「世間的には、欲はないほどよいと言われているけどもなんか自分はちょっとそれちがう気がする。欲がないと生きていてもつまらん気がするんだよね。欲があるからこそ人間って働くし楽しめるんじゃないかな?」
うぬ、それはあるかもしんない。
あと、急に欲がなくっている場合、疲れすぎている可能性もあるぞい。
そんな人はまず良く寝なさい!!
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「「欲望という名の才能」欲深いのは立派な才能だって思うんだよね」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
・欲の使い方について考えてみたい人
・欲を敵視している人
・話しのネタが欲しい人等
一般的に「欲深い」と言う言葉からいいイメージを想起する人はおそらく少ないでしょう。
というのも、欲というものはここ日本ではあまりいいものではないとされる風潮があるからですな。
まあ、欲にとらわれない精神性が人生の満足度を高める事はわたしも認めるところですし、今までもそういった趣旨の事は当ブログで再三言ってきたつもりです。
しかし、だからと言って「欲があることを否定する」とか「完全に無欲になる事をすすめる」なんて事をする気はありません。
欲は生きるための原動力にもなる有益なものゆえ、結局は「その使い方が大事だよね」と言うだけの事です。
またさらに言えば、「欲の大きさはその人の才能」とも言えますよ。
欲を否定するのではなく、「どうやったらこの欲を自分の幸せに役立てる事ができるか?」といった視点から、自分の欲の使い方を考えるといいと思うんですな。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
欲なんていらないって?
欲にはいろんな欲があります。
それこそ本能レベルの食欲、睡眠欲、性欲から承認欲求、自己実現欲求と実に多種多様。
そして一般に、「欲は悪いものである」と認識されている気はします。
確かに、その意見は一理あるんですよね。
承認欲求が暴走して対人関係が崩壊したり、性欲が暴走して性犯罪に至ったりと、、、まあ欲はトラブルの元凶となる事が実に多いですから。
しかし、欲があるからこそ人は仕事や恋愛を始めとした対人関係の構築等を頑張るという見方はできます。
そういえば、ネットに落ちていた漫画に世に男性から性欲がなくなると男性が恋愛なんてしなくなるので少子化が加速して産業がガタガタになる的なものがあったような、、、。
まあ、あれは一つの仮説にすぎないものの、結構あり得るかもしれんなあってのは思いましたな。
まあそれはさておき、「完全に無欲」であるならもう「何をする必要もないのでただ座して死の時を待つ」位しかやる事がなくなるでしょう。
別に人生をどう過ごすかなんてその人の勝手ですが、こんな「死の時を待つだけの人生」に意味を感じる人はまずいないはずです
いわゆる欲とは、「自分が一体何を望むのか、何をしたいのか」を明確にしてくれる一つの指針でもあります。
欲を否定するのではなく、欲を上手に自分の人生に活かしていく事が必要ってことですな。
その方がよほど有意義ですよね。
欲が悪いのではない。欲の使い方が悪いのである
先ほど言ったように、欲があるからこそ人はいろいろと努力をするものです。
例えば男性の場合ですと、「モテたいから勉強や仕事を頑張る」という事はよくありますね。
これは言ってみれば、性欲を昇華、つまり直接的に発揮するのではなく別の物事に取り組むための原動力へと変換しているという事ですな。
性欲を直接的に発揮するならそれこそ犯罪者になりかねんわけですが、それを社会に適合した形で発揮すれば何がしかの業績を残すための原動力になるってことです。
あと、「誰かに復讐したい!」等といったある種の復讐心も「実際に相手に危害を加える」とかではなく、上手に昇華させることで何かを頑張る原動力となりますね。
いわゆる「見返したいから頑張る」ってやつですな。
あと単純に、「何かが欲しいから頑張ってお金を稼ぐ」なんていう物欲もそうですな。
人間は欲があるからこそ頑張るといえるわけです。
よく偉い人たちは昔から言っていましたもんね。
「ハングリー精神を持て!」と。
彼らが言いたかったのは、おそらく「人は満たされたと思ってしまうと努力しなくなる」という事でしょう。
この意見にわたしは全面的には肯定しかねるのですが、一理あるとは思っています。
例えばさっき、「モテたいから勉強したり仕事を頑張る」という例をあげましたが、正直超絶イケメンとかだとこんな努力なんて若いうち限定ですがモテるためだけなら全く持って不要です。
よくちまたでは「モテるためには人間性が~」んて言っていますが、正直圧倒的顔面があればそんなものは全て圧倒的顔面パワーでねじ伏せておしまいですよ。
圧倒的顔面の前に性格云々かんぬんなんてね、「正直無力、圧倒的無力!」であります。
多分、25位まではおそらくそれで通用するんじゃないですかね?
