「人に迷惑をかける」なんて普通の事だよ?何が悪いんだい?

「人に迷惑をかけるなって主張がすごく多い気がするけど、なんかいまいち納得いかない。別に「他人なんて知ったことない」とは言わんけど、いちいち他人への迷惑なんて考えていたら何にもできなくならん?」

ふむ、せやな。

あんまり他人への迷惑なんて考えていると、何もできなくなってしまうよなあ。

オニギリス!

脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「「人に迷惑をかける」なんて普通の事だよ?何が悪いんだい?」という話です。

今回は以下のような方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ

人に迷惑をかけるのが悪いのか気になる人
・人に迷惑をかけたらいけないという呪縛にとらわれて息苦しい人

「人に迷惑をかけるな」なんて事を言われたことがある人は一定数いるでしょう。

確かに他人に迷惑をかけるのはいいことではないので、出来る事なら避けたいところですよね。

それは確かに分かるのですが、あまりに「他人に迷惑をかけてはならない」という呪縛にとらわれてしまうと何も自分のやりたいことをできなくなってしまって息苦しくなってしまうと思います。

なので、発想を転換し「迷惑はかけてもいい。でも、かけた分の迷惑は何らかの形であとで埋め合わせをすればいい」くらいに思うといいと思うんです。

もちろん、迷惑の程度にもよりますけどねー。

では、ゆるりとおおくりします。

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人に迷惑をかけてはいけない、なんてことはない

おそらくこんなタイトルの記事を読んでいるあなたは、十分に、いや十分すぎるほどに良心のある方だと思います。

そもそも良心がないとか自分だけが得すればいいって人は「他人に迷惑をかけてはいけない」なんて発想をしませんし、そんなこと鼻からバカバカしいと思っていますからね。

なので、人に迷惑をかける事を気にするあなたは、自分が良心的な人間なのかどうかを気にすることはないでしょう。

さて、なんでこんなにも他人に迷惑をかけることが悪だとされているのでしょうか?

まあ、わたしにも確かなことはわかりませんが、なんとなく小さいころから多くの人がそういう思想を両親などから教えられてきていることは事実だと思うんです。

このある種の道徳律の様なものの確かな起源についてわからないものの、この道徳律が日本人に多いとされる「周囲の目を気にしやすい性格傾向」と何らかの関係がある気はします。

やはり周りを見回してみても他人からの評価を過剰に気にする人は年代を問わず多い気がしますね。

「他人に迷惑をかけると悪く思われるから迷惑はかけてはいけない」なんて言うある種の危機管理意識が、こういった思想を生み出しているのかもしれません。

確かにうらまれないにこしたことはないですが、それを過度に気にして自分の意思を表現することもままならないのではちょっと息苦しすぎやしないかなって気はします。

おそらくこの手の思想は「多くの人が幸福に共存できるため」といった大義の素主張される気がしますが、そもそもこういった思想が強くなりすぎると「人に迷惑をかける可能性が少しでもあるなら問答無用で我慢しろ」というかなり理不尽な風潮へと繋がりますな。

これで個々人が幸福になれるとは到底思えません。

行き過ぎた利己主義がいさめられるべきと思う反面、他人への過剰な配慮を強制する思想も多くの人を不幸にする害悪でしょう。

少なくとも、今「他人に迷惑をかけるから」と思って自分の気持ちを押し殺している人に関しては、「もっとわがままになっていいし人に迷惑をかけるなんて何も悪いことではない」と言えるかと思うのです。

人に迷惑をかけないことはまず不可能であり、人に迷惑をかけるなはおかしい

そもそも人に迷惑を一切かけずに生きることなど不可能だってことは抑えておきたいです。

みんな誰しも日々の生活において相手に迷惑、つまりストレス源となるような行動や言動といったものを少なからず行っているもの。

これらをゼロにしなければいけないというのなら、完全に社会から自己を断絶し無人島にでも一人ですまないと無理でしょう。

でも、人間が社会とのつながりをだって幸せになることができないのは自明の理ですし、そもそも生きていくこと自体が困難です。

結局、「人が幸せに生きていきたい」と思ったら、社会とのつながりを大事にして共存していく以外に道はないといえます。

人と人とが接するなら迷惑をかけるかけられるは当たり前のことですから、迷惑をかけることを過剰に嫌うのはおかしなことです。

そして個人的に思う事ですが、こうした「他人への過剰な配慮を強制する意見」が「行き過ぎた自己責任論」を助長しているようにも思うんですな。

よく追い詰められたがあまりいわゆる無敵の人となり無駄別殺人を犯した殺人犯に対して、「死ぬなら一人で死ね。他人に迷惑をかけるな」なんて一見人権派のような主張をする人がいますが、これもなんだかおかしな感じです。

