人並みの幸せは無理だからあきらめるというが人並みの幸せって何さ?

今回は以下の様な方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ

・人並の幸せが何かわからない人


・人並みの幸せなんて自分には縁がないと思っている人


・話しのネタが欲しい人等

脱マンネリストで心理カウンセラーのオニギリです!

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「人並みの幸せは無理だからあきらめるというが人並みの幸せって何さ?」という話です。

世の中には「人並みの幸せ」という言葉があります。

この人並の幸せを物差しとして多くの人は自身の現状を幸せか不幸か判断しがちです。

しかし、、、一体全体この「人並みの幸せ」とは何なのでしょうか?

結局、わたし達は自身が見聞きできる情報の範囲内で幸せを判断しているに過ぎないのだと思います。

常識を自分の中で転換する経験をすれば、「人並み」なんて概念は簡単に壊れていくでしょう。

「人並みの幸せ」という幻想にとらわれているなら、その幻想を一度脳内で徹底的に破壊するなり疑うなりする必要があると思います。

人並みの幸せにとらわれている人は、少しだけ今回の内容は参考になるかもしれません。

なお、独身の人は家族型ロボットのラボットを買うと少し気持ちが安らぐかも。ラボットについて詳しくはリンクからどうぞ。

では、ゆるりとおおくりします。

スポンサーリンク

人並みの幸せという名の幻想

「人並みの幸せ」等というものは厳密にいえば存在しません。

人並みの幸せ。

その響きに何を感じるかは人それぞれでしょうが、およそその意味するところは「普通の人が当たり前につかむ幸せ」でしょう。

「普通」とはまたとらえどころのない言葉です。

普通は「平均的」とか「常識的」とも言い換えられるかもしれませんが、実にその意味するところが判然としませんね。

結局、個人にとって「普通」とは、「特定の個人のこれまでの人生経験等を通してえてきた知識や情報に基づいて形成されるものでしかない」です。

例えば少々極端な例ですが人身売買や違法薬物が蔓延するスラムで生まれ育ち、少しでも油断するとさらわれて売り飛ばされたり最悪殺害されたりするといった極限状態で生活している人からしたら平和で何にも考えず外を歩ける状態や他人に強い警戒心を持たないのは非常識でしょう。

人は自分の見聞きした情報や経験によって常識や普通を決定していくもの。

わたし達は自分の観測できる範囲内でしか普通や常識をとらえられません。

この世に厳密にいえば、「全く同じ人生経験をしている人間は二人としていない」ので、ある程度共通項はあっても全員がもろ手を挙げて賛成するような普通なんてないのです。

なので、この世に本当の意味での普通や常識なんてものはまず存在していないと考えていいと思います。

人が「普通~だよね」と言っていたところで、そんなことは「その人にとっての普通でしかない」わけで、そんなことを真に受ける必要等ないわけですね。

「常識的にこうだよね」と言われても、「ああ、君にとってはね」で終わりでいいわけです。

いずれにせよ、「絶対的普通は存在しない。あるとすればその個人にとっての普通だ」という視点をずっと持ち続ける事が大事でしょう。

そうすることで、いちいち他人の価値観に引きずられることがなくなります。

自分の価値観と他人の価値観はある程度混ざりあわない様にきちんと分離し続ける努力が必要です。

他人と自身の価値観を混ぜあわせすぎると自分の心からの欲求すら感じ取れなくなるでしょう。

人並みとかよくわからない事を基準にすることの悲劇

人並みの幸せという基準にとらわれて、自身の幸せの在り方を模索する事は、不幸の始まりでしかありません。

わたしたちは自分が観測できる狭い世界で接する人や情報を平均化して普通を割り出しているに過ぎないので、視野を広く持てば今の普通がいかに普通でないかが見えてくるはずです。

