「みんな違ってみんないい」なんて綺麗ごとで大嫌い?「どいつもこいつも皆ダメ?」

「なんだろうか、、、金子みすずの『みんな違ってみんないい』って言葉はどうも好きになれないんだよなあ。どうにもきれい事が過ぎるんだよなあ、、、うん、、、多分そうだ。」

ふぬ、、、そうねえ、、、。

きれい事ね、、、。

オニギリス!

脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「「みんな違ってみんないい」なんてきれい事で大嫌い?「どいつもこいつも皆ダメ?」」という話です。

今回は以下のような方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ
  • 「みんな違ってみんないい」に対して反感を持っている人
  • 「みんな違ってみんないい」という言葉の神意について考えてみたい人

みなさんご存じの通り、「みんな違ってみんないい」とはあの有名な金子みすずさんの詩『私と小鳥と鈴』の中における一文ですね。

一般にこの一文は好意的に解釈されていますし、わたし自身も好意的な解釈をしています。

しかし、一方でこの「みんな違ってみんないい」に対して否定的な解釈をしている人もいるようです。

まあ、そりゃあそうですよね。

どんなにいい言葉とされるものであっても、沢山の人がいれば批判されることもあるものです。

ただ、どんな理由で否定的な解釈がなされているのかは結構気になりますよね。

ということで、今回は「みんな違ってみんないい」に対する否定意見やその意見を言う人の心理的背景なんかを考察してみたいかなあって思います。

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では、ゆるりとおおくりします。

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「みんな違ってみんないい」ってどんな意味なんだろうか?

さて、ではまず、金子みすずさんの「私と小鳥と鈴と」の原文を確認していきましょう。

私が両手をひろげても、

お空はちっとも飛べないが、

飛べる小鳥は私のように、

地面を速く走れない。私がからだをゆすっても、

きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のように、

たくさんな唄は知らないよ。鈴と、小鳥と、それから私、

みんなちがって、みんないい。

引用
https://www.chichi.co.jp/web/20180929yazaki/

ふむ、世間一般には最後の一文の「みんなちがって、みんないい」ばかりがよく知られているような感じはありますが、全文は実はこんな感じだったんですな。

例に挙げられているのは「私」、つまり人間と「小鳥」と無機物の「鈴」ですから、どうも「みんな」の中には「この世のありとあらゆる存在が含まれている」気がしますねえ。

正直、どう解釈していいものか難しいところですが、この世に存在する万物にはそれぞれ固有の特性のようなものがあり、その特性間に優劣のようなものはなく、それぞれに特性を活かす事が出来ればいいんだってことだと思いますね。

あと、ここでいう「みんなちがって、みんないい」の『いい』という言葉は、「良い」とか「善い」ではなくて「ただそのようにあり、それでいい」という意味合いの「いい」ではないかって気が個人的にします。

「みんな」が万物を包含しているなら、ここでいう「いい」には善悪を超越した意味が付与されていてもおかしくないんじゃないかなって思いますな。

まあ、大雑把に一言でまとめるなら、「それぞれの特性やその特性に基づく長所を活かせばそれでいい」って感じになりそうです。

まあ、あれですな、、範馬勇次郎の「競うな 持ち味をイカせッッ」というセリフに通ずるところがありますね。

「みんな違ってみんないい」への難色や嫌悪

さて、上述ように「みんな違ってみんないい」を「それぞれの特性に優劣はなく、その特性に基づく長所を活かせばそれでいい」という趣旨で解釈するのなら、特段の問題点があるとは思えません。

が、しかし、現にこの言葉には批判が存在している模様。

この言葉に対する批判には以下のようなものがあるといいます。

・個性重視ばかりを重んじては、個人のわがままを助長することになる
・強者の理論のように聞こえる
・あまりに綺麗ごとがすぎる

以下順次考えてみたいと思います。

個性重視ばかりを重んじては、個人のわがままを助長することになる

「みんな違ってみんないい」という文言は、一聴すると「個人の個性を尊重しよう」と言う感じに聞こえますな。

ただ、個性の尊重ばかりにフォーカスすると、自分の我を押し通す大義名分を付与することになりかねないとも考えれるでしょう。

つまり、「私は~だ。これは個性だから何が悪い?」みたいに自己主張する奴が増えたら、収拾つかなくなるじゃん?ってことですね。

まあ、確かにこんな使い方されたらかないませんわな。

ただ、金子みすゞさん自身がこんなことを推奨している気はしません。

詩の全文を見ると、別に「個性を押し通せ!」みたいな主張は全く見受けられません。

まあ、この批判は「みんな違ってみんないい」という言葉が独り歩きした結果といってもいいかもしれませんなあ。

強者の理論のように聞こえる

「個性」というといいように聞こえますが、個性は非常に幅広い概念ですので、その中に当然一般に未だネガティブとされている障害や高すぎる感受性なども含まれてきます。

それらネガティブとされる要素も含めて「個性だからそれはそれでいいんだ」と言われても、それら要素等をもつ当事者からしたら「生存に有利な特性の場合はそれでいいだろうが、不利な場合はよかねえよ!」と反論したくなるでしょう。

例えば現代では、おそらく記憶力が尋常でなく高いことは「有利な個性」といえるでしょうが、記憶力が非常に悪すぎるのは生きる上で「不利になることが圧倒的に多い個性」といえるかと思います。

もし、こんな「不利な個性」を持っていたら、「みんな違ってみんないい」に対して「そんなのは綺麗ごとだ!みんないい?ふざけんな!こんな個性なんていらねえよ!どう役に立つっていうんだよ!!」と怒りたくなるかもしれません。