こうした追い詰められるような人が生み出された環境や何やらといったものにも問題がある気がするんですが、そういった問題をひっくるめて全部本人だけに帰責して物事の終結を図ろうとする乱暴さが見受けられるんですよね。

これって結局、「そうなったお前が悪い。自己責任だ」っていう暴論にしか思えんわけです。

こんな風に社会全体が追い込まれた人間を拒絶する風潮が蔓延すると、追い込まれた側が「だったらこんな社会ぶっ壊してやるしテメエらも殺してやる」なんて向かってきかねないので治安上よろしくないです。

行き過ぎた自己責任論を肯定している人は、多分「この世界は努力すれば報われるものだ」とか因果応報があると信じているのかもなって気がします。

でも実際は、そんなものはありません。

やり方次第では努力はこちらを平然と裏切ってきますし、人に迷惑をかけて平気な暴君みたいな人間が悠々自適に生活してそこそこ満足して死んで行ったりもしています。

よく「人に迷惑をかけてばかりの人間の末路はロクなものにならない」といった事を言う人がいますが、それは必ずしも正解ではありません。

言ってみれば、そうあってほしいという願望にすぎないと言えましょう。

悪辣な人間がかならず報いを受けるとは限りません。

ちなみに、日本には古来から相互扶助の考え方が定着していたなんて話もあります。

最近よく耳にする「行き過ぎた自己責任論」や「生活保護受給者を始めとした社会的弱者へのバッシング」等は、そもそもの日本の精神性から考えても何やら変な感じです。

そもそも日本は昔から「迷惑をかけてはいけない」という思想が当たり前ではなかったはずなのに、いつの時からかそんな歪んだ道徳律的なものが主張されるようになってしまった気がします。

さて、なんでなのでしょう?

理由は浅学菲才なわたしには分かりかねます。

しかしね、これはいいたい。

「人に迷惑をかけることは別に悪いことではないし生きてるなら普通のことだ。程度の問題はあれど過剰に気にすることはない」とね。

人に迷惑かけないようにするより受けた分の恩恵を返せばそれでいいじゃん

日本には「人に迷惑をかけるな」という主張がある一方、「困ったときはお互い様」という言葉もあります。

わたしは「人に迷惑をかけるな」なんかよりも「困ったときはお互い様」という言葉の方が道徳律としては適していると思いますね、ええ。

よくインドでは「自分も人に迷惑をかけているのだから相手の迷惑も許してあげよう」といった趣旨のことが言われるといいますが、別にインドに焦点を向けなくてもそもそも日本にもそういった考えは古来よりあったわけです。

これからは個人的に「困っている人は出来る範囲で助けてあげよう」と「困ったときはお互い様」が、「他人に迷惑をかけるな」なんかよりも一般的になってほしい気がしますねえ。

今自分が誰かに迷惑をかけてしまっても、そのかけてしまった迷惑は後で何らかの形でその人を助けたり社会全体に対しての具体的な活動等で生産すればいいと思うのです。

というか、そういった気持をもち少しでも行動をするなら、もうそれで十分なのかもしれません。

こういった事は明確に数値化できるものではないし、またしないからこそいいとも言えると思いますからね。

わたし自身は何かと数値化とか分析を重視して目に見えないものは考慮しないと切って捨てていきがちな性格ではありますが、やはりあえてあいまいにした方がいいものがあるのも実感しています。

まあ、あれですよ、「受けた恩は後で返せばいい」ってことです。

最悪返せなくても仕方ないけど、返す姿勢は失いたくないものですな。

そゆこと。

おわりに

この記事は「「人に迷惑をかける」なんて普通の事だよ?何が悪いんだい?」と題しておおくりしました。

人が生きていれば他人に迷惑をかけるのなんて当たり前の事なので、人に迷惑をかけることを過剰に気にするのは実におかしなことです。

それに人に迷惑をかけることを悪とする姿勢を強調すると、その意気付く先は社会との断絶や孤立、過度の自己責任論でしかないと思うので害悪でしょう。

人は生まれてきたからには幸せになりたいものでしょうから、共存するために他人に迷惑をかけることを悪として生きるよりも「困ったときはお互い様」の精神を大事にしていきたいものです。

今かけてしまった迷惑は後で何らかの形で清算していけばいいのですわ。

では!

参考記事等

「普通になりたい」という人は普通という概念を変えると生きやすい

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