清貧は全く尊くない!目指すなら清富にしよう!
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「日本もほかの国でもやたらと清貧が尊ばれているよね。おかしくない?何で貧しい方が清いのさ?貧しくて粗暴な人なんていくらでもいるし、富裕層で人格的に素晴らしい人だってたくさんいるじゃない?なんで、貧しい方ばっかり美化するの?やっぱし、弱者の自己正当化にきこえるよねえ。いやな、考え方だなあ。」

ふむ、そうねえ。

確かになんで貧しい方ばっかりひいきするのかね?

オニギリス!

脱マンネリストのおにぎりです!

今回もよろしゅう!!

今回の話題は清貧なんてやめて清冨を目指した方がいいよ、という話です。

あなたは清貧は美徳だと思いますか?

私はそもそも善悪という考え方をしないので、清貧は美徳でも悪徳でもないです。

ただ、清貧思想のせいで苦しめられている人がいるのは事実です。

むしろ、私は清貧ではなく「清冨」というあり方を提唱したいと思います。

では、ゆるりとおおくりします。

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1、清貧の本当の意味

さて、清貧の意味を早速確認していきましょうか。

〘名〙 貧乏だが、心が清らかで行ないが潔白であること。余分を求めず、貧乏に安んじていること。

※文徳実録‐仁寿二年(851)一二月癸未「家素清貧。事母至孝。公俸所当。皆施親友

※貞享版沙石集(1283)八「清貧は常に楽しみ、濁富は恒に愁ふと云云」 〔姚崇‐冰壺誡〕

引用

https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E8%B2%A7-546203

ふむ、大体私達の想像どおりですね。

ただ一点、注意がありますね。

「安んじる」が満足するという意味だという点です。

なんだか、やたらと「貧しいこと」を美化しようと無理している感じがする表現です。

こういっては何ですが、「余分なものをもとめない」、つまり、「足ることを知っている」という表現だけで十分ですよね。

ことさら、「貧乏」という状態をもちだす必要などあるのでしょうか?

、、、つまりです、この「清貧」という言葉は、いうまでもなく「貧乏への賛美」を目的とした言葉です。

では、なぜこのように貧乏をたたえる言葉があるのか?

理由は沢山考えられますが、いくつかあげてみましょう。

  • 為政者や権力者にとって弱者は扱いやすいから
  • アンダードッグ効果
  • 強欲は悪という道徳観のせい

では、簡単に順次述べてみましょうか。

・為政者や権力者にとって弱者は扱いやすいから

はい、これはわかりやすいですね。

自分達の権力を脅かす存在が出てきてほしくないので、支配階級は「清貧は美徳」と国民におしえこむことで国民に力をつけさせないようにします。

国民がよわいままなら、搾取するのはやりやすいでしょうね。

・アンダードッグ効果

これは「弱い立場にあるものは無下にできない」という人間の心理です。

貧乏な人にもいいところを見つけようとした結果、「足ることを知っている」などという結論をもってきたのかもしれません。

・強欲は悪という道徳観のせい

這い、多分これが一番可能性は高いでしょうね。

どの文化圏でも往々にして「強欲」は悪徳とされてきました。

事実、日本はもとより西洋でも強欲は悪徳です。

七つの大罪にも「強欲」ってありますしね。

この道徳観のために「強欲」に対抗する概念を作ろうとする動きがあっても不思議ではありません。

「貧しいという極限状態にあっても、欲をもたずにその状態に満足する聖者」

の姿を「強欲の限りを尽くす俗物」に対する理想的な反対概念として設定したのかもしれませんね。

ここまでかなり、こじつけでいろいろ言ってきましたが、一番可能性が高いのは道徳観によって「清貧」という概念は作られたという見方でしょうね。

2、清貧思想の押しつけで人は不幸になる

はい、別に「清貧」になりたきゃ勝手になってればいいんです。

なりたい人が勝手になればいい。

しかし、世間には一定数、他人の生き方に「道徳的なあり方」を押し付けてくる人達がいます。

このような「ある種身勝手な人達が」他人の生き方に勝手に土足で踏み込んできます。

そう、最もそうな大義名分をかかげて、、、。

道徳なんて内発的、自発的なものです。

誰かに押し付けられるいわれなんてないのです。

道徳は「支配欲の強い人間達に悪用されている」と言えます。

「お前のような欲にまみれた生き方は非道徳的だ!恥を知れ!」などと。

だからどうしたの?

あなた達に何の関係があるの?

となりませんか?

知ったことではないです。

正直、「勝手に生きるんで口出さないでもらえますか?」 なんて言いたくなりません?

人の生き方に、価値観にいきなり「我こそ正義」と言わんばかりに、非難の咆哮を向ける傍若無人な人々、、。

思考に柔軟性のない、多様性を認めない人達。

このような人達が「清貧」を理想化し、それを尊ぶ風潮を他人に押し付けるがためにどれだけの人が不幸になっている事か。

およそ、「道徳」をもちだして人をことさら非難する人は、「相手を支配し服従させたかったりするだけ」だったりします。

こんな人をカバートアグレッションと言います。

カバートアグレッション対策は以下からどうぞ。

カバートアグレッションなんぞに屈しないで下さい。

3、お金自体は汚くもなんともない

さて、お金は汚いのでしょうか?

あなたはどう思いますか?

