「人によっては心配されること自体を負担に感じるっぽいね。仕方が問題とかそういう話なら分からんではないんだけどねえ。」
うぬ、たまにそういった人いるよねえ。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「心配されるのがウザいと感じ るか嬉しいと感じるかは何で人によるの?」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
心配されること自体が嫌な人
心配されること自体がストレスな人の心理がわからない人
話しのネタが欲しい人等
世の中には、一定数「心配されること自体が嫌な人」というのがいます。
これは「心配した人の対応に落ち度があったかどうか」という問題ではなく、「そもそも心配されること自体がストレスになる」という意味です。
正直、わたし自身は適切な距離感で心配されるのであれば普通にうれしいたちですので、こういった人たちの心理について共感はできません。
とはいえ、一応推測はできるんじゃないかという事で、今回は「心配されること自体がストレスになる人」の真理について少しばかり考察してみたいかと思う次第。
ちなみに、「「生まれてこなければよかった」を「生まれてきてよかった」に変える」思考方法についてはリンクからどうぞ。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
1、心配されること自体を嫌がる人はあんまりいないと思う
心配ってなんでするのか言えば、およそその対象となる人にいくばくかの好感を持っているからでしょう。
「こんな奴どうかなっちまえよ。うっとおしいしクソだし!」なんて思っている相手の事を一々心配なんてしないはずです。
もちろん、程度によるでしょうが。
少なくとも、相手への心配の動機は基本的に好意なのです。
そう考えれば、心配されるという事は少なからず相手は自分の事を憎からず思っているのだという事になります。
なので、心配される事は基本的におよその人にとってはうれしいことのはずです。
なんせ、それは「あなたに対してある程度の好意は持っている」という意思表示と取れませうからね。
まあ、現実的には「体裁を取り繕うため」とか「相手の利害と自分の利害が関係している」なんてこともありうるわけですが、今回はそういった事は抜きにして話をすすめますよ。
2、何故心配されるのが嫌なんだろうか??
「心配する」という行動はある種の好意の表明ですが、心配の仕方によっては「お前距離感近すぎんだよ!」とか「何かこっちの行動を制御しようと圧力かけてんの?」みたいな感じにもなります。
詳しくは以下。
しかし、中には「もう心配されること自体がストレスで仕方ない」という人もいたりします。
何でこんなことが起こるのでしょうか?
これはあくまでわたしの推測ですが、心配されること自体が嫌な人は
「人から好意を向けられる事や誰かと一定以上親密になるのを恐れているのではないか?」
って思います。
心理学の知識を用いるなら、これは愛着スタイルでいうところの「回避型」の人達という事になりますね。
愛着スタイルが回避型の人達は、ある一定以上他人と親密になってくると逃げるように関係を遮断したりするんですな。
回避型になる原因については、遺伝の影響は無視できないものの基本的には幼少期の環境要因などにあるとされています。
愛着スタイルについては以下。
回避型の人は、基本的には自分に自信がないです。
そして、回避型はおよそ一見魅力的で自信満々に見える自己愛が強いタイプと「自分なんてどうせ誰からも愛されない」と思っているタイプの2つに大別はできるでしょう。
「自分なんてどうせ」と思っているタイプは、根気よく話し合い等を重ねていけば信頼関係を構築できそうな気がしますね。
しかし、自己愛が強いタイプはこれも困難そうです。
なんせ、「自分の自信のたりなさを補うために張りぼての自信を自己生産して身を守ってきた」んですから、彼彼女からしたら他人に弱みを見せるなんて言語道断なわけですね。
「弱みを見せたらつけこまれる」とか「優しくするようにしてどうせすぐ手のひらえして裏切るんだろ」みたいに思っているという事です。
で、結局、自己愛が強いタイプもそうでないタイプも「裏切られるリスクをとるくらいなら信じたくない」といった真理になっているといえそうでうな。
なので、他人からある一定以上好意を向けられると「これ以上自分の心にはいってこないでくれ!そんな好意は信じられないし、仮に信じるとなればいつ裏切られるかが怖くてたまらなくなる!」と距離を置こうとするって感じです。
3、相手に合わせた心の距離感の取り方が大事だなって話
回避型の人に限らず、それぞれの人にはそれぞれ「心地の良い心の距離感」というものがあります。
その距離感というものは、その人の生育環境や置かれている状況その他さまざまな要素によって影響をうけ刻々と変化し続けるものです。
なので、理想の上ではそうした心情変化や相手のニーズ等を感じ取り適切なタイミングで相手の心に配慮と経緯を示してアプローチをしていくのが肝要なのですね。
ただ、こんな厳密な事を考えていたらそれこそ人と付き合っていくのがおっくうになってしまいます。
ですので、「まあ、大体こんなところか」といったいい意味での適当さが必要とも思いますね。
とりあえず、「自分なりに配慮して相手を心配したはずなのになんか嫌そうな態度取られた」なんて時には、いちいちもう気にしなくていいです。
もう自分なりに頑張ったなら、「自分に非があったのでは?」なんて自分を責めることはありません。
そんな場合は、「まあ、あの人とは合わなかったんだなあ」と思って気にしないのが一番です。
それに自分なりに努力して上手くいかなかったとなると、今後も自分は頭をひねって心配してみたものの不機嫌になったりしお対応されるなんてことが起こるでしょう。
そんな事が起こるたびに自責の念に駆られていたら、身が持たないです。
なので、「もういいや」とどっか投げてしまうのがいいんですよ。
一休さんじゃないけど「気にしない気にしない、一休み一休み」て感じですな。
、、、てか、一休さんのセリフこれであっているよね?
となれ
おわりに
この記事は「心配されるのがウザいと感じるか嬉しいと感じるかは何で人によるの?」と題しておおくりしました。
人からの心配というものは、基本的に好意に基づくものです。
なので、普通は心配してもらってありがたいとか嬉しいと思うもの。
しかし、愛着スタイルが回避型の人に関して言うと、好意を素直に受け取るのは中々難しいため心配されること自体を嫌がるなんてこともあるようにあ思います。
まあ、何にせよ、その人その人に応じた心の距離感の取り方を日々模索していかないといけませんねえ。
正直、わたしは道の途中。
共に精進いたしましょうぞ。
では!