「わたしよく思うんだ。一体何のために自分は生まれてきたんだろうって。理由がわからないからいつもモヤモヤするし自分の人生を自信をもって生きれない気がする。」
ふむ、確かに生きる意味が分からないってよくある悩みよねえ。
ワイもそんなこと考えてた時期あったなあ。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「自分の存在理由がわからない、自信がない人ほど見えないものにすがる。」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
・見えないものを信じる事の良し悪しについて考えてみたい人
・自分に自信がない人
・話しのネタが欲しい人等
最近になって、わたしは思うことがあります。
それは「自分の存在理由や生きている意味が分からないという人ほど目に見えないものをやたらと信じたがる」と。
これは客観的な証拠があるわけではないのですが、なんかそんな気がするんですよね。
別に、何を信じるかなんて個人の勝手ですからとやかく言う必要など本来ないのですが、どうも見えないもの、いわゆるスピリチュアル的なものに「入れ込みすぎている人達」はメンタルが不安定でどこか妄想的というか現実に適応できていない気がしております。
そういった状態になっている人達をみていると「見えないものにすがりすぎて酷い現実逃避をしているように見える」んです。
わたしは完全に部外者ですが、なんかわざわざ人生をつまらなくしている気がして仕方ありません。
、、、、いいお節介なわけですけどね。
とりあえず、自信がないからと言って安易に証拠がなく何とでも言える見えないものにすがりすぎるのは注意してほしいところがあります。
そうでないと、現実の社会や人間関係にかなり不適応になって豊かな人間関係を築けず、結果幸福度が下がるのではないかと思っておる次第。
自身の根源の割合は自身の客観視のためにも、なるだけ現実に即したものにしていく事が望ましいとわたしは愚考しますよ。
ここで一瞬だけ宣伝?ですが、「悩みがあんよなー」て人も「ただ誰かに愚痴を言いたいねん!」て人も悩みが重症化する前に頭をクリアにしてみませんか?
おにぎりのカウンセリングについて詳しくは以下。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
目に見えないものを信じ、たよりにすること自体は悪いことではない
目に見えるものを信じそれを頼りにする事自体はわるいことではありません。
人は根拠なんかなくても、漠然と神や運のようなものを信じていたりします。
いわゆる「根拠のない自信」なんてものもそうですよね。
あれも目に見えるものではありません。
なので、わたし達は日頃から誰しも何らかの目に見えないものを信じながら生きているといっていいわけです。
しかし、同時に「現実社会をしっかりと認識する」という事が欠かせないわけですな。
で、わたしは概して、いわゆる霊的なものを信じる人達には
「過度に視野が狭くなり何でもかんでもスピリチュアル的な文脈で意味づけしようとしてそれ以外の論理を受け付けない」
という視野の狭さを感じるので問題だと言っているのです。
例えば極端な例ですけども、自分が一切勉強を真面目にしなかったせいでテストの点数が悪くて試験に受からなかったのを、「これは時期が悪かったんだ。宇宙からのエネルギーを受け取れなかったからだ」とか言い出したらどう思いますか?
