「もう自分もアラサーか、、、、正直、人生終わった感がある。この先体力も容姿も脳も衰えてゴミのようになっていくのか。はあ、長く生き過ぎた。」
、、、うん、まあ気持ちはわからんではない。
さて、どうしたものかねえ。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「老いるくらいなら、、、という深い悩み。さて、どうしたらいいんだろうか?」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
・老いが怖くてたまらない、老いが憎くてたまらない人
・老いを受け入れる方法について考えてみたい人
老いとは恐ろしいものです。
体力も能力も容姿もありとあらゆるものが陳腐化してゴミのようになっていってしまいます。
まあ、経験はたまる、、、といいますけどね。
さて正直に言いますと、わたしもそういった老化を心の底から憎悪している一人でして、今は30代半ばと言った感じではありますが「ちょっと長く生き過ぎたか」と思う時がありますね。
今のところ、老化を感じる事は特に何もないですが、この先の事を考えるとどうしても「老いる前に死んだ方がいいな」と思う事もあります。
具体的に言うなら、今の心境的に「どんなに長くても46前には死んでしまおう」って感じで自分の寿命を見積もっている感じですねえ。
それ以上生きても楽しそうではないんですよな。
正直、43でもきつい気がするんだけどさ。
なので、個人的に「老後」という言葉を使う人達には違和感を感じていたりします。
「え?老後、、、?ボケる?老後来る前に自分はきっと死んでいるから関係ないだろうなあ、、、ハナから老後来る前に死ぬ決心しているし、、、」といった具合。
ハハ、、、書いていて思いますが、われながら病的だ(笑)。
とはいえ悲観的というよりも、「明るく楽しく生きて人生つまんなくなって潮時だと思ったらサクッと死のう」くらいにあっけらかんと考えている感じです。
それに、人間なんていつ死ぬかなんてわかんないですしねえ。
別に病んでいるとかでなく、いつ死んでもいいやって思っている感じです。
ただ、死ぬ瞬間だけは自分で決めたいですね。
自分が生まれてくるかどうかを選べなかったくせに、死ぬ時まで選べないなんてすごく不服ですからねえ。
今回は「老いを心から嫌う当事者」として、「どうしたら老いと折り合いをつけて生きられるか」について考えてみたいと思います。
まあ、老いを憎む人たちはみんな仲間ですな。
何か参考になりそうな考え方があり、それが役に立ったなら幸いです。
少しでも長く生きていられるといいですなあ、お互いに。
今回は主観マックスでの記事です。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
「老いは悪」は思い込みではある
最近、話題のワードに「エイジズム」というものがあります。
エイジズムとは、老年医学者のロバート=バトラーさんにより1969年に提唱された言葉であり、人種差別主義(レイシズム)やセクシズムにならって名付けられたそうです。
そしてその意味するところは、
「年をとっているという理由で高齢者たちを組織的に一つの型にはめ差別すること」
であるといいます。
エイジズムは以下3つの要素の組み合わせにより構成されるそうです。
- 老人、老齢、老化についての偏見的な態度
- 老人に対する差別的な習慣的行為
- 老人に対するステレオタイプを存続させる制度やポリシー
例えば、いわゆる高齢の方々を「老害」と言って一くくりにして、ヘイトを吐くようなのも立派なエイジズムの例と言えましょう。
で、老化に対する偏見みたいなものは確かにわたしの中にもある気がします。
いや、、、きっとありますねえ。
もちろん、それをもって高齢の人達に対して攻撃的になる事は全くないですが、全部自分に対しては向かってきますね。
むしろ、人に向かわない分だけ全部自分に向かってくる感じかもしれません。
当たり前のことですが高齢でも前線で華々しく活躍している人は沢山いますし、「この人は本当に人間ができているなあ、、、頭が下がる、、、」と敬服の念を禁じ得ない素晴らしい人格者も沢山おられます。
それは間違いないです。
なので、「高齢だから~」なんてステレオタイプで切って捨てられる程、世の中は単純ではないですね。
エイジズムが不当なのは自明と言ってもいいと思われます。
「若さに未練を感じる者」と「老いて心安らぐ者」は何が違うのか?
