「本当に昔っからわたしは「人はなぜ生きるのかどこへ行くのか、、、」みたいなことをついつい考えてしまうんだよな。人には普遍的な生きている意味なんてあるんだろうか、、、。」
さあ、んなもん多分人間には分からんだろうから考えても答えなんて出ないだろうね。
それにそもそもそんな事どうだっていいとは思うけどねえ。
ま、人それぞれかね、それは。
心理カウンセラーのオニギリの中の人、ぐれんです
今回の話題は「「人はなぜ生きるのか?」なんて暇な時の暇つぶしに考えていればいい」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
・人はなぜ生きるのかについて少し考えてみたい人
・何となく生きるのに疲れた人等
・話しのネタが欲しい人等
「人はなぜ生きるのか?」と聞かれたら、あなたはなんて答えるでしょうか?
「本能が生かそうとしている」から?
それとも「次世代に何かを残すため」ですかね?
、、、まあ、いろんなものがあると思います。
ただ、一つ言えることがあるとすれば、「どれも絶対的に正しい答えにはなりえない」という事でしょう。
個人的には「本能だから」が一番しっくりきますが、正直それとて徹底的に理屈を詰めていったら、、、まあ分かりませんよな。
なので、「人はなぜ生きるのか」なんてもう各々が勝手に何か思ってりゃいいじゃないかっていうのが個人的見解です。
その考えを他人に押し付けるのは論外としても、何と思っていても別にいいと思います。
で、実は以前の記事でも言った事ですが、こういった「なぜ人は生きるのか」みたいな答えのない問いに答えようとするとストレスが減少するという話があり定期的に答えのない問いに答えようとするのは有益なのです。
人はなぜ生きるか自体は「そんなこと一個人からしたら知ったこっちゃないしどうでもいい」ですが、その問いに考えてみる事には益がありますね。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
人はなぜ生きるのか?、、、んなこと知らねえよ!
「人はなぜ生きるのか」という問いについては、古来より様々な宗教が答えらしいものを用意してきましたし現代でもいわゆるスピリチュアルの人達が魂やらなにやらよく分からないものを根拠に色んなロジックを唱えております。
まあ、でも正直わたしとしては、どれも「へ!下らねえ、どれも茶番だろ。知ったこっちゃねえよ!」と言った感じです。
というのも、人間も結局は自然の産物なわけですからおそらく人の生きる意味を理屈でしっかりと理解しようと思ったら、自然の摂理の根幹を余すところなく解き明かすことが必要になると思います。
ただそんなことは現実的ではないし、可能なのかすらわかりません。
個人的には「まず絶対に不可能だろう」て思ってしまいますけどねえ。
なので、わたしは「分かりえないものについては口を閉ざす」のが一番正しい在り方でないかなって思ってしまうんですよね。
もちろん、自然科学の研究者が自然の全てを余すところなく説明してやろうと熱意をもって研究するのは大いに意味があることですけど。
ただ、分かりえないものについて「~だ」みたいな断定はするべきではないよなっていう話です。
まあ、人が自分の生きる意味を欲しがるのは当たり前ですし、わたしもそういった時期はありましたから、意味を求めることを愚行だとは思いません。
しかし今となっては人の身である以上知りえないのであれば、「別にそんな大層なもの知らなくてもいいや。まあ生きているもんは生きているんだしー」くらいに適当に考えるようになりました。
あと、あんまり自分の生死にこだわる事をやめたという言い方もできるかもしれませんが、「別に人なんていつ死ぬかなんてわかんねえんだし、まあ、別にいつ死んでもいいわ」と自分の命に関しては結構開き直っている模様。
まあそんな感じだから、わたしに関してだけの話ですが、「人生に飽きたらさっさと死ぬ」て感じなんですよな。
他の人の命は別として、わたし自身に関しては「生きている事自体が素晴らしいとは全く思わない」んですよね。
正直、わたし自身は、「まあいつでも死ぬなら死んでいいよ」って感じでいるんで、あんまり自分の命に関しては重くもなんともないんですわな。
ま、これはわたしがそもそも死んだら全て無に帰すって前提に立っているからかもしませんがね。
生きる意味を考えること自体には益がある
生きる意味なんて知りませんし、人間の知性で知りえるのかよくわかりません。
少なくとも、個人が勝手に妄想を膨らましたってきっと分かるなんてことはないでしょう。
それに正直、そんなもの知らなくたって困りはしません。
「人はなぜ生きるのか」なんてどうだっていいです。
「生きているものは生きている」でもういいでしょう。
ただ、こういった問いのない答えに答えようとすることで、「メンタルが安定する」とか「体内炎症が少なくなる」可能性があるという研究があるんですな。
詳しくは以下。
ですから、「人はなぜ生きるのか」という問いは正直自然科学の研究者が研究するのでもなければ、無駄も無駄な感じがしますが結構実益があるんですね。
定期的に休日の暇な時間等を利用して、「人はなぜ生きるのか」について思いを巡らしてみるといいと思います。
これも立派なストレス対策と言えるでしょう。
ちなみに人の脳は本能的に自身の死を拒否するものです。
なので、死にたいという気持ちが起こるのは、脳がストレスによって誤作動している状態だともいえるでしょう。
という事で、日々のストレス管理は大事なんですね。
答えのない問いに答えようとする他にも、色んなストレス対策を用意して出来るものから実践していきたいものです。
ストレス対策については以下の記事等を参考にしてみて下さいな。
「人は何故、、、」ってのは主語がデカすぎるんだよ!!
