おわりに
この記事では「傷ついた分だけ優しくなれるは気休めだ」と述べました。
いささか強く言いきりすぎた感もしますが、「傷ついた分だけ優しくなった」だけで終わっては仕方がないのです。
その「優しさ」は動機たり得ても実行できないのなら、何になるのか?という話。
「優しくなる」より「優しさの実行」、そうです、せっかくあるなら形にしましょう。
形にする努力をしましょう。
それでこそ持っている意味があると思います。
では!