さて、世の中には2種類の人がいるようです。
それは「老いをポジティブにとらえられる人とそうではない人」ですね。
この両者の考え方の違いについて少々考えてみたいと思います。
個人的に思うのですが、老いを嫌う人は「老いによって失うものについて強く意識が向いている人」のような気がします。
一方で、老いを受け入れている人とはその逆の思考をしているような気がしますね。
まあ言ってみれば、「若さに対する未練があるかないかの違い」みたいなものかもしれません。
まずは、若さに未練がある人の心理について考えていきたいと思います。
若さに未練がある人の心理には以下のようなものがあるでしょう。
- 生来の能力によって恩恵を受けてきた自覚がある
- やりたいことが加齢によってできなくなる恐怖にとらわれている
以下順次捕捉です。
・生来の能力によって恩恵を受けてきた自覚がある
自分自身の持って生まれた能力によって周囲から恩恵を受けてきたという自覚がある人は、「加齢によって能力が劣化したら自分が恩恵を受けられなくなる!」と思うので猛烈に拒否感を持つのではないかと思います。
一番わかりやすいのは、「美人やイケメン」です。
容姿も立派な才能であり能力。
しかも容姿の良し悪しは一見して分かるので、常時発動の汎用性が極めて高い能力と言えます。
特に恋愛においては、容姿、特に顔がいい方が圧倒的に有利ですし、心理学の実験等を参照してもそれは自明と言えましょう。
正直、こんな理不尽は容姿のよくない側からしたら「ふざけんな」という話ですが、これは本能的なものなので「恨むならそう進化してきた人間の遺伝子をうらむしかあるまいよ」としか言えない感じです。
ですが、イケメンも美人も年は取るもので、いつまでも21,2歳ほどの全盛期の容姿を維持できません。
で、わたしは、美男美女で異性からの好意を集めることに執着している人は老いによる凋落に耐えられないのではないかと思っています。
世界は実に広いので、老いに苦しみ「綺麗なまま死にたい」等と言って、実際に命を絶つような美人もいるのかもしれませんし、いてもおかしくないと思いますなあ。
ま、知らんけど。
さすがに実際に命を絶った美人は私の周りには人っ子一人いません。
「細かいしわができた死にたい、、、」とか「もうそろそろ御臨終かな」なんてぶつくさ言いながらも、何とかみんな元気に?生きているものです。
このような事は他の能力の場合でも言えそうな気はします。
芸術家や何がしかの天才でもありそうな気がしていますねえ、、、。
とはいえ、こういった思考が「極端に視野の狭いもの」であるのは普通の人ならわかるはずです。
人間の価値が「特定の高水準の能力を持っているか否か」なんてバカげた事はないし、それぞれに「様々な才能や資質を持っている」のである才能や資質が下がっても他のものに目を向ければいいだけとおもいますよね。
ただ「自分が元々持っていた武器がさびて使えなくなる」という事実は人によっては、「死を意識するほどに耐え難い事」であろうと思います。
これが適当な例かはわかりませんが、今まで目が見えていた人がある日を境に目が見えなくなってしまったなんて場合も近いものがあるようにもいますね。
もう絶望って感じですよね、きっと。
その苦しみは察して余りありますし、受け止めるのは相当にしんどいと思います。
・やりたいことが加齢によってできなくなる恐怖にとらわれている
上述のように年をとれば、個人差はあれど頭の回転は鈍ってくるし体力も落ちてきます。
そうすると、どうしても若かった頃と同じように物事に対して挑戦はしにくくなりますね。
正直、わたしが主に気にしているのもこれです。
なので、「自分の満足いくように動けなくなった時が自分の命日だ」なんて思っていたりもします。
まあ、わたしの場合は「満足のハードルを下げていくしかない」と思っていますねえ。
というか、結局一般的にはそれこそが「老いを受け入れる対策の最たるもの」なのかもしれません
では、次に若さに未練がない人の心理について考えてみましょう。
若さに未練がある人の心理には以下のようなものがあると思います。
- 若いころに出来る限りの最善を尽くした自負がある
- 結局人のなれの果てなど変わらないと心底納得している人
