「儒教の教義ってなんかすごく堅苦しくて嫌いなんだけどさ、あれって心理学的にみて理にかなっているの?人として、なんて言っても何の具体性もないし、むしろみんなその言葉を人を服従させるために悪用してない?なんか、儒教の教義は人間をめっちゃ不幸にしそうな気がしてしょうがない、、、。」
まあね、私も昔はそんなことおもっていたなあ、、、。
おっと!
失礼!
オニギリス!
脱マンネリストのオニギリです!
今回もよろしゅう!!
今回の話題は少しだけ歴史っぽい話です。
あなたは仁や五常ってしっていますか?
この五常または五徳とは、儒教で説かれる5つの徳目ですね。
実はですね、聖徳太子さんの定めたとされる冠位十二階の徳仁信礼義智は、この五常に由来しているんですね。
今回はこの五常と仁義を以下の観点から理にかなっているか考察してみたいと思います。
- 人間関係を円滑にするのか
- 行為者の幸福感を増やしてくれるのか
まあ、多分に私見が混ざるんでそこは勘忍して下さいな(笑)。
とはいえ、あなたがなんらかの新たな見方や発想をえるのに役立つかもしれません。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
1、五常は儒教の徳目
五常または五徳とは、儒教において説かれる5つの徳目、つまり徳の分類です。
5つの徳目を列挙すると以下の通りです。
- 仁=思いやり
- 義=利欲にとらわれないで、なすべきことを成す。
- 礼=仁を行動として具体化したもの
- 智=知識豊富であること
- 信=友情に厚く嘘をつかない、約束をまもること
智はまんまですね。
では、仁は長くなるので後回しにして、仁意外に以下順次心理学的に考察を加えてみましょう。
・義
義は利欲にとらわれず、なすべきことを成す。
これ少しくせものですね-。
メンズの中にはなんとなくかっこよく思っている人がいるかもですが、ちょいと問題児です。
これが約束を守る、だったらわかるんですが、、、それは信ですからね、、、。
私見も入りますが、義はいうなれば「為政者のいいなりにさせるための徳」、つまり奴隷道徳としての側面が強い気がします。
しかも、実際は人間みな基本的に利己的です。
「利」のとらえ方が違うだけです。
例えば、人を笑顔にしたい人にとっては誰かを笑顔にする事が「その人にとっての利」です。
そう、利欲にとらわれず、、、、、人間には無理ですって!
ムリムリムリムリ!
言ってみれば「自己犠牲の推奨」、、、これはアダムグラントさんの理論でいったら搾取されて社会の最低辺に落ちろということとほぼ同義です。
人を不幸にする要素でしょうね。
ただ心理学的には、この義というものは「協調性」に相当するものなのかもしれないですな。
まあ自己犠牲と言っても程度の問題はあるので、あまり義を強調するのはあかんかもねってくらいに思います。
なお、利己と利他についての私なりの考えは以下。
・礼
礼は仁を具体化したものですが、具体例は「あいさつ」や「マナー」ですね。
マナーは相手への気遣いとも言えますが、マナーにはそれ以上の心理学的メリットがあります。
心理学では、人が仲良くなるのに大事な要素は「類似と帰属」であると言われています。
つまり、「同じグループに属しているという感覚」が大事ということを意味しています。
まさに、マナーにはこの「同じグループに属している感覚」を共有するという側面があります。
さらにいえば、マナーを共有することで「私達はお互いに敵ではない」という事を確認していると言えます。
人間にとって仲間意識は心地のいいものです。
礼は理にかなっていると言えるでしょうね。
あいさつの役割についてより詳しく知りたい人は以下の記事へどうぞ。
・信
嘘をつかないことは大事です。
理由は嘘をつくのが「非道徳的」だからではないですよ。
それをここでいったらトートロジー、つまり別の言葉を使って同じこといってるだけですから(笑)。
心理学では、相手を進んで信じた方が信頼されるという事がわかっています。
同時に、自分が嘘をつくと相手も嘘をついているんじゃないかと人間不信になるので、人を信用できなくなります。
人に対する不信感が増大するとメンタルにわるいですね。
よって、信は理にかなっています。
以上から心理学的に理にかなっている徳は信礼智ですね。
2、冠位十二階の制の徳って何?
はい、ちなみに上述の5つの徳目をみてなんか思いませんか?
聖徳太子さんが冠位十二階の制を定めるにあたって、この五常を参考にしたと冒頭でお伝えしましたね?
ここで思い出してほしいんですね。
冠位十二階っておおざっぱに分けて徳仁信礼義智でした。
仁信礼義智は五常であり、徳の分類でしたね。
なんで、一番頭に「徳」が付いているのか不思議ですね。
仁信礼義智みーんな、徳なのに。
なんかおかしい、、、。
実は、ここでいう「徳」は仁信礼義智を全て合わせたものとして設定されたそうです。
聖徳太子さんなりの独自のアレンジてやつですかね。
3、「現代的仁」は傾聴と冷たい共感
実は、孔子さんは「仁」を徳目の最上位に掲げました。
そう、五常で一番大事な徳です。
はい、仁ってなんですかね?