人は誰でも「自分の生きる意味」を欲しがるものですし、実際のところ「自分の生きる意味」があった方が幸福度は上がります。
それは間違いないんですが、中には「自分の生きる意味」を探求するために「人の生きる意味を探求しようとする人」がいるんですよ。
こんな事していたら、自分の生きる意味なんて見つかりっこないです。
こんな発想で自分の人生の在り方を考えようとすると、往々にしていわゆる宗教を当てする羽目になります。
まあ、わたしはいわゆる特定の宗教を信じる事が悪だとは思いませんが、あんまり賢明だとは思っていません。
目に見えないものなんていくらでも何とでも言えてしまうので、何が正しいかなんてよくわかりません。
なるべく根拠とすべきは、現実的なものにすべきだと思ってしまいますね。
で、生きる意味なんて、それぞれの人がそれぞれにあったものを各自選択すればいいだけの事でそこに普遍性なんて一切必要ないです。
では、各自どうやって生きる意味を見つけたらいいかと言うと、それは「自分の大事にしたい価値」というものを見つければ解決ですな。
「価値」を見つけたら、あとはそれに沿って生きていけば人生に充実感を感じることができるはずです。
価値の見つけたとその価値とのつながり方については以下の記事を参考にしてみて下さいな。
参考記事等
あと完全に余談ですが他の人との関係は一切抜きにして、わたしは「自分の意識こそが自分の人生を支配する神である」みたいな考え方をしております。
なので、極論ですが、「自分だけが自分の人生を左右できる神」くらいに思っているのです。
ですから、「自分に本当の意味で命令できるものは自分以外には誰も存在しない」んですわ。
ただこれは他の人にも言えて、わたし以外の全ての人は「その当人の人生における神」なんですよな。
なので、全ての人には一定の敬意を払わねばいけないわけです。
お互いは対等なわけね。
ま、、、でもそんな考えのせいで、「自分の人生の終わりは自分で決めないと気が済まない」が感じになっているのは皮肉ですけどねえ(笑)。
わたしは間違っても老衰とか病死とかは嫌です。
自分の死期は自分の意思で決めないと気が済まないんですわ。
「自分以外に自分の命日は決めさせない!決めさせてたまるか!」てのが本音です。
まあ、多分これって世間的には相当変な考えだと思いますが、、、、思うもんは仕方ないですな。
ま、今後変わるかもしれませんけど。
おわりに
この記事は「「人はなぜ生きるのか?」なんて暇な時の暇つぶしに考えていればいい」と題しておおくりしました。
人はなぜ生きるかなんて正直、一個人が知りえる範囲を超えているので分かりませんし、それにそんなものはどうだっていいです。
「自分が生きている意味」を知りたいのであれば、自分の大事にしたい価値を各々見つけてそれに沿って生きていけばいいだけの事ですね。
なんで、「人間の生きる意味→自分の生きる意味」と言った順序で自分の生きる意味を見出そうとするのかって話です。
これじゃあ、宗教にでも頼らないとどうにもならなくなります。
まあ、個人的には目に見えないものを根拠にするのは賢明とは思わないので、なるべく神とか魂とかそういったあやふやなものは排除してなるべく現実に根を下ろした考えに基づいて生きた方がいいと思いますね。
まあ、、、そんなの人の自由ですけどねえ。
あと後半は凄くキモい話になったのでスルーしてくれると助かります。
では!