「生きてると辛い事ばっかりで嫌になる。こんなんならいっそ生まれてこない方が良かったわ。これからもこんなつらい思いするかと思うとウツだわ。」
ふむ、まあ苦しいことがあるのはわかるが、それにとらわれすぎると人生が台無しになってしまうんよねえ。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「人生は苦しみに目を向けすぎると台無しになる「制御より手放し」」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
・人生苦しい事ばっかで嫌になってきている人
・話しのネタが欲し人等
・反出生主義気味な考えを変えたい人
人は生きているとそれなりに苦しみを経験するものですが、それを極端に回避しようとしたり嫌なものとして認識すると人生全体が非常に詰まらくなってしまいます。
個人的にその成れの果てというか、行きついた先の思想がいわゆる反出生主義という考えではないかと思っているんです。
反出生主義者たちの主張は結構人によってまちまちですが、およそ「生まれてこなければそもそも苦しみを経験することなどなかったのだ」という意識が強いのは共通するところと言えます。
このような考え方は理屈としては納得がいきますが、人生を台無しにしてしまうものであるともいえそうな気がするんですね。
人生を幸せに満足して生きるためには、人生の暗黒面ばかりを見つめるのではなくあくまでも「光の刺す方向へ行くにはどうするか」を考えねばいけないと思います。
反出生主義者達は、人生の苦しみに焦点を当てすぎなんですね。
苦しみに対してある程度オープンな姿勢を持つと幸せになれる気がするんです。
ちなみに、「「生まれてこなければよかった」を「生まれてきてよかった」に変える」思考方法についてはリンクからどうぞ。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
苦しみにとらわれると人生はクソになる
苦しみが好きな人なんてまずいません。
本能的に考えるなら、動物は快を好み不快を嫌うものです。
人間も例外ではありません。
例えば、以下の様な苦痛をあえて自ら欲する人はいるでしょうか?
- 他者から軽蔑される苦痛
- 自分がいくら頑張っても達成できない苦痛
- 大勢の前で完全に緊張して何も話せなくなる苦痛
- 自分の主張が誰からも受け入れられない苦痛
- 大事な人と死別する苦痛
- 大病や難病を患い辛い闘病生活を余儀なくされる苦痛
- 自分の身近な全ての人から見放されて完全に孤立する苦痛
、、、などなど
こんな苦痛は一刻も早くなくなってほしいと思うのが普通の感情というものでしょう。
しかし、時にこういった苦痛は人生の節目節目でわたしたちの前に立ち現れます。
そんな時、わたし達は運命を呪うかもしれないし「こんな事なら生れてきたくなかった」と思うかもしれません。
けども、一応何らかの形で自分の気持ちと一応の決着を付けて今まで生きているといえます。
そして、先人たちもそうやって生きてきたはずです。
もし、苦痛が感じられた時に苦痛を回避する事ばかりにとらわれるようになったなら、その先の人生で何をするにもまず「~すると苦痛を経験することになる、、、」という悪魔のささやきがいつも聞こえてくるようになります。
このささやきは、あなたを「人生をより幸せに生きるための挑戦や行動」から遠ざけて、あなたに「幸せになるために有効な行動をさせない」という回避行動をとらせることでしょう。
苦痛への著しい嫌悪とは、いわば「人生を台無しにする強力な呪い」です。
人生に苦痛はつきもの故、苦痛の存在自体を否定し「人生には到底受け入れがたい異物」として認識するならもう「人生は自壊せざるを得ない」と言えます。
いうなれば、苦痛の否定と拒絶は「自己免疫疾患」みたいなもんです。
自分の免疫が暴走して自分を攻撃しているような感じですね。
もっと具体的かつ体験的に分かりやすく言うと、目の前が見えないほどに大きなダンボール箱を持って歩いていく様なものです。
別にダンボール箱ではなく、紙でもボードでもいいので実際に自分の目の前を遮るようにもって自室などを歩いてみてください。
おそらく、「何かにつまずきやしないか」とか「前が見えなくて怖い」なんて気分になって足取りもかなり慎重になるのではないでしょうか?