控えめに言っても、「こんな非論理的な思考するようじゃ、そりゃあ試験なんて到底受けりっこないだろうな」とあきれる以外にありませんよね。
先ほど根拠のない自信も見えないものの一種という話をしましたが、根拠のない自信があってもテスト勉強しないとテストに落ちるのは同じことですな。
まあ、結局「ちゃんと現実をみろ!」ていう事です。
ちなみに、わたしは当ブログで少々スピリチュアル的なものを信じる人達を敵視しているような記述をしているものの、わたし自身はスピリチュアルを信じる人達自体を軽蔑しているという事はないです。
考え方自体は意味が分からず気持ち悪いと思うところが多々ありますが、「人そのものに敵意はない」ですね。
もうそれは本人たちの自由ですし、神やら魂やらがあるとかないとかなんて証明もできませんから「あると思ってんならいいんじゃないの。わたしはないと思ってるけど」て感じで知ったことではないって感じです。
ただ、こういった人たちの中には証明できないのをいいことにあることないこと言って人を扇動したり死者を冒とくしたりするクソ、、、いや外道がちょくちょく見受けられるためかなり個人的にイメージが悪いんですよね。
この間もお亡くなりになられた歌手の神田沙也加さんの霊言をする等と称して不快な動画を配信している自称霊能者とかがかなりいましたけど、「この野郎。死者を冒とくしやがって」といささかむかっ腹がたったものです。
魂とか天上界がとか、、、聞くだけでこういった連中の事が思い出されて、何か気に食わないわけですな。
お亡くなりになった方々が何も言えないのをいいことに、そういった方々の意見を代弁すると称する、、、てね、正直ふざけるのも個人的には大概にしろって思ったりします。
まあ、ちゃんと物事を判断できる人は、「また気持ち悪い嘘つきがなんか言い出した」と思うはずですけども、やっぱりなんか気に入らないです。
というか、こういうのって相手に対して反論弁解の余地を与えないところが一番悪質なんですよ。
わたしが死者に対してあれこれ言うのって心底下品だなって思うのは、多分それが一番大きい気がしています。
目に見えないものには何とでも言えてしまう怖さがある
目に見えないものは存在が証明できないため、何とでも言えてしまう恐怖があります。
まあ、悪魔の証明というやつですな。
先ほど言った根拠のない自信の場合もそうですが、よって立つ基盤が不明確なのにもかかわらず「それはまちがっていない」と考えすぎると、かなり現実に適応できなくなってしまうことがあります。
特に問題なのは、物事の因果関係を正しく見れなくなってしまう事でしょうか。
いわゆるスピリチュアル的な文脈で、例えば「今の自分が苦労しているのは前世の行いが悪いから」とか「苦労しているのは魂の格をあげるため」みたいな荒唐無稽な空理空論で物事を解釈するようになると問題を現実的に解決できないことになりかねません。
いうなれば、これは自分が地獄にいるのに無理やりそこを天国だと思い込んで肉体が滅ぶのをただ座して待つというある種の狂気と言ってもいいかもしれませんな。
まあ、心理学的に言うならもはやこういった状況は「酷い認知の歪み」と言った印象を受けます。
かなり狂信的で視野狭窄甚だしいといえるでしょう。
何とでも言えるものを過度に信じることは、大変危険なのです。
どんなにしんどくても客観的に状況を見るよう努めないと何も解決はしません。
ただし、客観的に目に見えるもの(データ等)であっても扱い方を間違えるととんでもない誤回答を導くので注意が必要ではあります。
それもまた確かです。
スピリチュアルの様な見えないものに過度に熱中するのは現実逃避をしているだけ?
いわゆる見えないものに過度にすがる人達というのは、わたしが見てきた限りではかなり狂信的で視野が狭い印象です。
そして、自分自身に自信がなくその存在理由などを何か超常的な何かに求め現実から何とかして逃避しようとしているようでもあります。
現実的課題に対して何の解決にもならなそうな事を一生懸命に信じている感じです。
しかし、このような状況に陥っている人たちをののしったところで意味が全くありません。
真に考えるべきは、「なぜスピリチュアルの様なあやふやで不確かなものに彼彼女らはすがってしまったのか」という事こそ真に考えねばいけないことです。
我々はあくまでも現実世界に生きているのであり、妄想の世界に住んでいるわけではありません。
しかし、誰しも時に妄想の中に逃げたくなる時があります。
ただ、大抵の人は一時的に妄想へ逃避をしても現実に戻ってくるものです。
おそらくですが、いわゆるスピリチュアルに傾倒する人たちは「妄想へ逃避したっきり戻ってこれなくなった人達」なんだと思っています。
では、なぜ戻ってこれなくなったのか?