以下順次捕捉です。
・若いころに出来る限りの最善を尽くした自負がある
若いころに「自分が今できる最善を尽くした!」と言い切れるほど、努力をした人は老いを嘆いたりしない気がします。
むしろ、「過去の努力があったからこそ今がある」とか「あの頃は大変だったからもう戻りたくない」なんて言って心穏やかに老いを受け入れられるかもしれません。
わたしは、ある若い頃に猛烈な努力をして不動産会社を立ち上げ一財産築いた方と話す機会がありました。
その際に、その方は「やるだけのことはやったから過去に悔いはない」といった趣旨の事をいって、すがすがしい顔をされていたのが印象的でしたなあ。
そうか、、、自分は頑張りが足らない、、、だから未練がましいのか(笑)。
ま、知らんけど。
、、、もうひと頑張りするかあ。
・結局人のなれの果てなど変わらないと思う
とかく人は周りと自分を比較して、「うわあ、自分はなんてクソなんだ、、、」みたいに思いがちです。
分かりやすいのでまた例として挙げますが、容姿のいい悪いは非常にこれが顕著ですな。
でも、まあ年を重ねてくれば結局「みんなしわくちゃ」になってきますわね、程度こそあれども。
そういった事を見ていると、「なんだか結局皆行きつくところは同じなんだなあ」等と思えて段々と自分と他人の比較を行わなくなってくる可能性はあるでしょう。
このような心境こそが、「自分の老いを受け入れる」という事につながるのではないかなとは思います。
まあ結局あれですね、「若き日々に残してきた夢がある、、、」なんてことを言わないで済むように、その時にできる最善を積み重ねて一瞬一瞬を悔いなく生きていくしかないんでしょうなあ。
マインドフルに「今を生きる」ってね。
あー、頭いてえ。
老いるのは仕方ないとしても、可能な限り遅らせて時が来るのを待つしかない?
まあ生きていれば次第に体は経年劣化していくので、それは仕方がないでしょう。
とはいえ、能力や体力といったものが経年劣化してくのは由々しき事態ですねえ、、、。
何としても避けたいところではあります。
特段才能も能力もないと思う自分であっても、やはりなけなしの才能や能力がなくなっていくのは耐えられません。
いや、「なけなしの能力だからこそこれ以上減ったら困る!」といった方が正しいのかもしれませんなあ。
ただ個人的には近い将来、医学によって不老に近い状態が実現すると思っています。
つまり、将来的に「年齢を全盛期まで逆転させることができる可能性がある」という事です。
ですので頭お花畑かもしれませんが、わたしは時期に「老化を逆転させられる時代が到来する」と思っています。
ただその時代がやってくるまでは、自力で老化と戦わないといけません。
その為には何といっても、「健康的な生活を送る」事が重要ではないかと思うんですね。
で、その健康の指標となるのが「肌」です。
知能や記憶力と言ったものは中々衰えたか向上したかが分かりにくいし確かめづらいですが、「肌」ならパッと見ただけで状態がわかります。
ですから、肌が出来る限り老化しないような生活を送るといい気がします。
体の内面の腐敗が皮膚にも表れてくるから、皮膚を見ると健康の度合いが分かると言った感じですかね。
、、、まあ、これは少し極端な表現ですかな、、、。
例えば、ジョジョの奇妙な冒険の作者である荒木飛呂彦先生はかなり健康に気を使っていることで有名です。
彼は本当に長い事見た目に大きな変化がありませんが、あれも彼の日ごろのストイックな健康管理のたまものと言えるでしょう。
なので、わたしたちも彼をロールモデルとして気を引き締めて生活していったらいいのではないかと思う次第です。
詳しくは以下。
そして、知能等を劣化させないようにするには日ごろから好奇心をもって新しいことに挑戦するとかが大事かと思われます。
好奇心の向上に関しては以下参照。
また、記憶力は高齢でも十分維持可能であるといいます。
ですから、「年を取ったから物覚えが悪くなった」は勝手な思い込みである可能性も十分にありえますね。
実際、年のせいにしていると、そのせいで本当に覚えが悪くなる事もあるといいます。
年のせいにはしないようにしたいものです。
個人的に思う「老いを受け入れる方法」