ですので、「自分は人並みの幸せすら手に入れる事は無理なんだ」なんて悩みは不要なわけですね。

人並みの幸せなんてものは幻想でありそんなものないんです。

あるとすればそれは「あなたの頭の中にあるだけ」でしょう。

自分の幸せは自分の心に聞くことでしかわかってきません。

例えばわたしの話で恐縮ですが、わたしはスポーツ観戦に基本的に興味がありませんし、当然押しの選手もチームも存在しません。

まあ、アイドルとかもそうですね。

自分がスポーツをしたりアイドルとして活動するならともかくも、他人が活動しているのを見たところで何も感じるところはないわけです。

常時「ふーん」て感じですよ。

なのでわたしの場合、スポーツ観戦が大好きな人がスポーツ観戦を通して得られるような快感はスポーツ観戦では得られないわけです。

これは押しのアイドルが存在する人とわたし対比でもいえる事ですよね。

自分が価値を感じない事は自分にとっては本質的にはどうでもいい事なんですよ。

幸せも同じようなもんです。

「自分は人並みの幸せなんて無理だ」と言っている人は、「人並みの幸せ」なんて漠然とした言葉でごまかさずに「自分は何を幸せだと思っているのか」をはっきりさせることが重要なんですよね。

自分の中にある「幸せの要素」をしっかりと具体化してこそそれを獲得するべく行動できます。

結局、わたしの邪推ですが、「人並みの幸せなんて自分には無理」と言っている人たちは、「何とかして自分の欲しいものをあきらめるよう自分で自分に言い聞かせているだけ」なんだと思うんですよね。

要するに、「自分は人より劣っているから他の人が得られる幸せは得られないぞ」と自分に言い聞かせて、自分の本心を欺こうとしているってことです。

、、、まあ、こんなの人の勝手ですが、個人的にはもっと積極的に頭を使いつつ狂ったように取りに行ってもいいと思うんですよね。

自分の中でやり切ったと思えるほどにやり切ってしまえば、目的物が得られようと得られなかろうとある程度満足はできると思うんです。

可能性が少しでも残されているのに初めから放棄するのは、なんか違くないかな?って気分はします。

偉そうですいません。

とりあえず、「人並みの幸せなんて無理」なんて言葉は禁止ですよ。

こんな他者との比較に基づく不毛な言葉は封印して、「自分は何を得たら幸せになるのか、どうやったそれを得られるのか?」という問いかけに変更しましょう。

もっと、自分の心に素直になっていきたいものです。

最終的には、死を受け入れ狂気と共に進むのもいいんじゃないかね?

当ブログにて何度も言っていますが、「人なんていずれ死んで無に帰す存在」でしかありません。

どんな生き方をしても結局死んで最後に灰になってしまいです。

まあ、宗教観によっては、前世や魂がなんていう人がいますが、わたしはそういったものの存在は肯定していませんし嘘の類でしかないと思っています。

そんなわけですから、結果だけに着目すれば「もうどうしようもないくらい意味がない存在が人間」というものですよ。

この視点に立つと、人生の生き方はいくつかにわかれて行きます。

まず一つの道は「惰性と無気力」。

「どうせ生きていっても何もかも最後は失うのだから何を得ても無駄。だから何も疲れる事はせずただ寿命が来るまで生きて終わろう」

次に、第二の道は「願いをかなえるための邁進」。

「どうせ最後は死ぬというなら自分の心の中の願いに沿ってありったけの力を尽くして生きてみよう」

最後に、第三の道は「苦痛の損切り」。

「どうせこのまま生きていても苦しい事しかない。ならば、さっさと人生に自らの手で幕を下ろしてしまおう。そうすれば、この先生きている間に経験する苦痛を一切経験することがなくて済む」