これも推測の域を出ませんが、例えば以下のような理由があるのではないかと思います。
・常態的に精神状態の変動が激しく不安を感じやすい気質をもっている
・メタ認知能力(物事を客観的に見る能力)が鍛えられておらず視野が狭くなりやすい
以下、それぞれ少し補足です。
・常態的に精神状態の変動が激しく不安を感じやすい気質をもっている
不安を感じやすい人は、ただの模様が人の顔に見えやすいなんて話があります。
まあ、パレイドリア現象というやつです。
おそらく模様に限らず、不安を感じやすい人は、不安を感じにくい人とは違ったものの見方をしている可能性が否定できないと思います。
事実、人はストレスが多い状況下では認知機能が低下するといわれていますので、不安を感じやすい人は何かを誤って認識する確率が結構高いのではないかと思うんです。
よく不思議体験をするという人などを見ていても、そういった人たちはおよそ不安を感じやすい傾向にあるように思われます。
そして、こういった人たちは大抵こういいます。
「他にもわたしのような不思議体験をした人はいる」と。
しかし、これは何の説得力もない話です。
なにせ、不安を感じやすい人同士であれば同じような誤認識をしていてもおかしくないので、持ち出すならば最低でも「不安を感じにくい人」とか「その体験時に安定した精神状態だった人」の体験でないとだめです。
それに「~は~であるはずだ」いう無意識下での思い込みにより、その事実を補強する証拠ばかりに目が行くという偏向バイアスの存在も無視できません。
いずれにせよ、精神が不安定な人の不思議体験を信用することは非常に困難を極めます。
・メタ認知能力(物事を客観的に見る能力)が鍛えられておらず視野が狭くなりやすい
人によっては、凄く物事を思い込みやすい人というのがいます。
いわゆる馬鹿正直とかバカ真面目なんて言われるような人もそれに相当するのかもしれません。
こういった人たちには、物事を批判的に見る能力や自分の現実での立ち位置を客観的に見るメタ認知能力が欠如している傾向があると思います。
物事に対する批判精神が足りないと、聞いた情報をすぐに鵜呑みにしてしまうので「これは本当なのか?」という思考ができません。
ある意味素直であるとも言えますが、それが故に間違った情報をいったん信じだすともう取り返すがつかないことになります。
例えば、上述したように、現実にそぐわないようなおかしな土台から現実の因果関係を解釈しようとするようになるので、いつも努力が空回りして一向に状況が改善しないわけです。
あげく耳障りのいい妄想へと逃避して、もう戻ってこれなくなってしまうといった感じでしょう。
なので、結局は以前から言っている通り、
「見えないものになんて頼るのではなく現実的な観点からストレスを減らすよう努めて精神を安定させましょう」
という事ですね。
よって立つ基盤はあくまでも現実に求めよう
別に目に見えないものを信じたっていいに決まっていますが、「現実の因果関係を見失わない程度にとどめておくよう努める」のは忘れないでください。
メンタルケアを徹底するとともに、どんなに些細な事でもいいので日々成功体験を積んでいきましょう。
その成功体験がかけがえのない自信の源泉となります。
我々はあくまでも現実に生きているのであって、妄想の中に生きているわけではありません。
例えば妄想の中で「空もとべるはず~」なんて思っていても、実際にビルから命綱もなくダイブしたら地面に激突して即死しますよね。
これは極端な話ですけども、常に批判能力と安定したメンタルを保つよう心掛け、あくまでも現実的な視点からものを見るよう心掛けたいところです。
そして、例えば神のような不可解なものを信じるくらないならば、自分が人生に対して求めている事をはっきりさせそれに沿って生きていった方がよほどいいと思います。
人生に求めているものをはっきりさせたい人は以下の記事を参考にしてみて下さいな。
おわりに
この記事は「自分の存在理由がわからない、自信がない人ほど見えないものにすがる。」と題しておおくりしました。
今回はかなり主観的な持論を展開してしまいましたが、まあ仕方ないですね、、、こんな時もまあありますわ。
とりあえず、自分があくまでも現実に生きているのだという事は強く認識して、よって立つ基盤は現実の中に求めるようにしたいものです。
妄想の中に救いはないです。
では!