「最近、おもったが、世の中でやたら思いやりが大事だなんだって言われているけど、そもそも思いやりなんてそんなに大事か?そんなものより能力や才能といった力の方が大事じゃない?思いやりなんて弱者にしか必要ないだろ。」
ふむ、まあそういう人もいるかもな。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのオニギリです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「思いやりや優しさなんて本当はいらない、必要ない?「思いやりは誰のためのものか」」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
思いやりや優しさが本当に生きる上で必要なのか疑問な人
話のネタが欲しい人
世の中では何かと「思いやりが大事だ」と言われますねえ。
まあ、そういった世論を聞いていると、「あー、そうね」みたいにおもって「実際のところ思いやりがどれだけ必要なのか?」について思いをはせる事ってないですよねえ。
でも、よーく考えてみると、思いやりがなくても困らないのであれば、「そんなものいらねえじゃん!」て話になりますから、そもそも大事でもなんでもないですよね。
さて、果たして思いやりは大事なのか、、、、?
今回は少しばかり思いやりは本当に必要なのかについて考えてみたいと思う次第。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
出世したいなら思いやりなどいらない?
よくリーダーシップ論において、「よいリーダーは思いやりがあって~」みたいに語られることがありますが、現状は全く逆です。
むしろ、「自分の利益をいかに最大化するか」とかひどい場合になると、「自分以外は人間ではない」くらいの勢いで無茶苦茶な指示を飛ばす冷酷上司の方が大半かもしれません。
また、表面上は人格者を装っていたとしても、「思いやりのかけらすら持っていない」人達は大勢いるでしょう。
これは私の勝手な当て推量というわけではなく、書籍「悪い奴ほど出世する」でも同様のことが主張されているのです。
アメリカの場合ではありますが、いいか悪いかという事は抜きにして、組織で出世する人物は「組織の利益より自分の利益を優先する」といいます。
で、日本では道義性が問われる場面が多いので、おそらく出世していく過程で出世するような人は、「人格者を装うすべ」を身に着けていくのだと思われますね。
こんな風なことを前提にすると、もはや「出世には思いやりなんて不要。、むしろあると難航するから思いやりなんてなくすべき」という話にすらなりそうです。
ただ日本の場合は特に、対外的には「思いやりがあるように見せる」事は大事でしょう。
ちなみに、同書では「上層部が自己利益最大化しか考えていないのだから、会社では自分も自己利益をどう最大化するかを考えて行動すべき」と言った趣旨のことが言われていました。
まあ、個人的には実に腑に落ちる結論ですが、理想主義的な人からしたら心底嫌悪感を覚えそうな結論です。
おそらく、「出世」という局面においては思いやりはいらないってことになりそうですね。
思いやりのある人がモテるという大ウソ
よく一般には、「思いやりがある人はモテる」なんていわれていますが、一応これまでの体感やその他モテる人達の動向、心理学の知識などから考えるに「これは完全に間違っている」といえます。
思いやりが役に立つのは、付き合ってからの話です。
例えば、結婚生活の様な長期的関係では思いやりといったものは非常に重要になりますね。
しかし、関係が始まる前の段階では日本の場合だと、「顔が第一」、つぎに「性格」といった感じです。
しかも、ここで言う「モテる性格」には思いやりはいっていません。
恋愛という文脈においては、「相手を以下に自分に依存させるか」と言った事が重要なので、「強靭なメンタル」や「相手に自分を追わせられるか」といったことが大事といえます。
そういった意味では、冷酷非情なサイコパスの方がはっきり言って「思いやりなんて持っている人より圧倒的にモテる」でしょう。
事実、優しさだけが取り柄みたいな気の弱い男性たちは、見事に女性から相手にされていません。
チー牛とか陰キャなんて言われてバカにされることはあっても、「素敵」だなんて冗談でもない限り言われてません。
まあ、当たり前なんですよね、これって。
女性は「気の弱い男には本能的に惹かれない」のですから。
女性がよく言う「思いやりのある人が好き」は「思いやりのあるこびないモテるイケメンが好き」と読み替えてもいいと思いますね。
「思いやりがある人がいい」は所詮は理性に基づく判断です。
しかし、恋愛は「本能でするもの」ですから、理性でいくら「思いやりの重要さ」を理解していても本能の声が優先されるって話ですね。
なので、結局「いい人なんだけど、、、」でおしまいなわけです。
「モテる」という事に限定した場合には、思いやりは基本的に役に立ちません。
もっとも、コミュニティーで行う恋愛では、思いやりがやくにたつこともあるかなあ、、、、コミュニティ内での立場がそもそも問題ではあるけども。
思いやりを主張する人々の心のうちにあるもの
現実を見渡してみると、実はちまたで言われるような「思いやり」によって実益がある場面は少ない気がしてきます。
では、何でこんなにも世の中には「思いやりが大事」という主張があふれているのでしょうか?
