神は乗り越えられる試練しか与えないは大嘘。試練を作り出してるのは自分自身だ。
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「神は乗り越えられる試練しか与えないっていう言葉がわたしは心の底から大嫌いだ!!何故って?だってさ、そもそも試練なんていらないって話。誰が試練を下さいなんて言ったんだよ。誰もそんなゴミを欲しいって言ってねえよ!勝手にゴミを送り付けてくんなし!ふざけるな!試練なんて一切なくていいよ。何も苦悩のない安らかな日常だけでいいよ。試練なんてくそくらえ!」

んー、そうねえ、ほしくもないのに試練なんていらんわな。

オニギリス!

脱マンネリストのオニギリです!

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「神は乗り越えられる試練しか与えないは大嘘。試練を作り出してるのは自分自身だ」という話です。

今回の記事は以下の様な方に向けておおくりします。

こんな人が読むと役に立つよ
  • 「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉がおかしいとおもっている人
  • 苦労や苦痛なんて感じたくないと思っている人

早速ですが、身もふたもない?ことを言います。

「神なんていない」。

そう、いわゆる「救いの手を差し伸べてくれる神」なんてものは存在しません。

この世に救いがあるとしたら、それは「自分自身が自分を救うという救い」だけです。

無条件に与えられる救いはこの世界にはない、、、。

救われるかは「全て自分次第」。

、、、はい、神が試練を与えているのではないんです。

「自分が自分自身に試練を課している」に過ぎません。

自分で自分を生きにくくしているだけなんです。

そう、自分の考え方次第で世界は生きやすくも生きにくくもなるといっていいでしょう。

神なんていらないんです。

いうなれば、「あなた自身の意識があなた自身の世界を定義する神」。

自分で自分を救ってまいりましょう。

では、ゆるりとおおくりします。

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神は死んだ?いや、そもそもいない!

ニーチェはいいました。

「神は死んだ」と

ま、ここで改めてニーチェさんの思想について深く考察を加えることはしませんが、そもそもわたしはこの世界に「神など存在していない」という立場をとっています。

もちろん、神の考え方によっては存在するといえるのかもしれませんけどね。

個人的には神はしいて言うなら、「生きている個人の意識それぞれである」みたいに思っています。

そう、人は自分自身を起点として世界を認識しているので、いささか極論ではあるものの「世界を認識している自分の意識が神」であるといってもいいのでないかって話です。

自分が死んでしまえば、今存在しているこの世界は認識できなくなるため「ないのと同じ」といえます。

ま、おそらく本当に存在しているんですけどね。

ただ、生きている当人からしたらってことです。

なので、世界がどうあるかもそうでしょうが、「あなたがどう世界を認識するか」によって世界の見え方は違ってくるといえるかと思います。

ここからは極論なので、あまり真に受けてほしくないのですが、あなたがもし

「誰の死も悲しくないし、どんな理不尽もただあるがままに受け入れられる。この世に何ら嘆くようなつらさを感じることは片時もない。自分の死も全く怖くはない。死が迫ったらそれをただ受け入れてよい」

と心の底から思えるとすればどうでしょう?

この世界に起こるあらゆる事柄に胸を痛めることは何もないし、世界にどうあってほしいとも願うことはないのではないでしょうか?

そうなれば、どんなことも問題ではありません。

世界はただなるようになって人がただ死んでは生まれを繰り返していく退屈な世界です。

いえ、すいません。

退屈という感覚すらないでしょうね。

その世界には何らの色もなく、生命はただ時間の経過とともに朽ちてはよみがえるを繰り返すだけ、、、。

あなたは試練だ何だと嘆いたり気を張ったりすることなんてないと思います。

ただ、世界の移り変わりを眺めていずれ死んでいくだけです。

、、、世界の感じ方ひとつで生きやすいかは変わると思いますね。

そのような意味ではあなたの中の意識は「神」とすら呼んでいい存在だと思います。

試練を与えているのは自分だ

さて、ここからは少し現実的な視点に戻りましょうか。

試練ってそもそも何でしょう?

