「どこかで聞いたけど、中国とアメリカって言語の構造が割と似てるっぽいね。だから考え方に似たものがあるんかね?どっちも声でかいし自己主張強いし。」
そうかねえ、、、アメリカと中国って似ているかねえ、、、?
まあ、声がデカいのと自己主張強めってのは少しわからんでもないが。
オニギリス!
脱マンネリストのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「「言語相対性仮説」母国語が何かによって見てる世界が違ってくる?」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
・言語の違いが思考に及ぼす影響について気になる人
・話のネタが欲しい人等
なんとなくでも、「人は言語によって世界をとらえている」なんて話を聞いたことがある人はいるのではないでしょうか?
もし、この話が正しいとすれば言語の違いによって「見えている世界が違ってくる」可能性がありますね。
で、実際にいわゆるアメリカ人と日本人を比べてみると、何となくだけどアメリカ人の方が自己主張が強い人が多い気がしますわな。
もっともこう言った思考の違いの原因を「言語のせいだ」で片づけるのはかなりの暴論です。
しかし、このような差異に言語が一定程度寄与している気はしますよねえ。
母国語とする言語の違いによって思考の仕方は影響を受けるのでしょうか?
受けるとすればどんな風に、、、、?
今日はそんな話。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
人の思考は言語によって変わってくる?
「人は言語により世界をとらえている」といった話がなされることがあります。
これは直感的に何となく合点がいきそうな話ではあるでしょう。
人が何かを知覚しても「人がただありのままを認識している」とは到底言えないからです。
以前から当ブログにて言っているように、人は常に非常に沢山の思い込みにより認知を歪められているもので、わたしたちが正しくモノを見ているとはいがたい現状があります。
そのような思考の偏りといいますか、思い込みをある方向に推し進める一要因として言語の影響があってもおかしくはないといえましょう。
つまり、主に自分の母語とする言語の特性によって、わたし達のものの見方が多少影響を受ける可能性があるってことですな。
例えば、英語では主語の後にすぐ動詞が来るから結論を先に言う分かだといいうちょっとそれはどうなの?とおもう様なああいった話ですね。
実は、こういった「母語によって人の思考様式が決定される、ないし影響を受ける」とする仮説として言語相対性仮説(サピア=ウォーフの仮説)というものが存在しております。
この仮説は、学術的にはアメリカ人類学の父といわれるフランツ=ボアズさんによる文化相対主義の流れの中にあるものであり、言語学者のサピア,E.さんとウォーフ,B.L.さんにより発展させられました。
※サピアとウォーフはボアズのもとで人類学を学んでいる。
この仮説には以下の2つの意味合いがあります。
- 言語決定論(強い仮説):母語により思考様式が完全に決定される。現代はあまり支持されていない。
- 言語相対論(弱い仮説):外界をどのように捉え分類していくかは、言語や文化の影響を受けて異なってくる。上述の英語と日本語の文法構造の違いの話はこれに相当する。
なお、この言語相対仮説に対してはあたりまえですが批判も存在しています。
その批判の例が以下。
- 人は普遍的な文法体系を持って生まれてくるものであってその上に母語の文法を学習していく(ピンカー,S.)
- 人類の色の認識は異なった波長に反応する3種類の錐体細胞をとおしてなされるものでありそのような制約は越えられない(言語が異なれば色彩が異なるとの仮説に対しての批判)
ちなみに、サピアさんとウォーフさんは師弟関係にあった模様。
しかし、この仮説の構築にあたってはそれぞれが書いた論文の中で共通する主張を展開しただけなので、別に共同研究をしていたわけではありません。
後世の人々が彼ら二人の名前をとってサピア=ウォーの仮説と呼ん打だけの事なんですな。
確かに母国語が何かで少し物事のとらえ方は変わるようだ
最近、ランカスター大学の言語学者であるパノス=アサナソプロスさんが行った研究では、「バイリンガルの人の思考はその瞬間に使用している言語により影響を受ける」という何とも不思議なことが示唆されたといいます。
参考
Two Languages, Two Minds: Flexible Cognitive Processing Driven by Language of Operation
「その時にどんな言語を使っているか」で思考が影響を受けるという事ですから、もしこれが真実ならかなりびっくりな話であります。
この実験では、まず被験者達に自動車の方向へと歩いている人物の動画を見せてその様子を言葉で描写させています。
その結果、英語話者とドイツ語話者では以下の様な反応の違いがあったそうな。
- 英語話者:多くの人が「人が歩いている」動画と回答
- ドイツ語話者:多くの人が「自動車に向かって歩いている人」の動画と回答
どうも、ドイツ語話者は「人物の行動だけでなく目的」も一緒に描写する傾向があるようですな。
対して、英語話者は「人物の行動そのもの」に死期が集中しているようにも見えます。
そして、次に実験チームは英語とドイツ語を母国語とするバイリンガルの人たちに対して、「歩く」「自転車に乗る」「走る」「車を運転する」といった行動をしようとしている人の動画を見せました。
※動画は「ある女性が自動車に向かって道を歩く(目的が曖昧なもの)」、「建物に入る女性(目的が明らかなもの)」、「歩いている女性(厳密な目標を欠く行動)」の3つ1組で提示された。
そして研究者たちは被験者達に「目的が曖昧な動画」が、「明らかな目的をともなっている行動の動画」と「目的のない行動の動画」のどちらにより近いか質問しました。
結果、英語を使う人では、曖昧な行動と目的のない行動を結びつけることがより多かったのに対してドイツ語を使う人はその逆だったといいます。
そしてこれがバイリンガルの場合、英語を使うときは曖昧な行動と目的のない行動を結びつけることが多くドイツ語を使うときにはその逆の傾向がみられたそうです。
しかも、、実験途中で使う言語を変えてもらうと答えも変わったそうな。
、、、ふむ、これが本当なら極端な言い方をすれば使用言語の変更によって人格交代がおこっているようにすら思えますな。
確かなことはわかりませんが、どうもこういった使用言語によって人格が変わるという話はツイッターにも一定数あるようです。
まあ、真偽のほどは分かりませんけども。
ただ個人的に言語によって性格が変わるというのは少し言い過ぎなきもしますな。
あくまで私見ですけども、わたし達はそれぞれに「~人と言ったらこう言った性格」のようにそれぞれの言語ごとに偏見のようなものを持っているので、思考がその偏見によって影響されたりしている可能性もありそうです。
以前とりあげた「方言コスプレ」に似た感じですわな。
あと、使用する言語の特性によって元々の自分の性格の一部分にいずれかに焦点が当たりやすくなるとかそういうのもある気がするんですよね。
遣う言語で性格が変わるというより、「性格の一部が表面化しやすくなっているだけ」って気もします。
元々自分の中にないものは外に出ようがないですからな。
ま、所詮「そんな気がする」程度のことですがね。
おわりに
この記事は「「言語相対性仮説」母国語が何かによって見てる世界が違ってくる?」と題しておおくりしました。
「母語としている言語によって見える世界が違ってくる」は言い過ぎとしても、どうやら多少なりとも思考が影響を受けている可能性があるでしょう。
サピアウォーフの仮説は「仮説にすぎない」のですが、それを裏付ける研究が出てきていることも確かです。
今後の進展が気になるとことですねえ。
言語と思考、、、中々興味深いものですな。
では!
参考
https://theconversation.com/how-the-language-you-speak-changes-your-view-of-the-world-40721
Two Languages, Two Minds: Flexible Cognitive Processing Driven by Language of Operation