あれですよ、外科医が江戸時代にタイムスリップするとかそういう事ではないですからね(笑)。
一応上記では「思いやり」となっていますが、この「仁」の解釈は一筋縄ではいかないんですね。
どうやら、歴史的に色んな解釈がなされてきているようです。
事実、儒教の始祖である孔子さんの教えを弟子がまとめた「論語」には、具体的に「仁」が何かとは明記されていなようですね。
「仁」は「論語に」おいて、ある場合には「人を愛すること」、または「克己復礼(こっきふくれい)」、つまり私欲を克服し例を重んじることだと説かれています。
そして、一応具体的な心構えについてはあなたがよく聞くあの言葉で説明されています。
そう、「己の欲せざるところ、これを人に施すなかれ」です。
要は、「自分がされて嫌な事は人にするな」て言葉です。
論語が出典だったんですね-。
でも、この言葉は、それ自体だけを冷静に考えたらおかしいんですね。
なぜなら、自分がされて嫌なことでも、相手がされて嬉しいことはあるんですよ。
逆も然り。
カウンセリングをかじったもの(今年上級心理カウンセラーを受講していましたからね)として言わせてもらうなら、
「相手の話を深く聞き、相手の心理を冷静に分析して相手の望むことをかんがえなさい」
のほうがしっくりくるんです。
でも、そうじゃない。
「自分がされて嫌な事は~」の言葉のとおりに行動するなら、自分の立場で相手の立場を考えてしまっています。
元気になるのに一人の時間が好きな人もいれば、沢山の友人と触れあうことで元気になる人もいます。
人の性格なんて千差万別なんです。
言ってみれば、オーダーメイドですよ。
それなのにさも決まりごとのように、一律に自分目線を推奨している、、、、、、何かふに落ちない、てのが私なりの見解です。
でも、もしかしたら「原則はするなよ」て話なのかもですね。
まあ、私は中国思想史の研究者ではないのでそこまで突っ込んだ話はできませんがね。
そして、総括すると仁とは思いやりの心を持って万人を愛し、利己的な欲を抑えて礼儀を行う事だと言えます。
、、、なんかやたらと形式を重視している気がします。
ただ、儒教の成立した時代背景を考えるなら、形式へのこだわりは理にかなっています。
また、「自分がされていやな事~」という言葉にもそれなりの理由があったのだと考えられますね。
孔子さんが生きていた時代の中国は、戦乱の世でした。
時は春秋戦国時代ですよ。
そう、あの漫画キングダムの舞台となっている時代です!
キングダムを愛読している方なら分かると思いますが、春秋戦国時代はとんでもなく非道な事が当り前のように行われている時代でした。
いうなれば、ほとんどの人が裏切り、だまし、残虐の限りを尽くす時代です。
そんな、無法者が多い時代には現代みたいな、心の余裕なんて誰にもないんですよ。
現代みたいな「人の命は大事」なんて思想はありませんでした。
みんな明日襲われて命がないかもしれないなか、おびえながら生きていたはずです。
当時は現代の当り前が「当り前ではなかった」んです。
だから、私見ですが「自分がされて嫌な事は人にするな」という言葉には、孔子さんの
「おい!自分がされて嫌な事人にしたらあかん!あんたも同じ人間やろ?命をそまつにしたらあかん!」
という強いメッセージがふくまれていたのかなあとおもえてなりませんねえ。
そして、そんな無法者は理屈をいってもきかないので、「型」が必要だったとも言えますね。
そう考えたらさきほどの「自分がされて嫌な~」という昔の格言を現代的な感覚で解釈するのは、なんか違うのかもしれません。
そして、同じことが現代に生きる私達がこの言葉を使う時にも言えます。
昔と同じ意味でこの言葉を使ってはいけないってことです。
今と昔の時代の変化を考慮して、「現代だったらこんな風に考えた方がいいよね」と考えていくべきじゃないですかねえ。
だから、私は現代的な「仁」は、「相手の話を深く聞く傾聴と相手の心を冷静に分析してニーズを知るという冷たい共感」であると「仁」を再定義したいと思います。
そう、昔とは違い人権思想が芽生えた平和な世だからこその「仁」の在り方があってもいいと思います。
4、儒教は何でいけ好かないイメージなのか?
ところで、儒教と聞いて以下のように思う人も一定数いるのではないでしょうか?