これが「『みんな違ってみんないい』は強者の理論だ」という批判の理由なのではないかなって気がします。

ただ、個人的に金子みすゞさんは善悪とか生存上の有利不利という観点から、「いい」とは言っていない気がするため、この「強者の理論」という主張は完全に的外れだって気がしますね。

まあ、言いたい気持ちは理解できなくもないですけど。

あまりに綺麗ごとがすぎる

上述した「『みんな違ってみんないい』は強者の理論だ」という主張の場合もそうでしたが、やはりこの言葉が綺麗ごとに聞こえて仕方ないって人もいるようです。

それはやはり個性という概念の幅が広すぎることに起因している気がします。

自分に障害があることをありがたがる人は、あまり一般的ではありません。

多くの人にとって障害はやはり「望ましくないもの」と解されるでしょうから、「そんな個性は欲しくない」と思うでしょう。

それを含めて「個性」と一括して、無理やりきれいにまとめようとしているところに違和感を感じている人もいるのかもしれません。

つまり、「ネガティブなものはネガティブなんだから無理にポジティブなものとしてとらえようとしなくていいだろ!」ってことでしょうか。

これは結構現実主義的な視点ですね。

例えば今の社会は、車いすで生活をすること自体に益があるように出来ていないばかりか、不便であることは明白です。

それなのに無理に「車いす生活を美化する」のは、何も実利的な面で意味があるとは思えません。

問題解決という視点から言えば、「車いす生活における不便が、可能な限り少ない社会をどうやったら作れるか?」を具体的に考え、実行することの方が変に美化することよりも車いす生活をする当事者にとっては益があるという事ですな。

「同情するなら金をくれ」という言葉に少し通ずるところがある気がしますねえ、、、。

ネガティブな個性のネガティブな側面は現実問題として直視しつつその個性によって引き起こされる不便等を「どうしたら解決できるのか?」という視点を持った方がいいという事かもしれません。

それに障害の問題に限らず、人は誰しも性格等に様々な短所を持っているので、「そろいもそろってみんなダメ」とか「どいつもこいつもみんなダメ」ともいえる感じもします。

「自分に欠点があることを認めること」や「自分が不完全であることを受け入れること」の方が、一般に短所と認識されるようなものを無理に肯定するよりもいいという事なのかもしれませんね。

まあ、この視点には一理ある気はします。

誰にでも長所があるのはマジだと思う

確かに、人には誰にでも「生存上不利になるだろう」といった要素がいくつかはあると思います。

まあ、その軽重は人によりけりでしょうが。

しかしその一方で、誰にでも長所はあると思います。

そして、その活かし方次第で活躍できるとも思っていますね。

まあ、こんな考えは綺麗ごとなのかもしれませんが、正直そうわたしは信じていますし、おそらく科学的にもそう間違った見解ではないと思うんです。

障害に関しても、それ自体に益はなくともその障害が、あったからこそ得ることができた経験や学び、そして人とのつながりもあるでしょう。

足りないところは人から助けてもらい、自分が人の助けるになれるところは助けになればいいって思いますね。

もちろん、欠点をもって自分ばかりが得をするための大義名分とするのは、いずれ社会から何らかの形で制裁を受けることになると思われるので慎んだ方がいいでしょう。

そして実利的な視点から、「みんな違ってみんないい」を「きれい事である」と断ずる人達の主張もわたしはよくわかります。

きれい事なんて問題解決の手助けには一切なりませんからね。

現実的には、役立たずの一言です。

ただ、無理にでも自分の欠点を個性であると捉えることは、精神衛生上は非常に有益である可能性があるとする研究もあります。

体型についていえば、「痩せようとしてダイエットする」とメンタルに悪い可能性があるそうです。

現代では一般に、「太っていることはよくない事だ」とされる傾向がありますが、「太っていることを個性ととらえなおして受け入れた」上で「健康のために運動する」と決めて結果として痩せることを目指すのがいいって話なんですな。

自分を否定するよりは、受容した方がいいってことです。

上述した通り、「みんな違ってみんないい」の「いい」は「良い」でも「善い」でもなく「ただそのようにあるだけでありそれでいい」と言う受容を意味する「いい」であると思いますから、わたしは「ネガティブな個性もあえて受容する」姿勢でいいんだと思います。

「欠点を認め受け入れて、そんな不完全な自分でもいい」と認識すればいいんと思うんですね。

まあ、セルフコンパッションの実践といった感じになりますかな。

「みんな違ってみんないい」という言葉の背後には、「不完全な自分の受容と他者の不完全性への寛容」がある気がしますなあ。

しかも、別にこの言葉は独りよがりな個性の発露を肯定するようなものでもないですしね。

おわりに


この記事は「「みんな違ってみんないい」なんて綺麗ごとで大嫌い?「どいつもこいつも皆ダメ?」」と題しておおくりしました。

「みんな違ってみんないい」という言葉は、一般に好意的に解釈されていますが、一方で否定的な見方をする人もいます。

例えば、この言葉に対して以下の様な意見がある模様。

・個性重視ばかりを重んじては、個人のわがままを助長することになる
・強者の理論のように聞こえる
・あまりに綺麗ごとがすぎる

まあ、言葉って解釈の仕方次第で色んな意味になるよなあ。

むっつかしいわ。

ま、そもそも文脈から切り離して言葉単独で解釈するっていうのは、慎みたいものです。

では!

引用
https://www.chichi.co.jp/web/20180929yazaki/

参考記事等

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