一体こんな主張をする人は何が目的なんでしょう?
「思いやりが大事」なんて抽象的な事を言うのではなく、もっと具体的に現実に役に立つ処世術や論理を広めたらいいでしょうに。
ということで、個人的にことさらに「思いやりが大事」と主張する人達の心の内を推測してみもうした。
それが以下。
・自分が攻撃されたくない
・社会秩序の維持
・何も考えていない
・いい人アピール
・従順な使い勝手のいい道具を量産する
・感受性が強すぎる
以下順次簡単に補足です。
自分が攻撃されたくない
思いやりが大事と声高に主張する人の多くは、おそらく「自分が他人に攻撃されたくないから思いやりの大事さをことさら説く」のだと思います。
現実はどうなっているか、思いやりにはどういった機能があってどう役に立つかを話して、仮に「実益なんてねえじゃん」という話になったらかなり世の中に闘争が増える気がします。
そうなっては、自分の身を守るのが大変になるので、多くの人が「思いやりを持って相手を傷つけないように」と考えてくれた方が自分にとって都合がいいわけです。
で、おそらくですけども、思いやりを強く主張する人には結構「精神的に弱い人」や「社会的立場の弱い人」が多い気はします。
あくまで気ですけどね。
他者に助けてもらわないとやっていけない自覚が強いからこそ、「思いやりって大事だよね」と言っているという事。
まあ、でもこれは、心理学的にも妥当な可能性はあります。
権力を持ったりすると共感能力が低下するなんて話はありますが、これは「自分が生きていくのに他者の助けがあまり必要ではなくなっている」からだそうですからね。
中には、関係なくおもいやりなんてない人もいますが、基本的には「思いやりを強く主張する人は人からの助けがないとやっていけないという思いが強い」のかもしれませんなあ。
まあ、わたしも立場強くないんで、これはわからんではないですわ。
結局、「私はあんたをせめないからアンタも私を責めないでよね」というある種の不戦協定の呼びかけなわけですな。
社会秩序の維持
もし、「思いやりなんて役に立ちません!」なんて事が当たり前になってしまったら、世の中はそれこそ世紀末みたいに荒れ果てます。
万人の万人に対する闘争が起こるでしょう。
そんな風になっては生きにくいので、多くの人はなんだかんだ「秩序ある体制」を維持したいはず。
そうなれば、「思いやりは大事である」といったことを主張して、それをもって歯止めの一つとするって感じではないでしょうかね?
まあ、上述の「自分が攻撃されたくないから」というのと本質的には同じですけどねえ。
何も考えていない
中には、「思いやりが大事」と言っておけば、何となくいいこと言ったように聞こえて話がまとまると思っている人がいます。
心情系の話をするときに、よくとられる手法です。
「思いやり」って何なのかは中々難しいものですので、「思いやり」の一言でかたずけられては、「いや、結局何を言いたいのさ?」となりかねません。
でも、なんとなく「思いやり」といった言葉には追撃しずらい雰囲気があるので、それを言ってしまえばそれ以上ツッコミがあまり来ないっていう感じがします。
まあ、うやむやにするためのキラーワード的なものよね、、、思いやりって。
いい人アピール
ことさら「思いやり」という言葉を使う人達の中には、「わたしいい人でしょう?」といった「いい人アピール」をしている人がままいます。
まあ、個人的にはこういったタイプの自己顕示欲の強い人はあんまり好きじゃないっすね、、、。
「なーに、綺麗ごとばっかぬかしてんねん、タコ」と言いたい衝動にかられますわ。
まあ、よほど人から良く思われたいんでしょうねえ。
そんなに人の目を気にして何がしたいのか、、、。
あれっすかね?
自分が教祖になって教団でも作りたいのかな?