語義を調べてみると、、、

信仰・決心のかたさや実力などを厳しくためすこと。また、その時に受ける苦難。「厳しい―を受ける」「―に耐える」

引用

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%A9%A6%E7%B7%B4/

ふむ、つまり試練によって人は「決心の固さや実力を試されている」というわけですね、、、、。

はい、「試されている」なんていうと「誰がわたしを試しているんだ?」と思うはず。

で、その試している者は結局のところ、「あなた自身」なんです。

あなたは基本的に経緯はどうあれ「自分自身でそれをやるかどうかを選択している」んですね。

何かをやめたい時は「それをやめるべきかを自分で選択する」ことになります。

もちろん、「ブラック企業をやめたいけどやめられない」なんて場合は、「自分じゃあどうしようもないだろ!」て思うかもしれません。

しかし、個人的には確かにいろんな障害はあるけれど、自分で選択することは不可能ではないと思っています。

自分が「その企業をやめる」ことを目標とするなら転職先を確保して置いたり、企業に対して法的に対抗する準備をしたりできるかもしれません。

すぐにやめられないなら、やめるための準備を着々と整えていくこともできるのかもしれないって思います(もっとも、これは綺麗事かもしれない)。

外部の公的機関等の援助を仰ぐこともできるでしょう。

少し無茶な言い分かもしれませんが、ブラック企業をやめるという意思を選択するのは結局「自分自身」です。

やめようとするからには「自分のやめたいとする意思を自分で試している」とも言えますね。

だから、「神が与える」大層な試練なんて別にありません。

全部自分自身で選択しているだけです。

「自分の選択をどうしても実現させたい」という意思を自分自身で試しているって話。

世の中は理不尽が普通

世の中には理不尽があふれています。

そもそも、理不尽とは「道理に合わないこと」です。

道理っていうなれば正論とか物事の筋道のことですが、そもそも「正論ってものはない」て話なんですね。

ええ、こんなこと言うと「は?」て言われるかもしれませんけど、「正論なんてない」って思います。

つまり、「何が正しいとか間違っている」なんていうものはないんです。

それは常識やらなんやらで「正しいとされているだけのもの」に過ぎません。

ま、あんまり突っ込むとやばいんですけどね、ここ(笑)。

なので、世の中って理不尽であふれているんですよね(ていうか、本当は理不尽すらないのかな?)。

だから、人生は「うわあ、こんな理不尽やってらんないわあ」てことが沢山あるんですけど、その理不尽に対していちいち腹を立てたり落ち込んでいるとまあ、、、人生どんどん詰まらなくなるし生きているのがやんなってきます。

すぐには無理であっても、やはり嫌な事に遭遇しても「その嫌な気持ちを放っておける」ように慣れたらベストでしょう。

わたしもまだまだ自戒を繰り返す毎日です。

いちいち嫌な気持ちを相手にしてたらそれだけで人生終わってしまいますからね。

嫌な気持ちをスルーする方法については以下の記事からどうぞ。

救うのは神ではない。自分だよ

上述したように、「神なんていない」です。

しいて言うなら、「あなたの意識が神のようなもの」といえるでしょう。

これはわたし自身の持論にもなりますが、「人が誰かを救うことなんてできない」と思っています。

あるのは「自分自身で自分を救うこと」だけかなってことです。

ただ、「本人が救われるきっかけ」を他人が与えられるとはおもっています。

そして、そのきっかけを「ものにするのも本人次第」です。

いつも自分を救うのは結局いつでも自分。

人生は自分による重要な選択の連続です。

自分自身の意思によって選択することが大事なんですよね。

人から押し付けられた試練なんてものをこなす人生程納得のいかないものはないですよねえ。

やはり、主体性をもって人生は生きていきたいものです。

そして、主体性を発揮するには自分の人生において大事にしていきたい「価値」を見出すことが大事といえます。

価値の探し方については以下の記事等を参考にしてみてくださいな。

参考記事等

おわりに

この記事は「神は乗り越えられる試練しか与えないは大嘘。試練を作り出してるのは自分自身だ」と題しておおくりしました。

はい、すこーし極論じみた内容になってしまった感はありますが、「神なんていない」です。

救われるかどうかは「全部自分の選択」だと思います。

神が試練を与えているのではありません。

「自分自身が自分に試練を与えている」にすぎないんです。

神なんかに人生を預けるのではなく、「自分自身の意思と選択」で人生を突き進んでいきたいものです。

「神なんていない」。

、、、、しいて言うなら、

、、、『あなたの意識が神だ』

では!

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