「アフォーダンス理論」意味は人が見出すモノでなく環境が与えるモノ??

「よく青年が「自分がこの世に生きている意味は何?何をするために生まれてきたんだ?」みたいに悩んでいるのってよく考えたら、どうなのかなって思うわ。だって、十代のころなんて別に大して社会との関係してないから自分の役割について考える機会も少ないわけだし、そりゃあ生きている意味なんて分かるわけないよなって思うよな。」

んー、まあそれは言い過ぎとしても、社会との密接なかかわりの中で見いだされる意味というのも当然あるよなあ。

オニギリス!

脱マンネリストのオニギリです!

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「「アフォーダンス理論」意味は人が見出すモノでなく環境が与えるモノ??」という話です。

今回は以下のような方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ
  • アフォーダンス理論について知りたい人
  • 少し違った角度から物事を見てみたい人

現代は大分個人主義的な考えが浸透してきたので、「全ての物事に意味があるかはその人の解釈次第」といった見方をする人が増えてきた気がします。

事実、こんなこと言っているわたし自身がそうなんですけどね。

で、こんな考え方をしている人は多分自分の人生についても「自分が主体となって意味を見出していくべきだ」と考えるはず。

個人的にはこの考えはしっくりくるのですが、一方でこの考え方ばかりでは「思考のバランスが取れない危うさ」みたいなものを感じたりもします。

そこで今回は「意味をどうとらえるか」についての少し面白い理論をご紹介しようかなって思います。

考え方の幅が広がる一助になれば何よりです。

では、ゆるりとおおくりします。

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アフォーダンス理論ってなんぞ?

早速ですが、あなたはアフォーダンス理論というものを聞いたことがあるでしょうか?

アフォーダンス理論とは1950年後半にアメリカの心理学者であるジェームス=ジェローム=ギブソンさんが作った理論のこと。

そして、重要なことですがこの理論で用いられている「アフォーダンス」という言葉はギブソンさんによる造語であり、元となっている語は英語の「afford=和訳:与える、提供する」です。

そして、より専門的な言い方をするとアフォーダンスとは

「生活体を取り囲む環境に備わっている、生活体との関係性の中で初めて意味をなす特性」

のこと。

引用
https://yotsuyagakuin-tsushin.com/b_psychology-blog/affordance1255/

凄くわかりにくい言い方ですねー。

もう少し具体的に見ていくとしましょうかね?

「意味」は人が決めるものではない??

アフォーダンスの背景にある考え方には、「環境の持っている意味が生物に知覚される」というものがあります。

つまり、もともと「生物の置かれている環境には意味が存在していて、生物はその意味に気付く」って考え方です。

アフォーダンス理論においては人を生物と考えて、人が生態学的に適応していく際の過程をみていくんですね。

だから、生物(ここでは人と仮定)が自分自身の能力で意味を作り出したと思っていても、環境に元々存在していた「意味」に気が付いたに過ぎないってことですな。

これは「環境に存在していた可能性に気が付いた」と言い換えることもできるでしょう。

例えば、元気な人にとって少し急な坂を見て「あ、これ登れるわ」と思ったとしましょう。

この場合、ここでいう「元気な人」にとって「少し急な坂」は「のぼれる可能性のある坂」ですね。

つまり「坂という環境が元気な人に対して『登れる可能性』を与えている」ってことになります。

この考えをより拡充して見ましょう。

もし、これが人間関係や社会とのかかわりであればどうでしょうか??

一人の人にとっての社会も自分以外の人間との関係もいうなれば「環境の一種」です。

人との関わり合いの中で「この人とは仲よくできそうだな」とか「自分が居心地がいい職場だ」、はたまた「こんな陰険な同僚がいるなんてストレスだ」と感じるという思考はまさに「環境から与えられる意味に気が付いている」といえるかと思います。

同様に、「人生の意味とは?」と考える時にも「自分が何をしたいのか?」にばかり目を向けると視野が狭くなってしまい何も思いつかないことがありますが、「社会や人間関係等の環境が与える意味」に思いをはせると解決したりすることがありますね。

これはいうなれば、いうなればロゴセラピーの考え方の中核である「人生に何を求められているかに気付く」と同じといっていいかと思うんですね。

要はアフォーダンス理論の考え方に沿うなら、「人は人生という環境が与えている意味に気付くことで適応的に生きることができる」、つまり「ストレス少なく比較的快適に生きていける(雑な言い方ですまそ)」といえそうですね。

ロゴセラピーに関してくわしくはリンクからどうぞ。

アフォーダンス理論はデザインにも応用されてる

実は、アフォーダンスは臨床の現場で使われるというよりも発達心理学や教育心理学分野で使用されることが多いといいます。

そして、心理学以外の領域に目を向けるなら、建築やデザイン、電子工学(ロボットの開発)、人間工学、等々の環境と人との関わり合いを問題とする分野でもよく使用されているんですね。

今回は特にデザイン分野におけるアフォーダンスの活用について少し見ていきたいと思う次第。

例えば、ボタンといえば「押すもの」と私たちの多くは習慣づけにより思いこまされており、ボタンを見ると「おしたい」とすら思ってしまったりします(特に立体的だとね、、、)。

この場合はボタンが「ほれ、押さないのか?俺おせるぞ?」と「押す」という可能性を人に投げかけてくるのです。

これはドアノブの場合であっても同様です。

ドアノブは幼少期からの体験の積み重ねによりわたしたちは「これは回すもの」と思っているため、ドアノブをみるとドアノブが「俺回せるぞ?」と誘惑してくるってことですな。

このように「ものに備わっている人が知覚できる行為可能性」といった意味でアフォーダンスを使い始めたのはドナルド=ノーマンさんという方です。

ただ、このようなアフォーダンスの使い方は本来のアフォーダンスが「生物と物の間に存在する行為についての関係性それ自体」だったためいささか誤用といわざるを得ません。

例えば、ドアノブをみてメンタルが安定している人は基本的に「自殺に使える可能性がある」とか思わないでしょうし、服はハンガーにかけるものと考えている人は基本的にドアノブに服をかけようなんて思わないでしょう。

でも、本来のアフォーダンスであれば「生物が知覚しているかいなかに関わらず意味は常に存在している」のです。

事実、後にノーマンさんは自身の著書におけるアフォーダンスの使い方について、本来のアフォーダンスではなく認知されたアフォーダンスと解すべき」とのむねコメントしているといいます。

おわりに
今回の記事は『「アフォーダンス理論」意味は人が見出すモノでなく環境が与えるモノ??』と題しておおくりしました。

アフォーダンス理論とは人を生物と考え人が生態学的に適応していく際の過程をみていくものであり、アフォーダンスの背景にある考え方には「環境の持っている意味が生物に知覚される」というものがありましたね。

人はとかく「自分が意味を物事に意味を見出す」といった思考をしがちかと思います。

しかし、そのようなアプローチだけでは行き詰ってしまうこともあるでしょう。

そんな時に、発想を転換してみて「環境が提示している意味に気がつこう、環境に隠された可能性を見つけよう」という姿勢を取るのもいいと思うんです。

それに「環境に元々意味、可能性がある」のだと考えるなら、「意味がないんだ」とか絶望しないで済むとも言えます。

もっとも、アフォーダンスにはプラスのものだけでなくマイナスのものがあるのもたしかですけどね。

ま、月並みな言葉でいうなら「何時も希望はそこにある!!気が付いていないだけだ!」てことですな。

では!

参考

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9

https://webview.isho.jp/journal/detail/abs/10.11477/mf.1681100343

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