従順な使い勝手のいい道具を量産する
「思いやり」とセットで「相手の立場に立って、相手を傷つけないように」みたいなことを、学校ではよく教えられると思います。
こういった考え自体は、決して悪いものではなく比較的いいものの部類に入ると思うのですが、ただこういった考えを皆がしてくれるようになると社会で主導権を握っている人たちには実に都合がいい事があります。
それというのも、「思いやりがない=悪」といった思考パターンをあらかじめ埋め込んでおくと、様々な場面で相手の罪悪感を上手く使って制御出来るようになるからです。
言ってみれば、過度に思いやりの重要性を訴えることで、「相手にタガをはめて自由を奪い、自分たちの都合のいいように動かせるようにする」って感じでしょうかね。
「思いやりのある人であれ!」という方向で教育すると、もちろん人によるでしょうが「人を傷つけることはすべて悪だ」みたいな何も自己主張できない悪い意味で従順な人間性が出来上がる気がします。
まあ、でも、こういった従順な人間の方が為政者は使い勝手がいいですよね。
命令すれば文句ひとつ言わず動いてくれますから。
ただ、本来、「思いやりがある」とか「優しい」というのは所詮他者からの評価にすぎないため、個人的には人から「思いやりがあるだのないだの言われても、そんなこと大して気にする必要もない」って思っているんですけどねえ、、、。
まあ、難しいなあ。
感受性が強すぎる
あまり多くはないかもしれませんが、「思いやり」を声高に叫んでいる人の中には「自他の感情の境界があいまいな人」というのがいます。
要するに、他人の痛みを自分の痛みのように感じてしまうという感受性の強い人ってことです。
ま、本来、「他人の痛み」を分かることは絶対にできないのですが、他人が苦しんでいうるのを見て「自分も自分なりに実際に苦しい感情をもつ」という人が一定数いるんですよ。
こういった人にとっては、他者の痛みは他人事とは思えないため、ある種苦しむ人とは利害を一にするのです。
なので、「思いやりが大事」と声高に言う機会が増えるってことですわな。
ただ、本質的には最初の方で言った「自分が傷つけられたくないから」といったものと同義と言っていいでしょう。
でもまあ、そんなの当たり前の事よね?
誰も傷つけてほしくないもんな。
思いやりは他人の為にあるのではない
もうここまで読んだ人は気づいているでしょう。
なんで、思いやりが必要なのかを。
思いやりって結局のところ、「他人の為ではなくて自分のために必要」なんですよ。
確かに、心理学とかでは思いやりがあると長期的な人間関係が継続するなんて話がありますけども、これって「他人のため」ではなくて「自分のため」なんです。
思いやりがあることで良好な人間関係が構築できます。
実は、良好な人間関係は人生の幸福度を最も左右する要因だって言われているくらいですので、思いやりは自分が幸せになる上では欠かせないものなんですよ。
なので、「思いやりは自分のためにやるもの」ってことね。
ただ、ここで注意してほしい落とし穴があるんですよ。
それが「自己犠牲はするな」てこと。
誰にでも彼にでも思いやりをもって接すべきではないってことです。
自分に対して理不尽を要求してきたり、搾取しようとしてきたヤツの要求は突っぱねたり時にはやり返したりが必要だってことね。
もっとも、ここで言うやり返すって殴るとかじゃないよ。
まあ、とにかく、思いやりを実践するのであれば、まずは「相手のニーズをくみ取る」のが上手くなる必要があります。
思いやりとか優しさというものは「自分の中にあるものではなく、相手が評価し感じるモノ」ですからね。
ここを忘れるとただのお節介になるので要注意!
詳しくは以下の記事をどうぞ。
おわりに
この記事は「思いやりや優しさなんて本当はいらない、必要ない?「思いやりは誰のためのものか」」と題しておおくりしました。
思いやりは「出世」や「恋愛においてモテる」という局面においてはあまり役に立つとはいいがたいです。
しかし、だからと言って、「思いやりなど無益」と切って捨てるのも間違っているでしょう。
なんせ、良好な人間関係を構築していくためには思いやりは重要な要素だからです。
良好な人間関係があればこそ人生は楽しいし幸せといえるので、結局思いやりは「自分のためにするもの」なんですな。
なので、あえてわたしは思いやりが現実の実益にはあまり資さないことを踏まえた上で、言ってみたいと思います。
「思いやりがなくても、出世も恋愛もできるが、きっと思いやりがあった方が人生自体は幸せになるぞ!」
とね
自分の幸せのために、思いやりを大事にしましょうぞ。
では!
参考記事等