まあ、どれが正しいとは言いませんしどれが正しいとも思いません。

どの道をとろうがそんなことは当人が判断すればいいだけの事で、他者にとっては全くどうでもいい事です。

生きるも死ぬも個人が自分の意思で判断すればいいだけの事ですからね。

いちいち外野が口をはさむのも違うでしょう。

本人が決めたなら仕方ないですよ。

まあ、国側がせっせと税金運んでくる働きアリが減って困るって思うくらいでしょうが、死んだ人間からしたらそんな事知ったことではありませんしね。

死んだ瞬間にこの世界は認知できなくなるので、ある意味で死者にとっては自身の死とこの世界の消滅は同時に起こる事象です。

死者からしたら死後のことなど知ったことではないでしょう。

ただ、わたしも心理カウンセラーですから、個人的には「第二の道がおすすめ」ではあります。

これは持論なんですが、人生の無意味さを受け入れ自分の終末期をきちんと見据えて初めて本当に自分が何をしたいかが見えてくると思うんです。

死という極限を見据えて初めて自分が何をしたら満足して死ねるのかが見えてくるってことですよね。

人生に意味はないですが、意味がないからこそ自分で人生に意味を自由に与える事ができます。

それこそが人生を生きる事の醍醐味なのかもしれません。

クサイ言い方をするなら、「自分の人生という芸術作品を作る」というのが人生を生きる事なのかもしれませんよね。

心理的に抵抗のない人には、一度「自分はどういった死に方をしたいのか、死に際に気分良くこの世をされるためにはどういきたらいいのか」について一度真剣に考えてみる事がおすすめです。

ある程度死を直視して「このままでは死ねないぞ!!」という熱い気持ちが沸き上がってくるなら、その気持ちを大事にして先に進むといいと思います。

わたしは、精一杯努力して途中で力尽きて死ぬのもまあそれはそれでいいとも思ったりしますよ。

あの岡本太郎さんではないですが、「食えなきゃ食えなくたっていいんだよ」みたいなマインドでしょうか?

その気持ちを強化して突き進めばきっと周りからは狂人とか変人等と言われることもあるでしょうが、まあそれでこそ何かできるかもしれませんし生きてて楽しいかもしれませんよ?

狂気をまとって生きるくらいで人生ちょうど良いんじゃないでしょうか?

人生狂ってなんぼかなって、わたしはそんな気がしますよ。

人生なんて、どうせ、いつか終わる宴です、思う存分踊り狂ってやりたいことやりつくして死ねばいいじゃないですか。

どうせ、死んだらみんな無くなっちゃうんですから。

とはいえ、世の中を破壊する方向に進む事はお勧めしませんよ。

わたしがそんなやつ増えたら嫌だっていう保身的な話でもありますけど、社会の破壊を人生かけてやるのは基本的に自暴自棄の末にたどり着いた最後の結論です。

そんな結論はまともな精神状態で出したものとは到底言えません。

自暴自棄になっている人には一度精神的に十分な休息をとってから再起を図ってほしいものです。

自暴自棄的になって出した結論は、おそらくあなたの本心ではないですよ?

まあ、そういう事です。

まずはしっかり休息をとる事が大事かなって思います。

ただ、精神状態の落ち込みなど関係なく社会を破壊してやりたいと思う人には何も言うことないです。

そういう人は、誰が何と言おうとやりますから、、、何言っても無駄ですよね。

「人の迷惑も考えろ!」と言って聞くのは、人の目を気にする人です。

他人のことなどはなから眼中にないという人間には抑止力などありません。

わたし達は自衛する以外ないです。

おわりに

この記事は「人並みの幸せは無理だからあきらめるというが人並みの幸せって何さ?」と題しておおくりしました。

人並みの幸せとは実にあいまいで内容のない言葉です。

人が思う幸せと自分が思う幸せは全く違うなんて事は往々にしてあります。

あまり他人がどういった価値観かといった事に意識を引っ張られないようにしましょう。

大事なのは自分の心の声ですからね。

自分の心が欲しいというのなら、それを得るべく努力すればいいだけです。

手に入れられるかはともかく悔いがないくらいに死力は尽くすべきですよね。

うだうだとゴタクや不満をいって何ら行動しないなら、何の成功も見込めないのは明らかなのですから。

どうせ、人生はいつか終わる宴、まあ精いっぱい踊り狂おうではないですか。

「人並みの幸せなんて無理」とか言い訳している場合ではありませんよ?

ま、そういう事。

では!

参考記事等

恋愛はしょうもないしバカバカしい?恋愛のメリットデメリット

「知能のchc理論と多重知能理論」知能を構成する能力因子は実に多彩

「祈るな!祈れば手がふさがる!」祈る暇があるなら具体的に行動だ!

スポンサーリンク

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事