- 堅苦しい
- 自由を束縛する嫌な教え
- しつけ
などなど、、、、特に若い世代の人達はあんまり儒教にいいイメージはないと思います。
儒教は礼義を重んじますね。
堅苦しくて当然ですね。
ただ、さきほど言ったように儒教が「戦乱の世に成立した思想」であることはしっかり理解する必要があります。
言って分からない無法者には「型」が無ければおさまらないんですね。
だから、礼義作法やら決まりごとを重視するって話です。
みなが聞き分けいいなら困りませんが実際はそうじゃない。
いくら理屈を説明しても聞かない、理解できない人はいます。
それを考えると、かの有名な会津藩の掟、「ならぬものはならぬ」にも一応の理があったという話です。
ただ、気をつけたいのは「一応の理あるからといって使うのが妥当かは別」って話です。
現代の日本は教育水準も高く、言って分かる人はそれなりに多いはずだと思います。
やはり、現代では原則どんな時も言葉は尽くすべきです。
最後の最後どう仕様もないところでしか使う事はゆるされないのが「ならぬものはならぬ」ではないかとおもいますねえ。
なお、個人的には「人を殺したらいけない」なんてのも「ならぬものはならぬ」の一例だと思います。
そして、儒教思想の例をあげるなら、よく言われる「年長者を敬う」もその一例です。
しかし、現代の資本主義の時代に生きる人、特に血気盛んな人からしたら「成果が全て」だったりするので、「年の功」など無益の極みと言うでしょう。
事実、成長や競争が尊ばれる時代です。
年功序列制度も完全に崩壊してはいないものの、確実に崩壊へむかっているでしょう。
年をとったからではなく「何ができるのか」でしか評価されない傾向はますます強まりそうな気がします。
しかし、その競争もほどほどにしないとまた「戦乱の世の二の舞」になりはしないかって話ですね。
そう考えるといつの世も「型」はある程度必要なのかもしれないですね-。
5、武士道にも通ずる五常
まあ、察しのいい人は気が付いているでしょうが、武士道にも儒教の五常の考え方は反映されています。
ただ、武士道自体の成立は諸説ありハッキリしていません。
ただ、確実に言えるのは江戸時代以前の武士道はもっぱら「実際の戦いでの活躍」に力点が置かれていました。
それが、江戸時代に突入すると武士道は内面的な強さを追求するようになります。
そこで武士道に儒教的考えが色濃く反映されてきます。
しかし、五常の場合とは違い、武士道では「仁」ではなく「義」が最重要とされました。
これは私見も入りますが、徳川幕府の安泰のためには、
「幕府の都合がいいように働き、都合が悪かったら自分で罪の意識を持って死んでくれる従順な奴隷がほしい」
という思惑があったように思えてなりません。
まあ、統治する側としては当然と言えば当然の発想と言えますな。
そう考えると、「義」だけはどうやっても好きになれないし、認める訳にはいかないですね-。
参考https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00665/
6、仁義は現代に必要なのか?
ここで言う仁義とは義理のことです。
仁義が義理であるなら必要といえます。
ただ、義理も辞書を見てみたらわかるんですが、、、とってもあいまいで意味が判然としません。
だって、コトバンクさんで調べても、「人として守らなくちゃいけない正しい道」なんて感じの何も具体性のない意味が普通にでてきますからね?
「人としてって何?具体的には?」て話です。
ちなみに、この「人として」はいい人のふりした支配欲の強い人が多用する言葉です。
そんな人をカバートアグレッションと言いますね。
あなたも十分注意して下さいね。
ところで、人の定義とはなんでしょう?
哺乳類人科の、、、て話でしょうか?
やっぱりわかりません。
はい、そこで複数ある義理の定義から解釈できそうなものを抜粋します。
すると、こんなのがあります。
2 社会生活を営む上で、立場上、また道義として、他人に対して務めたり報いたりしなければならないこと。道義。「義理が悪い」「君に礼を言われる義理はない」「義理をわきまえる」
https://kotobank.jp/word/%E7%BE%A9%E7%90%86-53569
んー、この内容からするとマナーのようでもあります。
あと、好意を受けたら好意で返したくなるという返報性の原理の要素も感じます。
まあ、義にみられる自己犠牲の影もない訳ではないですが、、、そこまでではないですね。
もし、マナーに近いものであるならば、心理学的には義理を欠くのはよくないですね。
義理を欠くのは、人生で幸福感を減らす要因となりそうです。
ということで、義理は守ろうね! て結論でいいでしょう(雑w)。
おわりに
この記事では五常を以下の観点から心理学的に妥当かを考えてみました。
- 人間関係を円滑にするのか
- 行為者の幸福感を増やしてくれるのか
この観点から検討した結果、五常の中の「義」を重視しすぎるとあんまりいい目に遭いそうにないです。
皆が皆いい人ではないですので、付け込まれる可能性がありますからね。
そして、昔の考えを昔のまま現代に適用するのはなんか違うのではないかとも述べました。
過去の時代背景を調べてから、現代にあったように解釈しなおすのも一興ではないかと思いますね。
そこで、私なりに仁を再解釈した場合、現代的な「仁」は「相手の話を深く聞く傾聴と相手の心を冷静に分析してニーズを知るという冷たい共感」であると述べました。
まあ、この記事はあくまで心理学的に(それも私の浅知恵w)で考察したものなんで、そこんとこよろしくです。
まあ、私の知識不足をありますからね、論理的にも足りないことだらけですよ、うん。
でも、「へー、そんな変なとこから見るやつもいるのね」と考え方のバリエーションの一つとして考えてもらえるとありがたいです。
なにか、あなたにとっての新しい発想を思いつくためのヒントが、この記事にあったらいいなって感じで、ここでおしまいおしまい。
では!
参考記事等