知らんけど。
まあ、これが世間的に「色男金と力はなかりけり」なんて言われてしまうゆえんとも言えます。
男性にとっては、結構この「モテたい」という気持ちが何をやるにも大きな原動力となっていることが多いため、これが直接的かつ容易に満たされてしまうと努力なんてする気にならないんです。
なんか、かなり話しが脱線してきた気がしますが、、、とりあえず、「満たされすぎると努力する動機がなくなる」というのは一理あるってことですよ、ええ。
で、もうちょっと突き詰めていくと、行動分析学的には、「全ての行動には目的がある」ので、欲とは「何がしかの目的へと向かわんとする意思」と言えます。
つまり、「人が生きている限り完全なる無欲になる事はない」ってわけです。
なので欲の存在は、わたし達が生きている証であると同時に死なない限りは無くならないもの。
なので現実的には、わたし達は「欲とどう付き合っていくか」を判断し続けていくしかないといえます。
欲があること自体を問題視している人がたまにいますが、それは「死んだほうがいい」と言っているのに等しいってことになりそうですぞ。
欲とは適切な距離感を保ち、上手にコントロールしていけばいいというだけです。
あと、何かと汚らわしいとして攻撃の対象となる性欲についても少し最近思うところがあります。
個人的にこういった衝動はあまり好かんのですが、性欲とはある種生命体としては根源的なもの、言ってみれば「生命力」のようなものであるともいえる気がするんです。
あの精神分析で有名なフロイトさんが主に性本能(リビドー)に基づいて独自の理論を構成していましたが、あの方の着眼点はやはり鋭かったんじゃないかと今さらながら思うところがありますよ。
何でもかんで性本能で説明しようっていうのはさすがに何でも言いくるめてしまうアドラー心理学の非科学性に通ずるある種のうさん臭さはありますけどね。
とはいえ、やっぱりフロイトさんお着眼点は鋭かったのでは?なんて思ってしまいます。
性欲については、もう少しカビが生えるほどに生暖かい目で見てもいいんじゃないかって思うところ。
敵視するようなものじゃないよねってことですわ。
欲深さとは一種の才能である
欲深さとは才能です。
多くの人は「欲深い人」と聞くと、「とんでもないゲス野郎だ」と思うでしょうけどもね。
いくら欲があるといっても、その欲のために「一心不乱に何かを長期間にわたってやり続ける」なんてことできるでしょうか??
例えば、「わたしは何としても東大に受かる!」とか「出世したいから何としてでも仕事で成果をあげる!」等と決断して実際に目的を遂げるなんて事はそうそうできないでしょう。
あと、「モテたいから勉強や仕事を頑張る」っていうのもそうですな。
からっきし持てないのに何も頑張らず、ただただ非モテに甘んじている人は世の中に沢山いるでしょう。
そして、どんなに高みに上っても「まだまだ!」と上を目指し邁進し続けていく、、、、これは相当欲が深くないとできない事です。
大体どこかで、「まあこれでいいかあ」と気が抜けてきてしまうものなんですよね。
なので、「あくまでも上を貪欲に目指し続けられる」という欲深さは「たぐいまれなる才能」と言えるでしょう。
ただ、この才能にも弱点はあって、人生に常に「いつになっても満たされないある種の渇望感」がついてまわるため、ある意味幸福感とトレードオフなところがあります。
もし、幸福に生きようと思うなら「たるを知る心」も大事ですからね。
「欲」がアクセルなら「たるを知る」はブレーキですな。
人生という車は、「欲のアクセル」と「足るを知るブレーキ」を上手く使い分けていかないといけないってことでしょう。
おにぎりの中の人の場合はどうなのか?
かなりの余談ですが、わたしはあまり物欲はなく、望むことと言えば正直「見た目(主に肌)を年齢22時点からでき限り変えない事」とか「できるだけ楽しく過ごせる気のいい仲間を増やして交流する」くらいです。
正直、お金がかかるものでいうと美容くらいしか特にほしいというものはない気がします。
ま、美容医療はかなり高価なので、正直ちょっと金稼ぎ頑張んないとヤバいって思っている今日この頃ですがww
正直、物欲なんてものは特段ないです。
自分の価値が高まれば正直それで十分ですね。
あくまで持論ですが、いわゆる高級車にしてもブランド品にしても、持っている人がさえないのではまるで意味がないし、むしろかえってみっともない気がしますからね。
モノの価値によって自分に付加価値を足していくよりも、「自分自身を価値ある存在にしくのがいい」って思うわけです。
まあ、ちょっとローランド味がある言い方すればこういう事ですわ。
「ブガッティなんて必要ないんだよ。俺がブガッティ以上だから」
、、、、はい、お寒いところ申し訳ありません。
こういう事です。
こういう発言を臆面もなく堂々としても、全然通用するくらいに自分の価値を高めていきたいわけです。
自分自身と価値を不可分にしていけば、モノで自分は凄いぞアピールしなくて済むわけですよ。
だって自分がすごいんだもん。
ま、そもそもすごいぞアピール自体する気がないですけども。
例えがかなり低俗で申し訳ないですが、わたしは「全身ブルガリのブサメン」なんかに興味はないし意味などなくて、「全身ユニクロの神イケメン」の方がよっぽど意味があるといっているわけです。
まあ、容姿なんて外科的処置でもしない限り変えられるものではないので、例としては適切ではないですが、わたしは
「物自体の価値で自分を大きく見せるよりも自分自身の能力や人格、容姿などを可能な限り磨いて自分を価値ある存在へと高めていく事の方がよっぽど努力の方向性としては生産的なんじゃないか?」
と言いたいだけです。
自分に価値があるなら、正直戦争になって無一文になってもある意味富豪ですよ。
自分には価値を生みだす能力、そして価値が沢山あるのですから。
あ、そうそう、決してわたしは「容姿が終わってるやつはもう人生終わってんな!」とか言いたいわけではないので誤解なきよう。
そもそも、わたし自身フツメンなんでそんなえらそうなこと口が裂けても言えないっす!!
おわりに
この記事は「「欲望という名の才能」欲深いのは立派な才能だって思うんだよね」と題しておおくりしました。
欲深いのはある種の才能と言っていいです。
欲があるからこそ、人は努力を続けられるところがありますからね。
自分の欲を何かを努力するために原動力へと変換していけるなら、それでいいのです。
まあ、「欲」と「たるを知る心」はうまく使い分けていきたいものですよねえ。
では!