こんな風に「まあどんなに踏ん張っても46位で人生しまいだ」と今のところ思っている人間でも、別に死なないで済むなら死なないで済ませたいのです。
まあ、生きてても死んでてもどっちでもいいって感じではありますけど、どっちかっていえば生きてたい気がします。
まあ生きている間にメンタルケアのライフライン建設みたいな事がどん位できるのか分かりませんけども、とにかく生きている内は頑張りたいところ。
で、個人的に「どうしたら老いを受け入れて生きてられるのか」について色々と考えてみた結果、一つの結論にたどり着きました。
それは
「誰かのために生きるという視点を強化する」
という事です。
人は「自分の為だけに生きる」という気持ちだけで生きるていると、結構簡単に死んでしまえると思うんですな。
実際、わたしも突き詰めていくと「誰かのために生きている」のではなく、「結局は自分のためが第一で生きている」と言えますからねえ。
ただ私の場合は、わたし自身がそもそも
「誰かが楽しそうにしているのを見るのが好きで、相手がそういった気分になってくれたら嬉しいと思う」
と言った性格をしているから
「結果的に人のためになることをしようと思う」
だけの事なんですよね。
なので、「別に生きているからってそんなこと自体はどうってことない」ってのが正直なところ。
なんか自分の命のとらえ方が非常に軽いんですわな。
「別に死んでもいいわ。俺の命なんざ俺にとっては安いわ」と言った感じがある気はします。
常日頃から「人生に飽きたら死ぬ」と思っているのも、「誰かのために生きないと」みたいな執着する気持ちがまるでなく自分だけで完結しているからだと思ったんですな。
なので、老いを受け入れる一つの解決策には
「もっと誰かのために生きるという意識を持つ」
というのがあるのではないかと思った次第。
そうすれば、「自分にばかり意識が向かないし自分の死が誰かを悲しませるから止めとくか」ってある種のくさびとして機能する気がします。
、、、、とは言っても、そこまで執着するような人って、、、誰もいないんですよなあ。
それと自分が死んで悲しむ人がいても、その人も時期になくなって、、、それを繰り返していけば、結局すべての人の存在は忘れ去られ無に帰すなって思って「あほらし」という気分にもなったりします。
、、、でもまあ、自分が好意を持つ人には幸せでいてほしいのは確かなので、やはり「死ぬのに未練を感じるくらい大事な人間関係を構築する」しかわたしのような人間が長く生きる方法はないのかもしれません。
もちろん、この結論が万人に通用するとは思っていません。
でも、役に立つ人もいるんじゃないかと思います。
ま、何かの参考になればいいのですが、、、。
とりあえず、自分が「この人との関係は本気で大事にしたい」と思えるようなパートナーや親友等を作るよう努力してみるといいのかもしれませんねえ。
親友はともかくパートナーは相当しんどそうだけど、、、そんな気がします。
と、ここまで来て改めて思いました。
事の是非は置いといて、世の中に自分の実子を欲しがる人が実に多いのもこういった心理があるのなあって思いましたねえ。
死ぬことに未練を感じたいってのもあるんかなあ、、、?
ちょっと、ネガティブすぎな発想か?(笑)。
おわりに
この記事は「老いるくらいなら、、、という深い悩み。さて、どうしたらいいんだろうか?」と題しておおくりしました。
今回は正直役に立つのか立たないのか不明な謎記事になってしまった気がします。
とはいえ、「こんな日もあるよね。人間だからゴミを生産する日もあるさ」とカビが生えるほどに生暖かく見守ってくださるとありがたいです。
とりあえず、本気で「今死ぬわけにはいけねえんだよぉぉおおお!こいつらが生きているからな!」と熱込めていいはれるほどの人間関係を作っていきたいものですなあ。
、、、あと余命10年と余年、、、、。
何だか100日後に死ぬワニみたいだなあ。
なんか変な感じだわ。
余命まで間に合うか、、、いや、「間に合わせる!」んですな。
まずいまずい、いわゆる「やればできる子」の「明日から本気出す」くらい信用ならない発言でしたわ。
まあ、人生これからよ!
「余命伸ばしたるぜ!!」
、、、という事で、もっとアクティブに色々行動していきますかな。
では!
参考