では、今度はその目の前を遮っていた物を視界から外して歩いて見て下さい。
きっと、安心して歩けるようになったはずです。
「苦痛にとらわれる」とは、まさにこう言うことです。
自分の視界を「苦痛を感じる事への恐怖や不安」等が遮ってしまっては、人生の方向性も足元に落ちている危険やチャンス等にも一切目がいかなくなってしまうのですな。
一生この「苦痛を感じる事への恐怖や不安」によって視界が遮られているなら、人生の最終盤につぶやくセリフはきっとこうでしょう。
「自分の人生は苦しいばかりだった、、、」
そう、苦痛しか視界にはいらなかったのですから、これは当然の結果なのです。
苦しみにばかり焦点を当てると、人生を楽しむ機会がすべて奪い去さられ人生が台無しになってしまいます。
人生というパーティには望まれない客がつきもの
苦しみにとらわれると、「何とかしてこの苦しみを回避しよう、制御しよう」と躍起になりそればかりに人生が終始してしまいます。
これをよく表現できているものに、ホームレスのジョーのメタファー」というものがありますね。
ホームレスのジョーのメタファーの簡単な概要は以下の通り。
あなたは新居を手に入れたので、近所の人々全員を招いてお披露目会をすることにした。
招待客は近隣の人々すべて。
スーパーマーケットにまでお披露目会の案内を張り出した。
案内には「誰でも歓迎」と明示してある。
いざ、パーティーが始まるとわらわらと招待客がやってくる。
が、そこにはスーパーマーケットの裏に住んでいるホームレスのジョーが混じっていた。
彼はひどく臭うし場違いなみすぼらしい格好をしている。
あなたは「おお、なんでこんな奴までここに来るのだ!」と思うかもしれない。
しかし、案内に「誰でも歓迎」と書いた以上は起こりうる事態である。
もし「誰でも歓迎」と書いたものの彼が気に入らず追い出す事をきめたのなら、彼を追い出した後に彼が戻ってこないかどうか玄関に立って監視しないといけない。
またもし「誰でも歓迎」と言った手前彼を追い返せないとすれば、彼を台所などに閉じ込め「ここから出ない限りにおいては歓迎だ」というかもしれない。
すると、そこから彼がリビングに出ていかないよう見張る必要がある。
いずれの選択をした場合でも、あなたは「ジョーの監視」をしなくてはならないため、パーティを楽しむことはできない。
このメタファーが言わんとしていることは以下の二つです。
- 自分が望ましいと思う感情だけを感じられる人生こそが素晴らしいという幻想
- 望ましくない感情を追い払おうとすれば人生が好転するという幻想
以下簡単に補足してみます。
・自分が望ましいと思う感情だけを感じられる人生こそが素晴らしいという幻想
人は基本的に快を好み不快を嫌います。
ですから、「人生が快だけで構成されていたなら何と良い事か」と思うのは普通の感覚かもしれません。
しかし現実にはそんなことは無理ですね。
時にはやりたくなくてもやらなくてはいけないことはあるでしょうし、仮にあなたが独裁者であったとしても部下が思い通りに行動しないで腹が立つこともあるでしょう。
不快は生きる上では回避できません。
上掲の「ホームレスのジョー」のメタファーでは、「誰でも歓迎」と案内に書いたとありましたが、あれはまさに「人生には快も不快もあるので不快は避けられない」という事を意味しているといえます。
「案内に『誰でも歓迎』と書いた」、つまり「人生を生きている限り」は好ましく思えないかもしれないジョー、つまり不快な感情を「自分の人生というパーティーを楽しむためにあえてそのままにする」必要があるという事です。
反出生主義者たちがしばしば行う「そもそも生まれてこなければ」という主張は、「そもそもパーティ―を開かなければジョーはやってこないよね」と言っているのと同じことなんですな。
・望ましくない感情を追い払おうとすれば人生が好転するという幻想
多くの人は大抵ジョーが来たら、「なんて場違いな奴!!お前なんて呼んでないぞ!」と追い出そうとするでしょう。
しかしそれでジョーは大人しく帰るでしょうか?
いいえ、帰りません。
むしろ、追い出したら今度は玄関ではなく裏庭から侵入して食べ物にありつこうとするかもしれません。
せっかく沢山のごちそうがあるのですから、これを逃す手はありませんね。
もしかしたら、ホームレス仲間たちに「あそこの新居のお披露目会にはたくさんのごちそうがあるぜ。お前ら、この機を逃す手はない!」なんて言って、今度はホームレス仲間と共に大挙してくるかもしれません。
これはネガティブな感情を追い払おう追い払おうとするほどに、余計にネガティブ感情を強く意識してしまうという心理現象と同じ事なんですね。
ネガティブな感情はあえてそのままにしておいて、「ああ、今悲しい」のようにただその感情をありのままに認識するだけにとどめるのです。
そうすることで、感情に引きづられず自分は自分の人生を生きることに専念できます。
ジョーに対しては「あ、ジョーがいるな」と思うだけにして、無理に追い払わないのがパーティを楽しむコツという事です。
人生は何のためにあるのか?
人生というパーティを存分に楽しみ満足感高く幕を下ろすために必要なのは、「一体あなたがどんなパーティを開催したいか」という事です。
パーティのコンセプトは何でしょうか?
そのパーティで自分たちは客人たちにどう思われ、どう対応されたのでしょうか?
、、、そんな「一体何を重視したパーティにするか?」という事が、人生における「いったい自分は何を大事にして生きていきたいか?」という事なのです。
大事にしたいこととは、例えば「人を信頼する事」と「仲間と協力し合う事」とかが相当しますかね。
アクセプタンス&コミットメントセラピーではこうした「大事にしたいもの」の事を「価値」と呼んだりしています。
自分なりの人生の価値を見つけて、その価値にのっとって行動をすることで人生の満足度は高くなるはずです。
ジョーにかかりきりでパーティを楽しめない様にはしないというのは、不快感情にとらわれ人生の価値を見失わないようにするという事を意味しているといえるでしょう。
価値については以下の記事参照。
おわりに
この記事は「人生は苦しみに目を向けすぎると台無しになる「制御より手放し」」と題しておおくりしました。
人生というパーティには、不快な感情という望まれない客がつきものです。
連中を追い返そうとすれば、パーティは途端につまらないものになってしまいます。
というのも、連中が会場にはいらないか常に監視をしなくてはいけないからです。
不快な感情はそのままに人生の方向性を見失わないようにしていきたいものです。
まあ、言うほどたやすくないんですけどねえ。
では!