、、、

はい、冷静に考えたら汚くも綺麗でもないですよね。

ただ「お金」は「お金」でしかないですよね。

そう、それ以上でも以下でもないのです。

なのに「お金のことを汚い」と「お金を稼ぐことをきたない」となぜか言う人達がいる、不思議な事に。

まあ、大方文化のせいですね。

日本は農耕文化。

同調圧力が強すぎます。

独り勝ちを許そうとしない、場合によってはみんな仲良く地獄に落ちていくのが正しいあり方、、、。

もう、やめましょう、こんな歪んだ協調性入らないんです。

もっと、個人個人が思い思いに努力するのを応援する社会であって欲しいもんです。

ということで、もう「お金が汚い」なんて思想はいらないんです。

すてましょう、そんな薄汚れた思い込みは。

「お金は綺麗でも汚くもない」

4、人は本当は貧しい人を嫌悪する

はい、現実は残酷です。

「清貧」なんて言葉があるから、人は「貧しい人」に寛容かとおもったら、、、、大間違いです。

偏見に関する過去の調査でわかっていること、人が他人に敵意をもつ最大の要因は「差異」だといいます。

すなわち、人間は自分と相手が違っていたら嫌悪感や不信感をもちやすいのです。

事実、2006年プリンストン大学でもうスキャン装置を用いた実験で、ホームレスの写真を見せられた被験者たちの脳はその写真の中のホームレスを「非人間化し、嫌悪していた」ことが明らかになりました。

その一方で、資産家の写真を見た被験者たちは「自分と同じ人間として認識」していたのです。

これは海外の実験ではありますが、やはり同じ人間です。

日本人にも同様のことが言えるのではないでしょうか。

ええ、そうです。

私達の脳は「貧しい人を嫌悪する」傾向にあるのです。

私達は貧しい人に本能的には好意的でない可能性があります。

すくなくとも、このことは心にとどめ置く必要がありそうです。

5、お金は自由を買うためにある

さて、あなたは何のためにお金がほしいでしょう?

お金に関する考え方はあなたの収入を変えます。

さきほど言った、「お金はきたない」という考え方は「金銭忌避」といい、この考え方をしている人は6~8%も収入が低下すると言います。

一番良い考え方は「お金は自由を手にするためにある」と考える事です。

アメリカの統計では収入が2.5%に入る人達はお金=自由と考えていました。

事実、お金さえあれば時間を拘束されて働く必要などまったくないですからね。

自由になれます。

私も「お金は自由を買うためにある」という考えにはもろ手をあげて賛成です。

6、清貧を自己正当化に使うな!

時に、「清貧」を自己正当化のための論理として持ち出す人がいます。

「私は今の貧しい暮らしに満足しているんだ。なにもこれ以上はいらないんだ」。

そんな事言って本当でしょうか?

本当なら別にいいですよね。

その人は自分に正直に人生を生きています。

しかし、上述の言葉がただ「自分の努力が足りない、頑張りたくないこと、自分をあきらめさせるだけ」のいい訳だったらどうでしょうか?

あまり、いいものとは言い難いのではないでしょうか?

いいことであれ悪いことであれ、すべては自分のせいと考えるのが収入の高くなる人です。

清貧を逃げ口上として使ってしまったら、もうはいあがれないのです。

もっとも、この考え方はいささか「公平世界仮説」にのっとった現実を無視した話かもしれません。

そう、「貧しいのは努力が足りないからだ」という論理かもしれません。

たしかに、世界は公平ではないし努力が報われるかなんてわかりません。

とはいえ、自分を信じて努力を続ける以外に道はないのです。

立ち向かうしかありません、、、。

7、清冨を目指した方がいい

私は清貧なんかより「清冨」の方がいいと思います。

え?

こんな言葉知らない?

まあ、私も知りません(笑)。

ただ、多分あるだろうしあったらいいなと思っていっています。

清冨を私なりに考えるなら、以下の要素から成り立つものであると考えたいです。

  • 惜しみなく人に見返りを期待せず与える
  • 決して自己犠牲はしない
  • お金は自由を実現するよいものと考える

はい、つまり「相手を活かしまた自分も活かし、決して自己犠牲をしない生き方」です。

この考えの根底にはアダム=グラントさんという心理学者の方の「自己犠牲をせず他者に惜しみなく与えるものは成功する」という理論があります。

貧しいよりは資産があった方がいいです。

お金はいくらあっても困りません。

そして、お金は人を出し抜きだまさねば稼げないようなものではありません。

そんな、悪辣な商売をするものの栄光は長くは続きません。

「自己犠牲せず人に価値を惜しみなく提供できる人こそ」長期的な目で見て成功します。

財も仕事も人が持ってきてくれるものとも考えられます。

だから、人を大事にすることは自分が豊かになるという点では理にかなっていると言えます。

ゆがんだ同調圧力など跳ね返しましょう。

そして、清冨という概念が清貧に取って代わるといいなあ、なんて思います。

No More Poverty!!

おわりに

この記事では清貧という言葉を尊ぶ必要はまったくない、めざすなら「清冨」を目指す方がいいということについて述べました。

清貧思想にとりつかれている人は主に道徳のせいで自身の本能に逆らって、「貧しさ」をある意味で「無欲の象徴」の様に考えてきたような気がします。

しかし、現実には人は「貧しい人を嫌悪する」。

その事実を受け入れた上で、自分の正直な感覚において、違和感の少ない在り方を目指した方がいいのです。

個人的には清冨は以下の要素から成るものと考えました。

  • 惜しみなく人に見返りを期待せず与える
  • 決して自己犠牲はしない
  • お金は自由を実現するよいものと考える

自分も相手も、双方が幸せになれる、豊かになれるあり方が一番いいじゃないっすか。

では!

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